霧の中を行けば覚えざるに衣しめる
夢の中の異世界では、決して衰退することなどなかった。
俺の辞書には、「盛者必衰」という言葉はない、と言わんばかりに、勝ちしかない世界であった。
しかし、全ての魔物を倒し、全ての人の尊敬を集め、あらゆる豪華な物を手に入れられる毎日というのは、すでに飽きがきていた。
浅ましい想像力で妄想できる程度の欲望は、全て叶えられていた。
この世界には、インターネットもなければ、テレビやゲームもないから、暇つぶしといったら、魔物狩りぐらいのものだったが、それも終わってしまった。
そうした技術面での不可能性を除いて、全てが思い通りになる世界というのは、ある意味ものすごく単純な世界である。
この退屈は今に始まったことではない。
多少苦戦する相手もあったものの、ほとんどの敵は一撃で片づけられてしまうし、武器屋で買えないものもないし、自由にならない異性もいないのだから、不自由や想定外というものがほとんど存在しないのだ。
だから、頭で描いた妄想のとおりに、物事が進んでいく。
もう少し不自由さがあれば、退屈しのぎにもなっただろうに、皮肉なものである。
最初のころは異世界の夢は3日に1日程度しか見ていなかったが、最近はほぼ毎日、この世界に運ばれる。
最近では、自由で思い通りになる世界にいる7、8時間というのは、逆に苦痛の時間になっている。
手に入らない一条さんや岩倉さんを追うことが、自由に手に入る一条さんや岩倉さんによく似た人物と関係を持つことよりも、刺激的なこともあるはずだ。
せめて、近未来社会だとか、別の惑星だとか、そうした別の異世界にまた転生できれば面白いのかもしれないが、今の状況だと、とっくの昔に魔王を倒してしまったRPGのゲームソフトを延々と何百時間もやりこんでいるようなものである。
当然、別のゲームソフトが欲しくなるわけだ。
しかも、これならば、普通の睡眠のように、整合性のない夢を見て、朝には忘れているというものの方がマシだろう。
ずっと転生したくて来た異世界、それも何でも思い通りになる異世界だが、それすらも退屈なものに感じさせるというところに、時間や慣れの恐ろしさを痛感する。
転生した先の異世界から、どうやって脱出するのかはわからないし、そんなことを知っている人間がこの世界にいるとも思えない。
目覚ましが鳴る。
紘介は、やっと、現実世界に戻ってくることができた。
しかし、また夜になれば退屈な異世界に行かなければならない。
異世界転生の夢が紘介の絶望にあるとすれば、異世界からの脱出手段は、絶望からの解放であるかもしれない。
そんな思いから、翌週の週末に、お寺の座禅会に行くことにした。
禅は何やらアメリカの有名企業の創業者なども熱中していたようだし、やってみることで新たな世界が開け、絶望から抜けられるかもしれない。
何となく思い立って、ネットで探してみたのだった。
東京から少し離れたところにあるお寺だったが、その分、自然が豊かで普段のストレスから解放されそうな気がする。
お坊さんに座禅の組み方を習い、2時間の座禅を組む。
何もしないというのは、通常、苦痛なことであり、起きている以上、何かをしたくなってしまう。
さすがに一度に2時間というのは、初心者には難しいので、途中で10分程度の休憩があった。
「初参加ですか?」
と隣の人に聞かれる。特に新たな人間関係を築きたいという気もないので、うっとおしく感じたが、話してみる。
「そうですね。何回か来ているんですか?」
「これで3回目ですね。私は、どうやったら変性意識に入れるかということに興味を持っていて、たまにこうしたところに通っているんですよ」
何やら「変性意識」なる怪しげな単語が出てきたが、とりあえず乗っかってみる。
「変性意識って何ですか?」
「日常的な意識じゃない状態ということです。怪しんでいるかもしれませんが、ちゃんと科学的に説明されているものですよ。催眠術をかけるときとかに使うものですが、これを上手くコントロールすることができれば、ビジネスやスポーツのパフォーマンスを上げることもできると言われています」
「どうするとそういう意識になるんですか」
「それを研究するために、こういうところに来ているんですよ。お酒を飲んで入る人もいますし、瞑想をする人や、無理やり勉強して大量の情報を頭に入れる人もいます。変わったところでは、サウナと冷水の風呂を行き来するだけでも入れると思いますね。入り方によってはかなり健康には悪いと思いますけどね」
「それで、実際にその状態に入れたことはあるんですか?」
「ありますね。でも、私は入りやすい体質ではないと思います。私は、手を触れずに気を使って相手を飛ばす武道家なんかは、この変性意識状態を利用した催眠をかけていると思うのですが、案の定、そうした道場に行ったときには、最初に呼吸法を含めた体操をやらされて、変性意識状態に入れようとしてきました。それでも、なかなか入れず、結局、私は飛ばされませんでしたね」
「本当は、東大生なんかが入りやすいと言われているんですよ。特に官僚なんかは一字一句、言葉を気にしているから、簡単に言葉のマジックにかかりやすいのだとか。私なんかはあまりそういうタイプじゃないから、かかりにくいのかもしれません」
どこまで彼の話を信じて良いのかわからなかったが、休憩を終え、再び座禅を組む。
瞑想や座禅に慣れた人であれば、体がぽかぽか温まってくると言う人もいるようだが、その感覚が、彼の言っているものなのだろうか。
あまりわからなかったし、彼は「科学的」というものの、深く入り込むと危ないような気がするので、座禅を終えた後は彼とは話さずに帰ろうと心に決めた。
最初から無心になるのは難しいんだろう。取り敢えず目を閉じて座っているが、桐野さんのこと、岩倉さんのことなど、頭から離れない。
来る前よりはすっきりしたようにも感じるが、果たしてこれが座禅というものなのかはわからない。
また今度行くという気にもならなかった。
結局、その日の夢ではまた異世界の中にいた。
こちらの世界で暇を持て余すのであれば、いっそのこと、こちらで座禅を組み続けていれば良いのかもしれない。
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