娑羅双樹の花の色
それから1週間が経った。
桐野さんのことは忘れるわけがなかったが、社内での桐野さんの噂は少なくなった。
まだ桐野さんの席は空席だが、荷物が整理されており、桐野さんがそこにいたことが、まるでなかったことのようにされている。
あれから、一条さんとはまだ話していない。
相変わらず、紘介の目の前を横切っていくのだが、いつもと顔つきは変わらない。
紘介が同期に呼ばれて桐野さんの席に行ったときも、周りに一条さんはいなかったから、本当は大して深い仲ではなかったのかもしれない。
二人の仲を知る人は、当事者である一条さんだけだし、そんなことを一条さんに問い詰めるほど野暮ではないから、一生真相はわからないだろう。
岩倉さんは、早くも仕事に慣れ、笑顔を振りまきながら回りの社員に話しかけるから、課内の人気者になっていた。
もう紘介が教えることもあまりないから少し寂しいし、あれから毎日彼女は弁当を持ってきているので、昼食にも誘えなかったが、それでも彼女が隣の席にいるというのは、心の支えになっていた。
桐野さんが、自殺のことを勇気のある一歩と言ったことから、紘介もひょんなことでその一歩を踏み出してしまうかもしれない。
いや、岩倉さんが入社してこなかったら、きっとその一歩を踏み出していたことだろう。
今日は、岩倉さんの歓迎会だった。
2か月前に異動してきた吉田課長は大の飲み会好きで、事あるごとに理由を付けて課員を飲み会に誘っている。
早く切り上げた人から近くの居酒屋に集まり、飲み始める。
岩倉さんは人気者だから、紘介は少し離れたところにしか座ることができなかった。
「練習」と言って、全員が揃う前からビールを飲み始める。
ビールを飲むと、未だにオーストラリアのペールエールを思い出す。
岩倉さんは、前の会社で接待飲みをしていただけあって、気持ちの良い飲みっぷりであった。
20時には全員が揃い、ようやく飲み会が「正式に」スタートとなった。
吉田課長が簡単に挨拶をするが、あまり「簡単に」ではなく、参加者が飽きてしまっているのが目についた。
当の課長は、岩倉さんの目の前の席を譲ってもらっていて、大変満足した様子だ。
2次会に行く前に課長は帰ってしまったから、2次会では岩倉さんの斜め前の席に着くことができた。
目の前は万年平社員の井上さんだ。
結構酔っているようで、井上さんは、
「岩倉さんって、彼氏いるの?」
と聞く。井上さんは独身だが、20歳ぐらいは年上なので、まさか岩倉さんを狙ってはいないものと信じたい。
そして、こんなプライベートの質問は、社員のプライバシー保護やセクハラ防止に厳しい昨今では、なかなか聞くことははばかられるので、紘介は気になりながらもできていない質問だった。
「いますよ。大学のときの先輩です」
聞きたくはなかったが、予想はできた回答だった。
しかし、今まで既婚者である一条さんに思いをはせていた彼にとってみれば、それはさして大きな障壁ではないようにも思えた。
だが、だからと言って、岩倉さんを食事に誘うなんて器用なことができないのが、紘介の悲しいところである。
結局、「彼氏がいるならやめておこう」と自分に言い聞かせ、遠い距離から片思いでいるだけで、一条さんに対するものとは変わらないのである。
終電が近いからと、2次会を終わらせ、家に帰る。
風呂に入り、紙を乾かしながらテレビをつけると、前に紘介がチラシを渡された政治家が出ている。
小栗という政治家であったが、何やら、スキャンダルのようで、マスコミの前で謝罪をしている。
政治には大して関心がないので、歯を磨いてすぐにテレビを消す。
あのときは成功者のように思えたこの政治家も、今ではマスコミにやり玉に挙げられていて、多くの国民を敵に回している。
こんなことが起こり得るなら、政治家なんてならない方がマシだな、と紘介は思った。
栄枯盛衰、盛者必衰、人間万事塞翁が馬と言ったところか、飛ぶ鳥を落とす勢いの人でも、いつかは衰退する。
それを考えたときに、だからこそ桐野さんは今命を絶ったのかと思った。
紘介が、30歳を迎えてからの人生において得るものよりも失うものの方が大きいと感じたように、桐野さんも、今が人生の一番ピークであり、だからこそそこで命を終わらせようと思ったのかもしれない。
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