恋するわたしは狂っている。そう言えるわたしは狂っていない。

紘介たちのオーストラリア訪問から、約3か月が過ぎ、日本はすっかり寒くなってコートなしには出歩けないようになっていた。


季節が反対のオーストラリアでは、いよいよ夏で、ビーチに人が集まっていることだろうが、ここには、あの刺すような光の太陽もない。


一条麗香と紘介の関係は、相変わらず平行線であった。

一条さんと桐野さんの関係はわからないが、少なくとも紘介が見る限りでは何の変化もない。


桐野さんは相変わらず国際部門で活躍しているようだ。



いつも通りの時間に、いつも通りの席に着き、いつも通りにパソコンを開く。


これがあと30年以上も続くなんていうのは、気が遠くなりそうだ。


あの若くて美しい一条さんが、紘介の前を通るのだけは変わらないでほしいが、そんなことは非現実的である。


ただ、夢の世界で魔王を倒した勇者は、一条さんの生き写しである(生きてはいないのだが)、姫との結婚を許されていたし、1日の間で夢の中にいる7〜8時間程度は、いつまでも若々しく、彼が独占できる一条さんと一緒にいれるのだった。


けれども、問題なのはあとの16時間であって、この現実が相変わらず冴えない日々なのだ。


とりわけ仕事が忙しいわけではないが、楽しいわけでもないし、つまらない事務作業を繰り返しているだけである。


ひたすら穴を掘り続け、堀った穴を埋められて、また同じところを掘り続けるという作業が刑罰となり得るのなら、紘介の日常は刑罰と何の違いがあろうか。


それは、彼がもっと刺激のある日常を送るための努力をしてこなかったことへの刑罰であるのか。


今日から新しい社員が課に配属されるとのことで、入江係長は社内の案内のために出ている。


昼を食べて戻ってくると、その新入社員はいた。


そして、その新入社員に紘介は一瞬にして心を奪われてしまった。


周囲に岩倉直子と自己紹介するその女性は、茶髪のショートヘアで背はそれほど高くないが、目が大きく、少し童顔で、それでいて大人びていて、どこか色気を醸し出している。


「有村くん、ちょっと来て」


入江係長に呼ばれる。


「今日から配属の岩倉さんだ。最初のうちはシステムの使い方とかわからないだろうから、教えてやってくれないか」


「有村です、よろしくお願いします」


というと、彼女は溢れでるような笑顔で、


「よろしくお願いします、有村さん」


と返す。


こんなことで、日常のルーティーンの流れを壊されるとは、嬉しい誤算である。


岩倉さんは紘介の隣の席で、席を近づけてパソコンを見ながら操作を教えるのは、日常のつまらぬ穴掘りのような仕事から解放されるものであった。


彼女は単に女性として魅力的であるだけでなく、紘介にできた初めての直属の後輩みたいなものだったから、それ以上に愛らしく感じられた。


翌日、紘介が出社すると、岩倉さんはもう机に座っていた。


何やら自分の机の上がいつもより綺麗なことに気付き、岩倉さんに聞くと、岩倉さんが課員の机を拭いたのだという。


前職の職場での新人の風習らしかったが、そんなことはしなくても大丈夫だと伝える。


昨日教えきれなかったところまで話していたら、昼になってしまった。


「い、岩倉さんはお昼はどうしますか?もし良かったら、一緒にどうですか?」


紘介は女性をスマートに誘う術など身につけていなかったが、勇気を振り絞って単刀直入に聞いてみる。


岩倉さんはあっさりと了承した。


しかし、具体的に何かプランがあったわけではない。


普段行く小汚い定食に連れて行くのもはばかられたし、近くの有名ホテルに入っているそれなりに敷居の高いレストランに連れて行くのも、やり過ぎのような気がする。


今になって、いつもの行動範囲の狭さを後悔させられる。


仕方なく、駅から会社に向かう途中にある、いつもの定食屋よりは綺麗なレストランに行くことにした。


昼食どきの混雑で、入るのには10分ぐらい待たなければならないという。


待っている間、これという話題があるわけではなかった。


紘介はこうしたときに、場をつなぐのが苦手である。


「い、岩倉さんは、この部署を希望してきたんですか?」


「企画部門を希望していたんですけど、人気が高いみたいで、ここに配属になりました」


「そうなんだ。でも、何年かして認められれば、きっと企画部門にも行くことができるよ」


「有村さんは、希望されたんですか」


「いや、僕は特に希望はなかったんですよ、たまたま入れた会社でたまたま配属されたっていうか」


紘介は、大学四年の就職活動でひたすら不採用が続き、20社目で受けたのがこの会社だった。


業界では大手であるのだが、紘介が志望していた金融やコンサルとはかけ離れた業界で、関心も少なかった。


たまたま縁があって採用してもらったものの、他の会社が彼を引っ張ってくれるのであれば、転職も考えるだろう。


「岩倉さんは、なんで転職したんですか」


この質問は地雷を踏むようなものかもしれないと恐れつつ、つい聞いてしまった。


「前の仕事も好きだったんですけど、忙しすぎたんですよね。ほぼ毎日、日付が変わるまで残業か接待の飲み会ばかりで、自分の時間がなかったんです。退職してから、ここに転職するまで3ヶ月あったんで、それでだいぶ回復しましたけど、辞めるときにはもう疲れきってしまっていて」


「たまに忙しい時は10時ぐらいまで残ることもありますけど、この会社はそこまでの残業はないから、安心してください」


事実、紘介は10時以降まで残業したことがなかった。


少し経って、ようやく席に座ることができた。


紘介はハンバーグランチ、岩倉さんはパスタランチを注文する。


過去の仕事内容や、大学時代のサークル、趣味の話など、他愛もない話をして昼食を取り終える。


「いいですよ、ここは払っておきますから。一応、先輩だし」


と言って、二人で2180円の会計を先輩ヅラして払う。

岩倉さんは、律儀に「ありがとうございます、ごちそうさまです」と礼をした。


普段、女性と二人で歩く機会すらあまりないから、一緒に会社に戻るのも、どこか気恥ずかしい。


席に戻るところで、一条さんとすれ違う。

いつもなら目を奪われるところだが、とてもそれどころではなく、岩倉さんとの世間話を続ける。


一通り教え終わってしまったので、午後は自分の仕事に戻るが、いつまた岩倉さんが質問をしてくれるのかと、もどかしくてあまり仕事が手につかない。


定時になり、紘介は席を立つ。


岩倉さんは、定時に帰るということに抵抗があるのか、まだパソコンをいじっている。


「まだ2日目なので、あまり頑張りすぎなくていいですよ。お疲れ様です」


と言って、会社を出る。


家に帰り、支度を終えて布団に入る。


岩倉さんの存在が自分の中で大きくなっているのを感じた。


昼にすれ違ったとき以外にも、一条さんは何度か彼の目の前を通っていたが、以前ほどに気を引かれることはなくなっていた。


プラトンの思想における、かつてイデア界で一緒だった片割れとまで、思い入れていた一条さんに対する思いが、相対的に低下してきている。


岩倉さんは一条さんとは全く異なるタイプだ。


一条さんが色白、黒髪、高身長で鼻の高い美人であるならば、岩倉さんは可愛い系と言っても良いかもしれない。


性格も、一条さんは大人しめで、おしとやかな麗人といった感じだが、岩倉さんは明るく、誰にでも話しかけて気配りをするようなタイプである。


結局、人を恋愛対象とするのに、属性なんてものは大した意味をもたないのかもしれない。


一条さんは紘介がこれまで考えていた「理想のタイプ」である属性を備えていたが、岩倉さんはあまりそれに当てはまるわけではない。


心理的な距離感が物理的な距離感に比例すると仮定するならば、席が隣の岩倉さんに分があるものの、必ずしもそういうわけでもないだろう。


一条さんが既婚者であり、岩倉さんが(ほぼ間違いなく)未婚であるためだろうか。


紘介は、オープンソースインテリジェンスという大義名分の下に、「岩倉直子」の名前をインターネットで検索してみる。


大学時代に作ったであろうSNSのアカウントが見つかる。


1996年10月26日生まれ。島根県出身。A大学卒業。元ハンドボール部所属。


彼女を構成する記号が頭に入ってくる。


これらの記号は、彼女を理解するのには役立つが、それらが仮に彼の「理想のタイプ」と異なるものであっても、彼の岩倉さんに対する思いが揺らぐわけではない。


恋は盲目であり、直感的に恋愛感情を向けられれば、都合の悪い情報は、そのまま目には入ってこない。


ロラン・バルトは「恋するわたしは狂っている。そう言えるわたしは狂っていない」と書いたが、これは一種の狂気と言えるかもしれない。


もっとも、既婚者であるということを除けば、一条さんは紘介が思い描く「理想のタイプ」の条件のほぼ全てを満たすのである。


それをもって、彼は一条さんを片割れと信じていたわけだが、奇跡的に完全に理想である人が現れたとして、その人を唯一無二の恋愛対象だと言い切ることは理論上不可能である。


「色白、黒髪、高身長で鼻の高い美人」はこの世界にいくらでもいるのだから、一条さん一人に絞られるわけではない。


また、あと100個ぐらい条件をつけて、人生で会った人間の中で一条さんが唯一その条件を満たす女性であるとしよう。


しかし、今後、彼の目の前に同じ条件を満たす女性が現れないという保証はないのだ。


全く同じ条件の異性が前に現れたとき、人はどうやって理性的に一人を選ぶことができようか。


属性や要素、言語で人を認識している限り、どこまでいっても人は他の人と交換可能なのだ。


結局、一人を選ぶという行為の背景には、偶然の積み重ねがあるわけで、理性よりも偶然というものを評価しなければならなくなる。


ちっぽけな人間一人が、どこまで賢くなったところで合理的判断なんてものはできないだろうが、こと恋愛においては、それが顕著である。


これまで幾ばくの人が味わってきた恋愛における後悔というものの背景には、この世界における、そもそもの構造的な欠陥があるのかもしれない。


日本のとある総理大臣は、大学教員時代に、お見合いを成功させる方法について数学的に研究した論文を発表していた。


数学的に考えるのであれば、人生で恋人として現れる人の数が20人だとして、いずれも一度別れたら再度付き合うことはないとすれば、最初の5人とは絶対に別れなければならない。


そして、次の5人の中に、今までで一番良い人が現れたとき、その人と結婚するのが良い。

そこで現れなければ、次の3人で今までの1位か2位、次の2人で今までの3位以上…のようにしていくというのだ。


実際には、世の中ではこんな理屈は通用しないから、限られた機会の中で、限られた合理性を持って判断しなければならない。


だから、金甌無欠の完璧な恋愛というのは、存在しないのだろう。

その他の物事においても完全無欠というものは存在しないのだから、至極当然のことであるかもしれない。


いずれにせよ、長らく紘介の心の奥の玉座を占めていた一条麗香は、今、立ち去ろうとしている。そして、その空位に岩倉直子が入ろうとしているのだ。

いや、岩倉直子が一条麗香を押しのけたと言った方が正確な表現だろう。


結局、そこに座るのは、一条麗香であろうと、岩倉直子であろうと、あるいは苗字も知らぬアレキサンドラでも良いのだろう。空位でないのであれば。


そうもしている間に、紘介は眠りに入っていた。


その日の夢に、岩倉さん似の「都合の良い」女性が出てきたのは、言うまでもないだろう。

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