壁に窓をつくる

車はそのままパラマタに向かっていく。


「パラマタというのは、変わった英語ですね」


紘介が訊ねる。


「パラマタというのは、アボリジニーの言葉です。意味は、水源地だとする説と、うなぎの生息地だとする説があります。オーストラリアには、アボリジニーの言語に由来する地名が多いですよ。たとえば、シドニー市内にもウールームールーという地名があります」


「カンガルーも、上陸した英国人が『あれは何だ?』と聞いて、答えた『わからない』というアボリジニー語らしいですね」


佐久間係長がどこかで聞いたことがあるようなうんちくを語るが、


「そういう説が広まっているんですが、実はそうじゃないみたいで、アボリジニー達もカンガルーのことを『カンガルー』と呼んでいたようですね。いずれにせよ、英語にないような音の響きは、アボリジニーの言語に由来していると考えていいでしょう」


「そういえば、カンガルーはまだ見ていませんね」


「この辺りは都会なので、まだカンガルーはほとんど出ないでしょうね。カンガルーと言っても、小さいものは『ワラビー』と言うんですよ。少し郊外に行くとたくさん目にしますね。何でも、数年前にはハーバーブリッジにまで現れたそうです」


そして、カンガルーとワラビーの間のサイズのものを「ワラルー」と呼ぶらしい。


安直な気がするが、そもそも、一般の人にカンガルー、ワラルー、ワラビーの違いがわかるのか、疑問である。


「パースの近くの島で、ロットネスト島というところに行くと、クオッカワラビーというワラビーの種族がいて、これがまた可愛いんです。何でも、日本の有名な電気ネズミのキャラクターの元になったと言う人もいるぐらいです」


兼松さんは、シドニーだけでなく、オーストラリアのさまざまな地域に行ったことがあるらしい。


「さて、そろそろパラマタに着きますよ」


パラマタ駅だという建物が見えたので、おそらくこれが街の中心部なのだろうが、シドニー市内と比べると、やはり活気が少ないように感じる。


高層ビルも少なく、建設中の建物が多い。


昼食に東南アジアの麺料理だという「ラクサ」を食べた。


東南アジアの麺料理というと、ベトナムのフォーや、タイのパッタイなどが思い浮かぶが、それらともまた違う、オレンジがかったスープの少し辛い麺だった。


日本では食べたことがないが、日本人の方に合わないわけでもない。


食後、4階建のオフィスに入り、昨日と同じように1時間程度の商談を終わらせる。


白人男性のおじさんと、アジア系の女性2人だったが、特に変わったこともなく、問題なく終わった。


というよりも、体良く話を流されたと言って良いかもしれない。


ビジネスの関係は進展しそうになかったが、とても愛想の良い人たちだった。


兼松さんと合流して、車でシドニー市に帰る。


「本当は、もっと行くとブルーマウンテンズという世界遺産があります。ユーカリの葉っぱが出す油のせいで、山が青みがかって見えるとのことで、そういう名前がついています。観光だったら案内するんですが、少し遠いので、またの機会に行ってみてください」


「ユーカリって、コアラが食べるやつですよね」


「そうですね。ユーカリは本当は毒がある植物なんですが、コアラはその毒の害を受けることがないんですよ。ユーカリの油は、虫除けなどにも使われますが、毒なので危険ですね。たまにユーカリ味の飴なんかも売っていますが、それは流石に味だけで、毒はありません」


ユーカリ味というのが、どんな味だかわからないが、虫除けに使われるというのだから、ハッカのようなものだろうか。


「あれは、イスラム教のモスクですね。この辺りはイスラム系の人たちが多く住んでいます。チャッツウッドは中華系が多かったですが、これから、ストラスフィールドの韓国人街やライカートのイタリア人街を通って帰りますね。他にも、ベトナム人街のカブラマッタなど、シドニーでは食だけでなく、色々な国の文化を楽しめます」


それらは、オーストラリアといってイメージしていたものとは全く違う、シドニーの姿だった。


これが、移民国家というものなのか。


東京でも新大久保や、横浜の中華街などはあるが、それらは日常的には紘介の目に入ってくるものではない。


日本への移民が増えたとはいえ、移民国家のオーストラリアでは少し様相が異なるようだ。


「さて、シドニーの夜は今日で最後ですから、食事の後はカジノでもいかがですか?」


兼松さんが聞く。


明日の昼には、シドニーからブリスベンに移動する。


「せっかくなので、行ってみますか。これも勉強ですから」


細川課長の了承を取れたので、心置きなくカジノに行けることになった。


「夕飯は、ここにしましょう」


少し古びた建物に、「HOTEL」と書かれている。


兼松さんが近くに車を止めて、戻ってきた。


「ここは、ロードネルソンというパブで、シドニー最古のパブと言われています」


「ホテルと書いてありますけど」


「昔、パブでは夜遅くまでお酒を出すことが禁止されていて、ホテルでだけ出すことができたから、夜遅くまで営業するパブはホテルと名乗っていたのです。今でも宿泊もできるようですが、その文字は歴史のあるパブである証拠みたいなもんです」


重厚な木の扉を開けて中に入ると、パブのカウンターが見える。


カウンターの上には、黒板がかけられており、そこに何やら英語で説明が書かれている。


「このパブで出すビールは、基本的に、ロードネルソンという酒で、このパブ発祥のものです。ロードネルソンというのは、英国の軍人で、トラファルガーの海戦でフランス・スペイン艦隊に勝った提督のことです。同じ銘柄ですが。ペールエール、アンバーエール、ブラックエールなどいろいろな種類があるので、好きなものを選んでみてください」


紘介はアンバーエールを選んで、注いでもらった。


乾杯をして、ビールが半分なくなったころに、ピザとポテトが運ばれてくる。


それに少し遅れて、ビーフパイも届いた。


兼松さんは、車を運転しなければならないので、「一杯しか」飲まなかったが、紘介たちは他の種類のビールも試してみた。


Nelson's Blood、つまり「ネルソンの血」と名付けられたビールは、ブラックエールでまさに真っ黒なビールである。味も、少し苦みが目立った。


一通り店を満喫したところで、外に出ると、もう真っ暗になっていた。


「これからカジノに行きますが、その前に少しこちらに来てみてください」


言われるがままに、兼松さんについていくと、そこには公園と呼んでいいのかわからないが、芝生に覆われた海岸の広場があった。


「ここは、バランガルーというところで、再開発で作られた緑地です。オーストラリア固有の植物などを植えています。シドニー湾を目の前にして、昼間なんかはここでゆっくりするのも気持ちいいものです」


昼間の景色はわからないが、夜の闇の中では、きれいなはずの海も黒くてその美しさがわからない。


黒い海の上を、いくつかのフェリーが横切っていく。


「ここまで車で迎えにきますので、少し待っていてください」


兼松さんはものの2分ぐらいで車に乗って現れた。そして、そのままダーリング・ハーバーの夜の海を横目に、カジノへと向かった。


カジノの入り口のエスカレーターでは、黒服の男性が身分証を確認していたので、パスポートを見せて中に入った。


「ルーレット、バカラ、スロットなど、好きなものを試してみてください。ここのカジノが変わっているのは、あそこに麻雀卓もあることですね。たまにしか使われてはいないようですが」


紘介はカジノなど初めて来たものだから、名前を挙げられてもわからない。


ただ、ルーレットなら何となくわかる気がして、桐野さんについてきてもらい、ルーレット台に向かった。


桐野さんが教えてくれるままに、10ドルをチップと変えてもらう。赤と黒のどちらが良いかと聞かれ、赤のところにそれをそのまま置いてみる。


ルーレットのディーラーはルーレットを回し、玉を投げ入れた。


玉は、ルーレット上で跳ねながら、その回転がゆっくりになっていくにつれ、おとなしくなっていき、一つのマスにはまった。


それは、「黒」であり、紘介の最初の賭け事は負けに終わった。


1時間はいただろうか。これ以上お金を失う気はなかったが、周囲の他の台や、トランプ、スロットの台などを見回って、雰囲気だけ楽しんでいた。


次第に、派手なドレスに着飾った女性たちが目につき始める。


「あの女性たちが気になりますか?ここにはクラブもあって、あの女性たちはこれからクラブに行くんですよ。ここのクラブはあまりわかりませんが、ご興味があれば、クラブにも案内しますよ」


クラブなど紘介には縁のない世界だ。チャラい男女たちが、夜の六本木に繰り出して、向かうところであった、紘介みたいなものが行けば、浮いてしまうに違いない。


「オックスフォード・ストリートのクラブなどでは、同性愛の方向けのクラブなんかもあります。いろいろな楽しみ方ができますよ」


同性愛とはもっと縁のない世界だ。


シドニーでは、毎年3月にオックスフォード・ストリートで世界最大級のLGBTの祭典、「マルディグラ」が開催され、同性愛者のパレードに市長や軍、警察なども参加する。


街中でレインボーフラッグを見かけることも少なくない、世界で最もLGBTに寛容な国の一つだろう。


日本では、同性愛者であることが、いじめの原因となり、自殺に至るケースもあるが、この国では、自身がLGBTだと公言することは、もう抵抗の少ないものである。


そして、この年に一回の祭典は、観光でも有名で、LGBTに関係のない人たちも見物に訪れるのだ。


もっとも、「マルディグラ」という名前は、フランス語で「肥沃な火曜日」を意味していて、キリスト教の祝賀的なイベントであるため、それをLGBTと結びつけることには嫌悪感を覚える人もいるようである。

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