気の妙用
ホテルに戻り、荷物を整える。
明日には、このホテルともお別れだ。
シドニーには二度と帰ってこないかもしれない。
翌朝、スーツケースを持ってロビーに行くと、既に兼松さんが来ていた。
他には誰も来ていなかったので、気まずく感じながら質問をしてみる。
「兼松さんは、日本に帰ることもあるんですか」
「年に1回は帰るようにしていますね。こんなことを話すのもなんですが、2年前に父が他界して、今は母が一人で地元に住んでいるんです。一人息子なので、もっと帰ってあげたいものですがね」
この質問は、あまり良くなかったと反省する一方、唯一の息子が7000kmほど離れた土地で生活するというのは、どれだけ寂しいことなのだろうかと考えさせられる。
そうもしている間に、他の3人がロビーに集まったので、これ以上この話を進めなくて済んだ。
空港までは、来たときよりも空いていたようで、あっという間に着いてしまった。
カウンターの前に並べられたチェックイン用の機械でチェックインをして、スーツケースを自動で預け入れる。
兼松さんが案内をしてくれるのはシドニーだけだから、ここでお別れだ。
「ありがとうございました。兼松さんのおかげで、シドニーを満喫することができました」
細川課長が代表してあいさつをしてくれるのに合わせてお礼を言った。
「シドニーを楽しんでいただけたなら幸いです。また、いらっしゃることがありましたら連絡をください」
兼松さんに手を振りながら荷物検査をくぐる。
検査を終えたところで、職員に呼び止められ、体や靴に検査機を当てられる。何の検査かはわからなかったが、異常はないようで、すぐに解放してくれた。
搭乗時間まで、土産物屋を見ながら時間を潰そうと思ったが、毎日同じ朝食に飽き飽きして、あまり食べれなかったため、早くもお腹が空いてしまっている。
土産物屋の横には、フードコートがあり、寿司屋があった。
寿司屋といっても、半分は海苔巻きが並べられていた。
それも、日本では見たことのない種類の海苔巻きばかりだ。
紘介は無難そうなサーモンアボカドを頼んでみる。
醤油とわさびの袋が添えられて、紙袋に包まれて渡された。
早速、醤油をかけながらかじってみるが、なかなかいける味である。
当然のことだろうが、サーモンは日本のサーモンと変わらない。
日本のサーモンと言っても、天然のものではない、白い油がのったものである。
海苔巻きは、どちらかというと太巻きで、長さはあまりないからすぐに食べ終わってしまった。
日本では海苔巻きをこうして売っているのはあまり見ないので、これは日本に逆輸入されても良いと思った。
時間が来たので、飛行機に乗り込む。
国内線なので、パスポートの確認はない。
オーストラリアは大陸を横断すると飛行機でも5時間かかると聞いていたが、ブリスベンまでは1時間半で着いてしまった。
飛行機を出ると、大きく「ようこそ」という文字が見えるから、シドニーよりも日本人訪問者が多いのかもしれない。
到着ゲートを出ると、社名の書いたプラカードを持つ白髪のおじいさんがいた。
おじいさんは、白人系で白髪の短髪、目が青く、少しがたいが良い。
「待っていました。私は、ブリスベンを案内するジェームスと言います」
流暢な日本語で自己紹介をする。
一通りの自己紹介を終え、預けた荷物を回収してジェームスさんが用意した車に乗り込む。
「疲れていますか?これから、レストランに行って、その後、ホテルに行きます」
飛行機には慣れないが、日本からの便に比べれば何ということもなく、特に疲れもなかった。
「レストランですが、ハンバーガーとフィッシュアンドチップス、どっちがいいですか」
ジェームスさんに尋ねられるが、フィッシュアンドチップスはシドニーで食べたからと、細川課長がハンバーガーに決めた。
市街地に着き、車を降りる。
目の前のレストランに入り、席に着いて、ジェームスさんを待つ。
「お待たせしました。みなさん、飲み物は?ビール?ワイン?」
ジェームスさんは店に入るやいなや、のどが渇いたようだった。
日本風といったとこか、「とりあえずビール」と頼んでみる。
これまでは、ビールサーバーから注いでもらっていたが、店員は緑のビール瓶を4本と白の便を1本取って、蓋だけ開けてジェームスさんに渡した。
ジェームスさんが5本の便を持ってきて、みんなに渡す。
紘介がすかさず、机に下向きに置いてあったグラスに注ごうとするが、
「いやいや、瓶のまま飲めますよ。これは小さい瓶だから、普通はそのまま口をつけて飲みます」
いわゆるラッパ飲みというものだろうか。
学生時代に飲み会でやったこともあったが、どうもこうした席でするのには違和感がある。
「確かにこれもいいもんですね」
乾杯後、佐久間係長がいの一番に口をつけて飲んだ。
「そうでしょう」
「ところで、ジェームスさんが飲んでいるそれは、何ですか?同じサイズの瓶ですが、中身が白いですよね」
「これは、アップルサイダーというものです。シードルとも言いますが、りんごのお酒で、オーストラリアではよく売っています」
サイダーなのだが、アルコールも入っているようで、度数で言えばビールとあまり変わらないらしい。
「ジェームスさんは、なんでそんなに日本語が上手になんですか?」
ジェームスさんの日本語は若干、英語訛りは残るものの、文法的にほぼ完璧なものである。
「私は、武術や武道が好きで、日本に20年間住んでいました。だから、そのときに一生懸命勉強しました」
「武道というと、剣道とかですか?」
「剣道もやりましたが、一番やったのは合気道ですね。私、ブリスベンで合気道道場を開いて教えています」
紘介は武道なんてほとんど見たこともなかったから、空手と合気道の違いもわからない。
合気道とは、元々は柔道と同じく、日本古来の柔術の流れを汲んだもので、柔道が相手の服を掴んで技をかけるのに対し、合気道は手首を掴んで関節技をかけるなど、より遠い間合いで行われるものである。
空手は琉球発祥のもので、打撃が主な技術であるから、合気道を一目見れば、違いは明白である。
「へぇ、それは素晴らしい。お弟子さんは何人ぐらいいるんですか」
「今は30人ぐらいですが、今までには500人以上教えました」
なるほど、すごい先生らしい。
「失礼ですけど、ちなみに今っておいくつなんですか?」
「今年、83歳になりました。歳をとるとなかなか動けなくなりますね」
紘介は、てっきり70歳だと思っていた。会ってから今まで彼の動きには、老体の固さは感じられず、そこらの60代よりも若々しいのだ。
「83歳ですか。とても見えませんね。それもきっと武道のおかげなのでしょう。もし、お時間が合えば簡単に見せてもらえますか?」
細川課長は書道を嗜んでおり、日本文化に関心が深い。
「いいですよ。ちょうど、今日の夜7:30から練習がありますから、ディナーの後にお連れします」
レストランから徒歩2分のホテルでチェックインをした後、ディナーまでの間、ジェームスさんはブリスベンの市内を一通り案内してくれた。
やはり、シドニーと比べると規模は少し小さめだが、シドニー市やメルボルン市は自治体としては小さなものなので、オーストラリア最大の自治体はブリスベンなのだという。
市街地から橋を渡って対岸に行くと、サウスバンクと呼ばれる場所に着く。
そこは、植物園ようでありながら、奥に進むと人工の砂浜があり、オーストラリア人の相変わらずのビーチ好きを思い知らされる。
冬の季節ではあったが、シドニーと異なり、より赤道に近いブリスベンでは気候はあまり寒くはない。
流石に水に入る気にはならなかったが、もう少し暖かくなれば入れるだろう。
サウスバンクを一通り見て、その端っこにあるレストランで夕食を食べた。
ジェームスさんはこれから合気道だからと、一杯も口にしなかった。
紘介たちは見学者だったが、あまり酔っ払うわけにもいかないので、ビールは一杯でやめておくことにした。
ジェームスさんの車で15分ぐらいの位置に、その道場はあった。
トタンを使ったような建物だったが、土地は広く、学校の体育館を少し狭くしたぐらいの大きさだ。
これを個人で所有できるとは、ジェームスさんはお金持ちなのかもしれない。
彼らが着いたときには、既に門下生が数名集まっていた。
「こんばんは」
と日本語で挨拶されるが、日本語教師をしているという1人を除いては、日本語が分かるわけではないようだった。
ジェームスさんも着替えて準備をして、練習が始まる。
紘介たちは、椅子を後ろに用意され、そこに座って見学をする。
この日は15名ぐらいが集まり、正座でジェームスさんに礼をして、練習が始められた。
準備運動を終えると、一対一で技をかけ合う。
「受け」と呼ばれる一方の人が、ばたんばたんと投げ飛ばされていく。
中には時代劇のチャンバラのシーンのように激しく飛ばされていく人もいたが、無傷でまた次の攻撃を仕掛け、相手に投げ飛ばされにいく。
合気道というのは、気を使うものだから、触れずに相手を倒すというイメージもあるが、しっかりと触れた上で、勢いよく投げ飛ばしているように見える。
紘介は、体験に誘われたら嫌だなと思っていた。
40分ほどして、休憩に入ったようで、ジェームスさんが近寄ってくる。
「どうですか、合気道は?楽しいから、良ければ一緒にどうぞ」
先ほど、大の大人が投げられていくのを見たから、とても参加する気にはなれない。
「これも日本の文化ですから、せっかく日本にいるのに、やらなきゃもったいないですよ」
「もったいない」という言葉は英語にはないとか言うことが、よく言われるが、ジェームスさんは「もったいない」という言葉を極めてナチュラルに使う。
桐野さんは少し興味もあったようだが、運動用の服を持ってきていたわけではないので、流石に一緒にはやらなかった。
出張中に、下手なことをして怪我をするわけにもいかないので、正しい選択だろう。
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