龍の顎
ティーブレイクを終えて、建物の外に出る。
外からその建物を見たときの荘厳さは、欧州の建築物に引けを取らないだろう。
兼松さんについて、そのまま市内を回る。
大型スーパー、日系のお土産屋、アーケードなどを見回って、マーティン・プレイスなる広場に到着した。
「ここが、マーティン・プレイスです」
「シドニー市内には広場というものがあまりなく、ここは元々道だったものを無理やり広場にしたものです。某映画のロケ地としても使われていますね」
確かに、広場というには少し異様なものだった。
傾斜が激しく、そしてまさに道のように長い。
「これは、戦争慰霊碑です。Lest We Forgetと書いてありますが、これは、私たちは戦争を忘れないという意味で、毎年、ここで戦没者追悼イベントが開催されています。毎年、4月25日はアンザック・デーと言って、第一次世界大戦で戦死したオーストラリア人の追悼をするんです」
「第二次世界大戦で、日本はオーストラリアの敵でしたから、少し前までは、この案ザック・デーはあまり外には出ない方が良かったんです。最近は、あまり日本人が批判されることもなくなりましたけど」
慰霊碑の脇には、2人の軍人が背を向け合って立っている。
「日本軍がオーストラリアの脅威だったということは、この建物を見てもらえばわかります」
そう言って、兼松さんは慰霊碑の隣の建物を指さした。
そこには、時計塔のある、大きな伝統建築の建物があった。
「この建物は、元々中央郵便局として使われていたものですが、現在はホテルとして利用されています。この時計塔が特徴的ですが、時計塔から下と、時計塔で石の色が少し違うのがわかりますか」
確かに、時計塔の部分の石の色は少し白みがかっている気がする。
「この時計塔は、一回、取り壊されて再建されているのです。第二次世界大戦中に、日本軍がダーウィンを空爆しました。シドニーでも、日本軍の潜航艇が攻撃を仕掛けています。日本軍の脅威を前に、空爆のターゲットとされないように、わざとこの目立った時計塔を自ら壊したのです」
「へえ、日本軍がここまで進出していたとは、知りませんでした」
旧日本軍がオーストラリアを攻撃しなければならなかったのには、理由がある。
オーストラリアは、アメリカや英国と同じアングロサクソン系の国家であり、アメリカとの同盟関係が強い。
アメリカは日本を攻めるために、このオーストラリアとの同盟関係を利用していた。
日本軍の一大戦力として知られるラバウル航空隊が、当時、オーストラリアの委任統治国であったパプアニューギニアのラバウルを要塞としていたのも、アメリカとオーストラリアの協力関係を物理的に切断するためだった。
軍神として崇められた山本五十六元帥は、このラバウル基地から、より前線を視察するために飛び立ち、ブーゲンビル島で米軍に撃墜され、戦死した。
オーストラリアは戦時中、旧日本軍から計97回以上の空爆を受けたというから、戦後の日豪関係は最悪なものだっただろう。
極東国際軍事裁判、いわゆる東京裁判で裁判長を務めたウィリアム・ウェブはオーストラリア人であったが、彼が敗戦国の日本に対して強硬的であり、敵意を丸出しにしていたのにも、こうした背景がある。
今日、日豪関係が良好であるのは、その後の関係修復に努めた先人たちの努力の賜物と言ってよいだろう。
旧中央郵便局の建物内に入ると、赤いポストが置かれていた。
今は使えないそうだが、昔、ここが郵便局であったことを記念して置いているのだという。
表向きは歴史的建造物だったが、中からみると天井は、ガラス張りで、すでに赤みがかっている空がしっかりと見える。
階段を下り、地下一階に降りる。
「ここで、軽く夕飯でも食べていきましょう」
まだ夕飯には少し早いようにも感じたが、食事をとっていくことにした。
「牡蠣なんていかがでしょうか。オーストラリアでは大変人気ですよ。シドニー近郊で取れる、シドニー・ロック・オイスターなんてものもあります」
細川課長は前に牡蠣に当たったことがあるのがトラウマだとかで、牡蠣は嫌だといったが、あとの3人で牡蠣を頼むことにした。
「生で食べるのが一番ですが、このキルパトリックのように、少し調理したものもあります」
キルパトリックにも興味がないわけではなかったが、おすすめどおり生で食べることにした。
「私が運んでいきますので、先に飲み物を買って、席についていてください」
兼松さんに言われるままに、カウンターで酒を買うことにする。
相変わらず、ビールの種類が多く、何を選んでよいのかわからないが。一番印象的だったラベルのビールを選び、その場でお金を払って席まで運んでいった。
4人で席についてまもなく、兼松さんが大きな皿をテーブルに持ってきた。
そこには、生牡蠣が12個綺麗に並べられている。
そして、兼松さんは一緒にピザも頼んでいたらしく、もう一往復して大きなピザを持ってきた。
兼松さんが飲み物を買ってくるのを待って、乾杯をする。
「牡蠣は、レモンを絞ってかけて食べれば十分です」
紘介は生牡蠣を食べたことはなかったが。牡蠣にレモンをかけ、フォークで口に運ぶ。
柔らかなその身は、フォークから落ちそうで、あわてて口に含んだ。
潮の香りとレモンの酸っぱさが口の中を満たす。
「美味しいですね」
紘介よりも前に、桐野さんがそう言った。
ピザを片手に、ビールの3杯目を飲み始めた頃には、すっかり夜になっているようだった。
フロア内に、ドレスで着飾った若い女性が目立ってきている。
白人の年齢はあまりわからないが、20代後半ぐらいだろうか。
クラブのようなハイテンポの音楽も遠くで響いている。
「あれは、バチェロット・パーティーでしょうね」
「バチェロット・パーティー?」
聞きなれない名称だ。
「バチェロット・パーティーとは、女性が、結婚前夜に女性友達と一緒に過ごすパーティーのことです。ちなみに、男性の場合は、バチェラー・パーティーと言います。あのカーテンの奥でやっているので、見えるかわかりませんが、これはたぶん、男性のダンサーがいますよ」
「バチェラー・パーティーとか、バチェロット・パーティーは、英国圏の文化としてよくあるものですよね。男性がみんなでストリップを見に行くというイメージが強いですね」
「ス、ストリップ?」
思わぬ言葉に、聞き返してしまう。
「ストリップやポールダンスは日本では、アンダーグラウンドで卑猥な文化と思われがちかもしれませんが、ここではそんなことはありません。カップルで見に行くこともありますし、日本の有名な観光ガイドでも、オーストラリアのガイドブックにはストリップが載っていますよ」
「ポールダンスと言えば、北京の三里屯なんかでも、ガラス張りの店舗で、ダンスが外から見えるようになっていましたね」
佐久間係長が、出張で北京に行ったというのは、話に聞いたことがある。
「シドニー中心部から少し東に行くと、キングスクロスという地域があります。数年前に、治安改善の動きがあって少し寂しくなってしまいましたが、オーストラリア一番の歓楽街と呼ばれていました。そのキングスクロスに、ストリップ店がたくさん並んでいるので、もしご興味があったら行かれてはいかがでしょうか」
兼松さんが薦めてくるが、紘介は何となくいけないような気がして、足を向ける気にはならなかった。
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