一本のワインボトルの中には、全ての書物にある以上の哲学が存在している。

眼が覚めると、時間は18:30を過ぎていた。


19:00にホテルのロビーで待ち合わせをしていたので、急いで着替え、身だしなみを整える。


10分前になってロビーに降りる。Gの表記が一階のことだとわからず、エレベーターでは1を押してしまったが、どうやら1ではなかったらしい。


ロビーに着くと、すでに桐野さんが来ていた。


「ぐっすり眠ってしまいましたよ。おかげで疲れが取れました。桐野さんも寝ていましたか?」


紘介が尋ねると、桐野さんは首を振る。


「最近、あまり眠れなくてね…」


桐野さんがさんはどこかもの寂しげな表情で答える。


ここが日本であれば、その表情の背景に一条麗香がいるのかと疑ってしまう。


しかし、日本から6000km以上離れたこのオーストラリアでは、紘介の中の一条さんの影も薄くなっている。


中国のことわざに、遠くの家族よりも近くの友人というものがある。


人間関係において、距離とは重要な要素である。


紘介は遠距離恋愛というものをしたことがなかったが、きっとそれは厳しいものなのだろう。


残酷なものは、距離ではなく、時だろう。


長い間、遠くにいて、引き離されていることで、心も離れていってしまう。


どれだけ仲が良かった小学校の友人でも、大人になってみると、よそよそしくしか接しられないこともある。



5分して、全員がロビーにそろった。


兼松さんの案内でタクシーに乗り、レストランに行く。

今夜は都心の西部のダーリングハーバーというところだそうで、海を囲んで繁華街ができている。

日本で言えば、さしずめ、お台場や横浜といったところだろうか。


「ダーリング」というのは、女性が愛を込めて男性を呼ぶときの「ダーリン」と同じである。「darling」の「ng」の日本語表記は「ン」とすべきか、「ング」とすべきか。

「Hong Kong」は「ホンコン」なのに、「King Kong」は「キングコング」だから、あまり統一的な基準もないのだろう。


タクシーを降りて、夜の海を見ながら数分歩き、レストランに着く。メニューが外に置いてあるが、どうもシーフードの店らしい。


小さい机に赤いテーブルクロスがかけられている。その上に、ワイングラスとカトラリーが並べられている。


「ワインは何にしますか、オーストラリアでは、シラーズが一番有名ですね。ピノ・ノワールや、白だとソーヴィニョン・ブランがいいですね」


全く何を言っているのかわからない。


「確かに、新世界のワインでは、オーストラリアは有名ですよね。まずはシラーズにしておきましょうか。芳醇な味わいがオーストラリアらしいですよね」


佐久間係長はワインも詳しいようだ。


言われるがままに、シラーズとやらボトルで頼むことにした。


ウエイターがボトルを持ってきて、その場で開けてくれた。


最初に、兼松さんのグラスに普通の半分ほど注がれる。


これが、テイスティングというやつなのだろうが、初めてみる。


兼松さんは、ワイングラスを少し回しながら匂いを嗅ぎ、そして、グラスに口をつけた。


「Great」


と頷きながら一言言うと、ウエイターが4人のグラスを満たした。


いつもの赤ワインよりも、より濃い紫に近い色だ。


「Cheers!」


英語で乾杯と叫び、グラスに口をつける。


葡萄の濃い味が口の中を満たす。なるほど、芳醇というのはこういうことかと納得させられる。


「フランスのワインとかだと、複数種をブレンドしたものが多いですが、新世界のワインは単一の葡萄酒で勝負しているものが多い。でも、その葡萄本来の味をこうして楽しめるんだから悪くないですね」


佐久間係長が語り出す。桐野さんは、


「葡萄酒は、外交においても重要な役割を果たしているようです。外交官でも葡萄酒を嗜んで勉強している人も多いようで、私も学びたいと思っていたのですが、英国にいたので、ワインよりはビールやウヰスキーばかり飲んでしまいます」


間も無くして料理が運ばれてくる。


運ばれてきたのはシーフードの盛り合わせプレートだった。大きな皿の上に、小さな皿が重ねられており、それらにロブスター、カニ、エビ、牡蠣、イカフライなどが並べられている。


手を使ってエビやカニの殻をむくため、お手拭きとフィンガーボールが一緒に運ばれてきた。


「シーフードだから白ワインの方が良かったかもしれないね」


細川課長が言う。


「確かに白ワインもいいですが、赤ワインでも十分に合いますよ。でも、この牡蠣なんかは実は日本酒が合います。オペラハウスの近くのオイスターバーでは、日本酒も置いています」


紘介はお腹が空いていたので、ワインとの組み合わせなんてものはどうでもよかった。


もとより、大抵のお酒は飲めるし、どんな組み合わせでも楽しめるのだった。

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