美しきもののみ機能的である

異世界での俺は、伝説の不死鳥の封印を解き、その背中に乗って大空を飛んでいた。


巨大な大陸や海を見下ろし、蒼々とした空を見上げ、太陽の熱さをより身近に感じる。


地上での進行を煩わせた魔物どももこの高さまでは追ってこれない。


そして、いよいよ、辺りを険しい山脈で囲まれた大地に降り立つのだった。



---「当機はまもなくシドニー・キングフォード・スミス空港に到着します。現在の時刻は…」


機内アナウンスが彼の目を覚ます。


窓を開けて、外に目を向けると、青々とした海が見える。


先程、不死鳥の上から眺めた風景にも似ている。


しかし、次第に現代的な建物が増えていく。


高層ビルが立ち並ぶところもある。どうやら、そこがシドニーの中心部のようだ。


東京ほど大きな都市ではないが、整った街並みに見える。


東京には都市計画などない、と言った知事がいたが、東京の都市づくりは諸外国の巨大都市と比べるといささか乱雑さが目立つものである。


幾度か、統一的な都市づくりを目指した時期もあったが、成功したとは言い難いだろう。


西洋の建築学がこの都市に入ってきたとき、すでにここには百万人都市・江戸があった。


明治の世になり、遷都が行われ、江戸が東京となった。もっとも、東の「京」であることに抵抗を覚える人の間では、東京ならぬ「東亰」という言葉もよく使われた。


江戸は日本的な都市開発に基づいて、ある程度の整合性を持った都市であったが、必死に列強国に追いつこうと建設が進められた結果、カオティックな都市になっていった。


西洋の都市の中心には王宮や役所、広場、教会などがあるが、東京の中心は天守閣のない江戸城である。


ロラン・バルトが東京を訪れたとき、この東京の構造を「空虚な中心」と呼んでいる。


彼が訪日した時代はさておき、戦前の権力の中心はまさしく天皇にあり、皇居こそが権力の中心だったわけだから、この表現は少しおかしいかもしれない。


その場所がどのような配慮をもって扱われてきたかは、猪瀬直樹が『ミカドの肖像』で書いている。


ただ、戦前の時代においてすら、天皇は基本的に股肱の臣下の方針を認めるだけであったから、いわゆる欧州の絶対王政下の王よりも空虚なものであったかもしれない。


ともかく、西洋文化を急速に受け入れた日本では、様々なほころびも見えていたが、その一つがカオティックな東京の姿とも言えるだろう。


スクラップ・アンド・ビルド。一度構成されてしまったものを変えるには、破壊が必要なこともある。


1923年に関東大震災が起きたときが、東京の都市改革の絶好のチャンスだった。


東京市長も務めた後藤新平は、帝都復興院総裁として、大規模な都市計画を構想する。


あまりに大規模であったため、それは「大風呂敷」と揶揄されたのだが、幾分かは彼の思惑どおりに都市づくりが進められ、東京にも整合性が生まれていった。


第二の「破壊」は、東京大空襲であった。

ポツダム宣言を受諾し、日本が無条件降伏をしたとき、広島・長崎だけでなく、東京も空爆による甚大な被害を受けていた。


終戦後、幅員100mの巨大な道路の建設が計画された。これは、関東大震災後の後藤の帝都復興の計画にもあったものだが、帝国議会の反対により実現が叶わなかったものだ。


それが、戦後の焼け野原からの復興のため、再度、俎上に登ったのである。


しかし、この道路の建設計画はGHQによって中座させられてしまう。


巨大な道路の建設は戦勝国が行うことであって、敗戦国にはふさわしくない、というのである。


これが、今日、環状2号線と呼ばれている道路である。

長きにわたって建設がストップしていた虎ノ門-新橋間の部分は2014年になってようやく開通した。


GHQによって建設が止められたこの道路は、皮肉にも「マッカーサー道路」とも呼ばれている。


日本にはプリツカー賞を受賞した多くの世界的な建築家が生まれ、中でもその代表格であった丹下健三は海外都市の都市計画にも多く携わっている。


東京においても、丹下研究室で「東京計画1960」なるものが構想されたが、それは実現性の乏しい思考実験のようなものであって、その後の都市開発にはつながっていない。


そのため、東京には統合的なデザイナーや、根本にある思想というものが存在しないのである。


これがニューヨークや京都であるならば、人為的に作られた整った碁盤の目が見て取れる。


あるいは、キャンベラならば正三角形や六角形がそこにあるし、他の都市においても都市の軸や、中心から放射状に広がる道路のような構造がある。


東京というイメージは、無数の人々が行き交う渋谷のスクランブル交差点や、雑多な看板が並ぶ歌舞伎町の街並みに象徴されることが多いが、都市全体で見てもこうした雑多さこそが特徴になっている。


丹下健三の建築の根本思想の一つが「都市軸」である。


都市は、都市軸を背骨として、そこから発展的に広がっていくのだ。


「東京計画1960」の図を見れば、一本の線が東京湾を横断しているのがわかる。


これが彼の都市軸であり、東京の背骨となりうるものだった。


丹下が設計した広島平和記念資料館を見ると、資料館と原爆ドームが真っ直ぐな一本線でつながれているのがわかる。


これが、丹下における軸の表現だった。


もう少し見えづらい軸で言えば、東京都庁舎がある。


丹下さん新旧二つの東京都庁舎を設計している。


旧庁舎の方が建築的な評価が高いかもしれないが、今日、東京と聞いて思い浮かべるイメージの一つに新東京都庁舎があることを考えれば、新庁舎ももっと評価されるべきだろう。


新庁舎は、その構造においてはパリのノートルダム大聖堂とバチカンのサン・ピエトロ広場の現代的融合である。


ノートルダム大聖堂のオマージュである双塔が特徴的だが、双塔の間には当然ながら、空間があるのだ。


この間の空間をつらぬいて描いた線こそが、丹下が新宿副都心に描いた「都市軸」であった。


そんなものは、今日では誰も気にしないかもしれないが、東京にはミクロな軸はありながらも、マクロな軸が存在しないのである。


シドニーの観光ガイドについている地図を見ると、ジョージ・ストリートという通りが、都市の中心軸になっていることが見て取れる。


シドニーは背骨を持って発展してきた生き物なのに違いない。

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