友愛はつねに利をもたらすも、恋情は害をもたらすこともある。
橋本さんの冒険譚はこんなものだった。
面白い話であったが、恐るべき空白に足を踏み入れない紘介にとっては、大して為になる話ではなかったように思われた。
最後に、橋本さんは教えてくれた。
「オーストラリアでの挨拶を知っているか。Helloじゃないぞ、グダイ マイト(Good day, mate)だ。マイトというのは、友達のことだ。だが、若い世代は知らんが、ある程度の年代以上の人は初対面でもこの言葉を愛用する。これだけは覚えておけ」
アメリカが英国から独立する中、犯罪者をアメリカに流刑することができなくなった。
そこで、流刑者はオーストラリアに流されることになった。
こうして、流刑植民地オーストラリアが誕生した。
流刑者たちは、この大陸を自らの手で開拓していかなければならなかった。
しかし、既にそこにはアボリジニーがおり、いつ襲ってくるかわからないアボリジニーの存在は脅威であった。
団結には共通の敵が必要なものである。
敵の敵は味方。
まとまりのないこの世界も、宇宙人が攻めてきたとしたら、少しはまとまれるのかもしれない。
アボリジニーの脅威を前に、流刑者たちはみな「友達」でなければならなかった。たとえ、相手が犯罪者であっても。
(もっとも、『レミゼラブル』のジャン・バルジャンのように、当時は窃盗などの軽微な罪でも流刑されていた)
こうしてmateが生まれたオーストラリアでは、いわゆるマイトシップという友愛精神がある。
たとえ、流刑植民地時代に関係のない日本人相手であっても、mateという言葉が使われることは珍しくない。
人類みな友達なのだ。
時間は22:30を回っていた。
橋本さんが帰るというので、会は解散した。
帰り道、紘介は、橋本さんの言葉を反芻していた。
人類をみんな「友達」と呼ぶ社会では、人々はどんな悩みを持つのだろう。
ある程度において性悪説を支持したい彼にとって、人間の本質的な悪の心が大きく変わることはないと感じていた。
けれども、見ず知らずの他人を「友達」と呼ぶことには抵抗が感じられ、友達ばかりの社会では本質的な違いもあり得るかもしれないと思った。
満員電車で隣合わせになった見ず知らずの他人を、彼は容易に人間でないような存在として無視することができたが、それが「友達」であったなら話は違う。
自然と会話が生まれることもあるかもしれないし、そこから本当に友達になることだってあるだろう。
フランスの思想家で、大統領のブレーンもやっていたジャック・アタリは文明の最終目標として、「友愛」を掲げている。
人々が、周りの人々をみな兄弟のように愛情をもって扱えること。それこそが、人類の目標だというのだ。
日本の総理大臣でもこれを言った人がいたが、リアリズムの立場からはこれは容認することができず、単なるトンデモな発言とも見られている。
日本語の「愛」には、古代ギリシアでは4つの意味が込められていた。
性愛であるエロス、友人間の愛であるフィリア、家族愛のストルゲー、そして、神が全人類にそそぐ愛であるアガペーだ。
友愛の愛とは、友人愛(フィリア)を家族愛(ストフゲー)やあるいは無償の愛(アガペー)にまで昇華させることかもしれない。
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