太陽肛門

紘介はその日、布団に入って寝れずにいた。

寝れないのには慣れていたが、今日は一段と心が重く、興奮している。


眠ってしまえば、美女たちに囲まれた夢の世界に行けるというのに、彼の身体はこの鬱屈とした現実世界に留まろうとするのだった。


麗香が彼の心の中で抱かれている間にも、彼女は一条や桐野さん、そして他の誰かの手の中にいるかもしれない。


その現実を認めてしまうことは苦しいものだ。


彼の心は今にも壊れそうだった。


嫉妬は醜いものだとわかっていながらも、嫉妬を抱かずにはいられないのだった。


こんなに愛らしく、大切な麗香が他人の手で弄ばれているかもしれない。


もしかしたら、彼女は彼の想像を凌駕するような淫乱なことを今までたくさんしてきたのかもしれない。

させてきたのかもしれない。紘介以外の男に。


彼女は紘介にとっては天上界から舞い降りたような唯一無二で大切な存在だったが、その裏で、大して価値もないような男どもに弄ばれているかもしれない。


それは、まるで『痴人の愛』のナオミのように(もちろん、麗香は紘介が所有しているわけではないが)。



彼は一種のパラノイアかもしれない。


嫉妬に狂い、まともな精神状態ではなかった。

麗香が彼を裏切っているという妄想が止めどなく出てくるのだった。


ドゥルーズとガタリは、パラノイアの対極にスキゾフレニーを配置した。


スキゾフレニーの人びとの<器官機械>は<エネルギー機械>に絶えず接続され、身体の中には樹木が、口の中には乳房、尻の中には太陽がある。


彼らの中には体系的なものがない。

だから、肛門を太陽と接続することができるのだ。


「太陽肛門」といえば、バタイユの著作のタイトルにもなっている。


バタイユは、「禁止と侵犯」という概念を用いて彼のエロティシズムを語った。


禁止されているものを犯すことこそにエロティシズムがある。つまり、禁止がなければエロティシズムはないというのだ。


その意味では、麗香への接触を「禁止」させるものとして現れる「一条」は、ある程度にはエロティシズムを高める存在であるかもしれない。


そして、もし麗香と桐野さんが不倫をしているというのであれば、社会的な禁止の中で、二人がつながることは、まさに至高のエロティシズムに達するものであるかもしれない。


さらに言えば、紘介の嫉妬のような、周りのオスの嫉妬というのは、麗香を勝ち取ったオスにとっては、この上なく美味なソースになる。


バタイユの「太陽肛門」には性的倒錯が激しく見られ、医者にかかりながら、その治療の一環として執筆を続けて生まれたのが、彼の代表的な著作の一つ、『眼球譚』であった。


『眼球譚』やサドの小説のようなエログロは、活字でありながら、過度な興奮を誘うものだ。


この世でない場所での放蕩という点では、彼の夢の世界のようでもある。

それもその通りで、それらはバタイユやサドの中の夢の世界だったのだから。


しかし、彼らの夢の世界は到底受け入れられるものではなかった。


特にサドは、性的倒錯のために、長かに渡ってバスティーユ牢獄に幽閉されていた。


彼の名前からサディズムという言葉が生まれ、今日では市民権を得た性癖のように扱われているが、サドの小説にはその想像をも超える残忍さがある。


かつてドゥルーズは『マゾッホとサド』の中で、マゾヒズムの語源になったマゾッホと、サディズムの語源になったサドを比較した。


この二つの根本的な違いは、一方では否定性と否定、他方では否認と宙吊りという過程として現れるという。


まあ、そんなことは十分に理解はできぬものだ。

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