誰もいない森で倒れる木は音を立てない
今日は忙しく、結構残業をしてしまった。
21:30に退社し、駅の近くのファストフード店で食べる。
早々に食べ終えて、店を出たが、本当は彼はもう少しくつろいでいるべきだったかもしれない。
店を出たとき、彼は遠目に見てしまったのだ。
一条麗香が桐野さんと二人で歩いているのを。
桐野さんは社内でそれなりに顔が広いが、一条さんといるのは見たことがない。
すでに22時を回っていたが、こんな時間に仲良さそうに二人で歩いているなんて、いかにも怪しげである。
紘介は、一条さんも桐野さんも既婚者であることは知っている。
桐野さんはだいぶ前にお見合いで出会った相手と結婚していたはずだ。
相手の人は、会社の人にも会ったことがあるらしく、たまに社内でも話題になっているが、開業医の娘で、逆玉の輿じゃないかと言われている。
子供はいないはずだが、仲の良い夫婦だと聞いていた。
「不倫」の二文字が紘介の頭の中をよぎるが、とても彼らをこのまま付けていくことはできない心情だった。
二人は人混みの中に消えていき、見えなくなってしまった。
二人はたまたま、一緒にいただけで、待ち合わせたわけでは、ましてや不倫をしているわけではない…と思いたかった。
真偽のほどはわからないが、彼の見たものが幻でない限り、一条さんと桐野さんの関係は、少なくとも、一条さんと紘介の関係以上のものなのは確かだ。
胸がえぐられるような思いだった。
元々、一条さんが近づいてはならない存在だったのは、彼女の配偶者である「一条」の存在があったからだ。
もし、彼女が結婚していなかったら。臆病な紘介はそれでも彼女に近づくことはできなかったかもしれない。
いや、近づけなかっただろう。
結局、相手に配偶者がいるというのは、自分を引き止まらせ、安全なところに居続けるための言い訳でしかない。
でも、彼女を「一条」以外の者に取られるわけにはいかなかった。
彼にとって一条麗香は天使にも似た存在であり、決して不倫などしてはならないものだった。
彼女は紘介の理想の女性であり、理想の女性は決して不倫などしないという固定概念が彼をしばっている。
いや、きっと一条さんと桐野さんは不倫をしているわけではない。彼は自分に言い聞かす。
何か理由があるに違いない。その理由は彼にはわからないけれど。
二人とも容姿が端麗で、お似合いの二人という感じだった。
二人を知らない人が見れば、あれはカップルだと思うに違いない。
もしかしたら、一条さんと桐野さんはずっと付き合っていたのかもしれない。
彼や、他の社員が知らなかっただけかもしれない。
「誰もいない森で木が倒れたら、音はするのか」
量子力学の有名な問いである。
誰もいない森では、木が倒れたとしても、その音を聞ける人はいない。
認識できないものは、存在するとは言えない。
一条さんと桐野さんはずっと前から付き合っていたのかもしれないが、誰もそれを見たことがなく、ないことにされていた。
けれども、紘介はそれを見てしまったのだ。
誰もいない森に迷い込み、木の倒れる音を聞いてしまった。
その瞬間、木は音を立てて倒れていたという事実が現れる。
一条さんと桐野さんが仲よさそうに歩いていたという事象を確認してしまった。
彼にとっては、その瞬間に彼女たちが手をつないでいなかったことが、一条さんの聖性を保たせる唯一の救いだった。
彼は二人が手をつないでいるのを見たわけではない。
観測していないものは、存在するとは言えないのだから、二人が手をつないで歩く仲と決めるにはまだ証拠不十分なのだ。
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