三十歳で強壮でなく

新しい朝が訪れる。


紘介は30歳になった。

しかし、20歳になったときと比べれば、酒やたばこができるようになったり、地域が祝ってくれたりということもない。


この日もいつも通り、慌ただしく朝の準備をして仕事に向かった。


すれ違う人々は誰もが彼がこの日に30歳になったなんてことは知らないし、興味もない。


会社でも、そんなことには誰も気がつかなかった。


新しい人生を迎えられるなんてことは錯覚で、何も変わらぬ自分がいた。


帰り道、ちょっとした贅沢をと思い、いつもの定食にデザートを付けるが、むしろ虚しさが増すばかりであった。


親から携帯にメッセージが届いていた。30歳の誕生日を祝うものだが、最後に余計な一言。「結婚の予定は?」と。


紘介の親は栃木に住んでいるので、三連休などを利用して、年に何回かは帰省している。

27歳になったぐらいから、しきりに「彼女は?」「結婚は?」と言うようになり、帰るのが少し億劫になっているが、なんだかんだ実家の居心地は良い。


家に帰り、電気をつける。

いつも通り、衣服のちらかった部屋がそこにある。

一人で暮らすには十分な部屋だ。


結婚なんて、いつかはするのだろうけど、焦るだけ無駄だ。


30という数字に特段の意味があるようには感じなかったが、それでも一つの節目のように感じる。


人間の寿命は伸びてはいるけれど、彼は60歳まで生きれば満足だと思っていたので、人生の折り返し地点と言ってもいいかもしれない。

もっとも、早く死ぬと言っていた人に限って長生きするという話は古今東西絶えないのだけど。


舞台が原作の香港映画に「29歳問題」(29+1)というものがある。

29歳というのは、女性が若々しさを失う一歩手前であるようで、紘介よりも、同年代の女性にとっては深刻なものなのかもしれない。


女性は20代で結婚するものという固定概念は前時代的なものになったが、前時代からついてこれていない大人は想像よりもたくさんいるものだ。


半世紀以上も前の世界にノスタルジーを感じる者も絶えない。


紘介も決して時代の最前線について行けている訳ではないし、これからもどんどん突き放されるだろう。


老いるということは、見た目に顕著に現れるものだが、老いた精神とはどのようなものなのか。彼にはわからない。


若い頃に比べれば疲れやすくなった。しかし、精神年齢が上がった気もしない。


紘介はこの日、ケーキを食べなかった。

それは、一人でケーキを食べることの虚しさへの忌避感もあったが、老いるということの実感が湧かなかったためである。


20代であれば、「老いる」という表現はあまり使わない。「年を取る」や、ましてや「成長する」なんて希望に満ち満ちた表現すら似合う。


しかし、これからは少なくともその肉体においては下り坂で、「老いる」のである。

不老不死願望がある訳ではないが、老いるというのは、今でも足りないものを、更に失っていくことだ。


不老不死を求めた始皇帝は水銀を飲んだという。今日の僕たちはそれが毒だと知っているから、不老不死のために飲むなんて馬鹿げた発想はしない。


しかし、絶望しきった人間にとっては毒を飲むことは魅力的でもある。

毒を飲んで死んでしまえば、これ以上人生の苦しみを味わうこともないし、老いることもないのだから。


毒には薬になる面があるというのがプラトンのパルマコンだが、毒によって死ぬことすらも薬に感じる人たちがいるのだ。


けれども、すぐにこの世から消え去れる毒はそう簡単には手に入らない。

未だに人間の安楽死は社会のタブーなのだ。


だから、とても痛い死に方をしなければならない。

痛いのは嫌だ。

それが、結果的に多くの命を救っている本能的な感覚だ。


けれども、人間の動物的本能が自殺を遠ざけてくれるというのならば、神はなぜ、そもそも自らを傷つけたいという願望をいだくような欠陥のある動物にしたのか。


皆が生に希望を感じられる、あるいは幸せが何かなんて考えなくて済むほど、人間が単純なものなら、どれほど良かったことか。


動物に自殺願望はないのが通常であるが、彼らは自身の「老い」というものを理解できるほど賢くはないし、何も悩みがないように見える。


人間はこの地球の覇者として君臨しているけれど、ある意味で最も弱い生物であるのだ。

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