パンのみにて生くるにあらず

まったくもって無意味な一日だった。


紘介は昨日の休日を振り返って思う。

10年後、40歳の誕生日を迎える頃も、こうして過ごしているのだろうか。


それとも、誰かと結婚して、子供も作っているのか。その「誰か」が一条麗香にならないだろうことはわかっていたが、結婚しているということはあり得るかもしれない。


結婚には特に価値を感じていないものの、社会の「結婚せよ」という圧力に耐えて生きていく気もないのだから。


彼は、どこかでこの、「人並みに生きてはいけるけど、生きていけない人生」を断ち切らなければならない気がしていた。


あの政治家が30歳で決断をしたように、彼にとっても何らかの変化(できればリスキーではないもの)が必要な気がしていた。


そして、紘介は珍しくこの日曜日は外に出ることにした。


特に行きたい場所もなかったので、なんとなくで行き先は決めた。


電車で原宿に向かい、明治神宮に足を運んだ。


紘介は明治神宮が好きなわけでもなかったし、神道の信者でもなかったが、過去の自分を分断するためには、何かの聖性が必要だと感じていた。

まさに、それはお祓いに行くようなことである。


欧州や中東、中国などの国では、王の権威や神の聖性は、巨大な舞台装置をもって作られる。

サン・ピエトロ大聖堂は、外部空間を遮断し、巨大な建築によってその権威を表しているし、点在するノートルダム大聖堂では神への信仰心が建築様式にまで落とし込まれている。


一方で、この明治神宮はどうか。

流行に敏感な若者たちが「跋扈」する原宿や、毎週のように多種多様なイベントが開かれる代々木公園、1964年オリンピックの遺産である代々木体育館などに囲まれたカオティックな土地に、森が出現する。


この森は人の手によって作られたものであるが、外界と聖性を遮断する装置として機能している。

神宮の建物は決して豪華ではないし、入り口からまっすぐ巨大な建築を睨まなければならないような構造はしていない。


侘び寂びというものだろうか。この森との一体感にこそ、日本の聖性があるような気がする。


賽銭を投げ入れ、明日からの自身の華やかな人生を祈る。


この行為には何の意味もないが、過去との連続性を断ち切れるような気になる。


思えば、これまでの自分の人生は平凡なものだった。


今までに会ってきた他の人たちが非凡な人生を送っているとは思えず、彼らも平々凡々なわけだが、彼らと同じような人生を送るために、自分が生まれてきたのか。


紘介は紘介の人生しか生きられないが、この人生は他人と同等のことをして、同等の人生を送るためにあるのか。


ゲームには攻略本があるし、明確なクリアがある。


しかし、人生はそうではない。

官僚や医者になるための攻略本は数多あるが、それらになることがゴールではない。


官僚として成功しても、息子が引きこもりになることもあるし、交通事故を起こして世間から冷たい目で見られるかもしれない。


何をもって人生が成功したと言えるだろうか。そもそも、人生は成功させる必要はあるのか。


自殺をしてはいけないという話は世の中に無数に転がっている。

しかし、そのいずれも、十分な説得力を持つものではない。


死後の世界なんてものは、誰も見たことはない。

だから、真っ当な人生を生きた人、人を殺めた悪人、自ら命を絶った人が、死後に閻魔大王によって評価されるなんてことは、ただ、平和な社会を作るために語られる妄言である。



建築物の前に立った時、その建築物を作る人のイメージはどこか切り離せずにいる。


顕著なのが、エジプトのピラミッドだ。

何百もの人々が巨大な石を運び、積み上げていく情景が目に浮かぶ。


そうした無数の人々の労働こそが、建築物の聖性を高めているようにも感じる。


人々は何を思いながらこの石を運んだのか。

そこには、紘介のように絶望に満ち満ちた人もいただろう。

その先人はどんな生涯を送ったのだろうか。


江戸城天守閣が既に消失していた東京には、権力装置のような巨大建築物はない。


かつてロラン・バルトが東京を訪れ、「空虚な中心」と語ったように、権力の中心はどこにもあるようで、実際には存在しない。


だから、明治神宮に行くという選択肢は果たして正しかったのかはわからない。


しかし、紘介はここのところ会社以外では家にこもっていたので、少し心が洗われた気がした。


日本神話の主神である天照大御神は女性である。

男性の紘介から見れば、女性は同じ人間であるが、どこか分かり合えない存在だった。


そして、その不可解性は、聖性にもつながるものだった。

まさに、彼が一条麗香を天使だと感じるように。


聖性は、俗世の外に救いを求めたい人間の心の弱さが生み出した幻想のようでもあるが、一人の人間の穢れを祓うのには十分なこともある。


この日、紘介は明日から新たな一歩を踏み出せる気がしていた。

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