シミュラークルとシミュレーション
麗香とつながることができるのは、紘介の頭の中だけで、現実世界では、ファロス(男根)によって二人は引き裂かれている。
ファロスはあらゆる象徴的な意味を持っている。
これまでの人生で見た誰よりも清楚で透明感のある麗香が、誰かの男根とともにあることは、とても想像できなかった(想像したくなかった)が、そうであろうことは疑いない事実である。
結婚した後の麗香に出会った彼にとっては、彼女に子供がいないことが、せめてもの救いであった。
子供がいないということは、それが天文学的な可能性ではあるかもしれないが、麗香が純潔である一縷の望みがあるということだった。
もっとも、仮に麗香に子供がいたとしても、処女懐胎を信じさせるような、例えようもないほどの清潔さが彼女にはあった。
ギリシア神話にオイディプスという王がいる。
オイディプスはある日、一人の人間を殺す。旅の途中のいざこざで起きたことだから、彼には、自分が殺した相手が誰であるかなんてことは知る由もなかった。
その後、オイディプスはある街にたどり着き、その地を悩ませる怪物・スフィンクスを倒して、その地の王となり、その地の女性、イオカステーと結婚した。
やがて、オイディプスはイオカステーとの間に4人の子供をもうけるが、オイディプスが来てからというもの、この街には不作や疫病のような不運が続いた。
オイディプスがその原因を調べていると、ある事実に気付いてしまう。
オイディプスが殺した人間は、自分の父であったこと、そして、自分が結婚したのが自分の母だったということである。
これを知ったイオカステーは自殺し、オイディプスは絶望から、自分の目をえぐり取った。
自分の母親との間に4人の子供を産むことが可能なのかという考察はさておき、この神話に基づいて、心理学者のフロイトは「オイディプス(エディプス)・コンプレックス」という理念を唱えた。
男児は、母親の愛を求め、母親に性的願望を抱く。
母子が一体となる、男児にとって心地よい空間が追い求められる。
しかし、その隣には父親がいる。
母親を満たすのは父親のファロスであって、男児は父親に去勢されてしまうかもしれない。
つまり、父親のファロスは母と子を引き裂く敵として現れるのだ。
紘介が頭の中でさえ、麗香と完全に一体になれないのは、「一条」のファロスの存在ゆえだった。
紘介は麗香に触れたことすらもないが、彼は、何十年か後の世界では、科学技術がそれを可能としてくれるという妄想もしていた。
VR技術は急速に発展している。
いずれ、麗香を完全に技術で再現し、触れることができるSFのような世界がやってくるかもしれない。
彼女を再現するためには、紘介が、今この瞬間の麗香の姿を留めておく必要がある。
紘介は麗香の写真を何枚か持っている。
それは、彼女自身がSNSに載せていたもので、彼はウェブ上で彼女の「友達」ではなかったが、ページにアクセスして取ったものである。
彼の友人はこうしたやり方を、(ネットストーキングではなく)「オープン・ソース・インテリジェンス」と呼んでいて、彼もその言葉を好んで使っていた。
写真はある程度には時間を止めてくれる。
その瞬間の麗香を留めていてくれる。
しかし、仮に技術の著しい進歩によって、麗香のほくろ一つまで再現することができたとしても、本物の麗香にはなり得ない。
美しい肌や髪、顔立ちがあったとしても、完全に同じものを作ることはできない。
目の前に寸分違わぬ精度の「モナ・リザ」を再現することができたとして、それがルーブル博物館にある「モナ・リザ」と等価になることがないように。
コピーとして作られた麗香は、本物のアウラ(オーラ)を持ち得ない。
もっとも、「一条」麗香を認められない紘介にとっては、目の前で新たに作り出された、ある意味での純潔さを持つ麗香にも、価値を見出せるかもしれない。
しかし、紘介はそんな先のことはどうでも良いのだった。
現在の世界で将来の科学技術の妄想をすることは良い暇つぶしにはなったが、そんな技術が生み出されるほど遠い未来まで生きていたいという気もない。
そして、紘介の一日はまた終わろうとしていた。
ヒルティによれば、寝床に就くときに、翌朝を楽しみにできる人間が幸福なのだという。
しかし、紘介の一日で、最も絶望を味わうのは、寝床に就く、そのときであった。
彼は、眠りにつけるほどには恵まれていたが、寝床で、翌朝を楽しみに待つことはできない。
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