ポリス的動物
ぎゅうぎゅう詰めのエレベーター内で、会話することは恥ずかしく思え、結局、一条さんとはほとんど話すこともなく、自分のデスクまで来てしまった。
8時57分。
いつもながらぎりぎりの到着。
一条さんもこんなにぎりぎりの出勤とは、珍しい。
きっと、電車が遅延したのだろう。
「有村、今日9時から会議だったよね」
係長の入江さんが声をかけてくる。
完全に忘れていた。
「あと3分あるので、大丈夫ですよ」
と答えて、急いで資料とノートを持って会議室に向かう。
1分前に会議室に着くと、さすがにほぼ全員が着席しているようだった。
「相変わらずぎりぎりだな」
隣から話しかけられる。
2年上の先輩の桐野さんだ。
身長180cm以上の長身で、流行りの顔ではないものの、整った顔立ちから、スーツがよく似合う。
海外事業部門のエースと言われ、会社に特別に許可をもらってイギリスの大学にも留学していた。
もっとも、桐野さんが言うには、「イギリス」というのはイングランドだけを指すので、「英国」と呼ばなければならないらしい。
桐野さんは格好をつけて「UK」と呼んでいることもある。
「向こうではこうだったよ」「日本は遅れているね」なんて言う生意気な帰国子女のイメージとは少し違っているが、ちょっとキザで理屈っぽく、それでいてシャイな男だ。
英国風の英語に誇りを持っていて、「Mr.」のピリオドを書かないなど、海外事業部門でも一癖あるやつとして知られていた。
ただ、仕事はできるようで職場での評判はすこぶる高い。
紘介は外国語ができるわけではなかったが、課内一番の若手という理由から、部門を横断した海外プロジェクトのチームに入れられており、ここで桐野さんと知り合った。
桐野さんは、紘介とは似つかず、見た目や言動にどこか華やかさがあったが、なぜか紘介を気に入っているようで、飲み友達のようになっていた。
会議はそれほど中身があったわけでもないが、予定よりも20分長引いて終わった。
デスクに帰る途中で、桐野さんから金曜に飲みに行かないかと誘われた。
特に予定も入っていなかったので、二つ返事でOKした。
入江係長に会議の結果を報告し、もう午前も終わるかというところでノートパソコンを開いてメールチェックを開始した。
「Dear Mr. Arimura,
This is David Peterson from the …」
珍しく、英語のメールが届いていた。
紘介は英語は中学レベルで止まっているので、とりあえず後回しにして昼休憩を取ることにした。
紘介は、いつも20分の昼寝をした後、近くの洋食屋に出向いている。
この洋食屋はあまり人気がなく、ランチタイムでも並ばずに座れる。
そして、ここで週に一回、会社の同期3人と一緒に集まってランチを食べている。
「なぜか、さっきメールを見たら英語のメールが着ててさぁ。まだちゃんと見ていないけど、今はネットで翻訳もできるから良い時代だよ。英語なんかできなくても不自由しない。これからAIが発展して、通訳なんていらなくなるし、もう勉強する必要ないね」
「おいおい、そのAIに俺たちの仕事も取られるかもしれないぞ。すでに、銀行ではAIを活用して、人員を削減しているらしい。うちの会社でも実は、総務でそういう動きがあるとかないとか…。そうなったら俺たちなんか真っ先に首を切られるだろう」
同期の村田が、冗談まじりにそう答える。
子供の頃から読んできた様々な未来予想では、人々は労働から解放され、機械が人間の代わりに働いていた。
それが人々の希望的観測の未来であるならば、AIに仕事を取られることは決して悪いことではなく、機械が人間の代わりに働いてくれる社会に一歩近づいたと言えるだろう。
しかし、現実はそんなに甘くはなく、今、会社を解雇されても自由に生活できるだけのセーフティネットはない。
いつか、機械がすべての人間が必要な富を生み出してくれるようになるまで、人間は自力でお金を稼いでいかなければならない。
だから、僕たちはAIが発展しても簡単に仕事を辞めるわけにはいかない。
AIに僕たちの仕事を奪われたとしても、雇用は奪われてはならない。
仕事が奪われながら、会社に居続けて、何をするのか。
きっと、新しい仕事を自分たちで作りだし、何とか、自分たちの必要性を訴えかけていくだろう。
考えてみると、平成の30年間で、IT技術は急速に発展し、仕事のスピードは急激に上がっていった。
でも、令和の時代になっても、僕たちは平日に毎日会社に行っているばかりか、残業や休日出勤までしている。
機械が奪ってきた仕事の代わりに、自分たちで仕事を作り出して忙しくしているんだろう。
多くの大人は残業までしてお金を稼ぐ必要があるし、自分が社会に必要とされることで、社会に居場所を見つけている。
人は誰かに必要とされなければ、その先にあるのは絶望だけだ。
アリストテレスは人間を「ポリス的動物」(あるいは「社会的動物」)と言ったが、人間は他の人やその集合体である社会との関わりを耐えず求めているのだろう。
それが、社会に使役されることであっても、社会から疎外されるよりは居心地が良いはずだ。
もっとも、紘介は社会に居場所を持っている。
会社でも、第一線で活躍はしていないかもしれないが、それなりに成果はあげている。
同僚とのコミュニケーションも取っているし、誰も、紘介が絶望していることを知らないだろう。
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