元始、女性は太陽であった
急いで納豆とヨーグルトを食べ、歯を磨き、朝のニュースを聞きながら着替えて外に出る。
梅雨が終わり、暑さが増してくる中、早歩きで駅へと向かう。
駅前では、選挙を控えた政治家が演説をしている。
「国民の皆様の生活を豊かなものにしていきます」
紘介はいつも何となく義務感から投票に行っているが、政治家の言葉など一切の興味もなかった。
誰が当選しようが、彼が絶望から抜け出せるわけではない。
誰が当選しようが、彼の生活には「ただちに」影響はない。
そして、何となく世間の話についていけるように政治家の名前を憶えているだけで、政治なんてものは、どこかのインテリぶった人達が考えてくれれば良いのだ。
地下鉄への階段を急いで下っていく間、地下鉄から出てくる人々とすれ違う。
いつも同じ時間に駅に行くので、知った顔も多い。
紘介のように社会に疲弊しきったような顔つきのサラリーマンから、社会のことをまるで知らないような中学生まで、彼らも紘介のように毎日、大して変わらない人生を送っているんだろう。
何とか8時12分の電車に間に合った。
先ほど、地下鉄の駅に入るときに、無意識のうちに政治家のチラシをもらっていた。処分に困りながらも目を通すと、聞こえの良い政策ばかりが並べられている。
こんな政策が実現するわけはないし、実現したとしても紘介の日常にはさして影響もないだろう。
裏面に政治家の経歴が書いてある。
最近引っ越してきた土地なので、知らない政治家だったが、どうも国会議員を3期続けている偉い「先生」のようだ。
紘介と同程度の大学を卒業し、会社員として働いたが、30歳で退社して出馬し、市議会議員に当選している。
そこから、議員としてのキャリアを重ね、国会議員まで務めている。
虎穴に入らずんば虎子を得ず。
リスクを取った上での成功とも言える人生だが、よくもまあ、会社を辞める気になったものだ。
紘介は仕事が好きではなかったが、耐えられないほど嫌いでもなかったので、会社を辞めるという選択肢は出てこない。
明日、この世からいなくなっても悔いはない。
しかし、明日、この世からいなくなれる可能性は限りなく低いから、仕事だけは続けていなければならない。
仕事を辞めては、お金に困り、苦しみが増すだけである。
それに、最近、紘介は仕事にとある楽しみを見出していた。
この政治家は人生に希望を持っているのだろうか。
国会議員という社会的地位は、人生の虚しさすらも忘れさせてくれるのだろうか。
この人生というゲームの主人公が自分ならば、自分はこんな政治家よりも活躍できるはずだ。
この政治家も30歳までは自分と変わらない人生を歩んでいる。
自分の人生もこれから変わっていくのだろうか…。
そんなことを考えている間に、会社の最寄り駅に着いてしまった。
彼の会社は駅から徒歩3分という好立地にある。
しかし、通勤時間は人が多く、改札に行列ができるため、5分以上は見込まなければならなかった。
暑苦しい人の波を越えて、会社にたどり着く。
彼の机があるフロアは7階なので、エレベーターを使わなければならないが、このビルにはエレベーターは3台しかないので、渋滞が起こる。
この朝のエレベーター待ちにももう慣れてしまったが、いまだに気持ちの良いものではない。
「おはようございます」
自分に話しかけられたのかもわからず、後ろを向くと、そこには見知った女性の笑顔があった。
「あっ、一条さん、おはようございます」
一条麗香は、女性では少し背が高く、ローヒールでも170cmを超える。
漆のように黒く、艶やかな黒髪が特徴で、肌が透き通ったように白く、目を見張るほどの美人である。
3か月前に紘介の隣の課に異動してきたが、すぐに課を超えて男たちの話題となった。一条さんが同じフロアに来たことが、興味のない仕事に向かうモチベーションにもなっていた。
紘介は一条さんとそれほど仲が良いわけではない。
会えば挨拶をする程度であり、仕事でも関わりは少ない。
ただ、紘介の席からたまに一条さんが横切るのが見える。
彼女の美しい横顔を遠目に眺めるときほど、至福のときはない。
一条さんは紘介の絶望の闇を照らしてくれる唯一の太陽だった。
また、太陽のように決して手が届かない、近づいてはならない存在でもあった。
一条さんの左手には、銀色の指輪が光っている。
一条さんは四年前、大学時代からの彼氏と結婚したのだそうだ。
大学を卒業して間もない、23歳の頃だという。今の一条さんの大人びた雰囲気はまだなかったかもしれない。
彼女がこの会社で働きはじめたのは、それよりも後のことだから、彼女の旧姓を知っている人は少ない。
紘介も一条さんの旧姓を知らなかった。
こんなにも美しく、彼の心の中では何度も抱きしめている一条さんを、その恋敵の名前を介さずに呼べないのだ。
彼は心の中では、麗香という名を何度も呼んでいるが、実際に一条さんに対してその呼び方を使ったことはない。
一条さんの旦那さんに会ったことはないが、一条さんという太陽のような女性と毎日一緒に生活しているのだから、紘介のような絶望の淵にはいない、輝かしい人生を送っている人に違いない。
辞書に書かれた言葉の意味は、普遍性を持つかもしれないが、決してその言葉が持つ全ての性格を網羅できるわけではない。
「一条:①ひと筋。一本。「-の川」…」
一般的な辞書ではこうだろうが、紘介の中の辞書では意味が異なる。
「一条:①最も愛らしい女性の苗字 ②最も羨ましく、憎らしい男性の苗字」
紘介が「一条さん」と彼女を呼ぶときには、当然①の意味で呼んでいるのだが、②の意味を完全に無視することはできない。
紘介は、倫理的感性に富んだ人間ではないので、不倫というものが悪だとも考えていない。
テレビで聞こえてくる芸能人の不倫なんて、どうでも良いことだと思っている。
しかし、「他人の不倫を容認できるか」という問題と、「自分が不倫をするか」という問題は、まったくの別問題である。
紘介には、他人の幸せを奪ってまでも自分が得たいものを得るという、一歩を踏み出す勇気などない(もっとも、彼がその気になったところで、一条さんが振り向いてくれるとは到底思えない)。
この人生というゲームの主人公は紘介だが、彼以外の人間にも、きっと同様の人生があって、他人を不幸に陥れるというのは、やってはならないことのように感じているし、いつか仕返しをされるのが怖い。
この世界では、他人の家に勝手に入って壺を割り、中のお金をもらっていけば、警察に逮捕されてしまう。
人生がゲームであるならば、そこにはルールがあり、ルール違反は処罰される。
そして、紘介の世界のルールでは、不倫というのは少なくとも慰謝料を払わなければならない、社会的信用を落とすといったほどにはリスキーなものである。
そんなことで、紘介には、一条さんとの距離をこれ以上詰めようという気はない。
彼は夢の中では、何度も一条さんを抱きしめているが、実際に太陽に近づけば、焼け焦がされてしまうだろうという臆病な心が、彼を思いとどまらせている。
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