5. そして彼女は現れた

「今、壁、通り抜けるとか言ってませんでした?」

 彼女はそう言って時田の方を向いた。


「あ、いえ……そんなことは……」

 時田がドギマキして言葉を継げない。冷や汗をかいている。彼女が続ける。

「それはただの噂……そうね、理論的には可能だけど、私にはまだ出来ないわ」


 不思議な人だった。黒髪に透明感のある肌。そして倍音が混じっているような神秘的な声。何か……存在に現実感が無い。そして……ちっちゃい。


「そこの人、今、小さいとか思って無かった?」

 こちらを振り向いた。前髪がかなり長いので、表情は良く分からない。

「あ、はい、少し……あ」

 思わずそう答えてしまった。時田が目線でアホ、バカと僕に言ってくる。


「……君、少し変わってるね」

 何となく笑ってるような気がした。


「ところで……さっきパラレルワールド……とか聞こえたんだけど」

 彼女はそう言って僕に近付いてきた。すごくいい香りがする。


「君、まさか……違う世界の……」

 近付けた前髪の隙間から、緑がかった瞳がこちらを覗き込んだ。


「興味深い……君の瞳の中に渦巻く……見慣れない光の粒子……それに……」

「あ、あの……」

 彼女は僕の匂いを嗅いだ。

「このプラズマの匂い……これは次元が崩壊するときに出ると言う……」

「か、顔、近いんですけど……」


 ふと、彼女は食堂中の目線が集中している事に気付いた。怪訝そうに周りを一瞥すると、周りは皆、素知らぬフリをして昼食を続けた。


「ここはやりづらいな……」

 そう言うと、彼女は胸ポケットからメモを取り出し、サラサラと何か書いてテーブルに置いた。


「君……名前は?」

「海野……三太です」

「これ、社内チャットの私のルームとパス。後で連絡しなさい。君を調べたい」

「あの、先輩のお名前は?」

「ああ、そうね。あまり本名は使わないのだけど……知りたい?」


 彼女は僕の耳元に口を近付け、そっと囁いた。

「岡本……静子……覚えてね」


「ちょっと!あなた何してんですか!」

 相田さんがそこにいた。


「は?……何とは何だ?私は興味深いサンプルにコンタクトを取っていただけだが?」

「三太く……いえ、その人迷惑してるじゃないですか!」


 あれ?相田さん、僕の名前知ってる?もしかしてこの世界だと知り合いだった?


「離れなさいよ!」

 相田さんが僕と岡本さんの間に割って入る。

「こら、私の重要なサンプルを!何をする!」

 岡本さんがギュッと僕の腕にしがみつく。先輩、胸、胸当たってるから!


「あ、何、もう!そう言うのダメだから!」

 相田さんが岡本さんを引き剥がそうと踏ん張る。

「お前、おかしいぞ!……もしかしてコイツの彼女なのか?」

「なななな、何言ってるんですか!知りませんよ!私はただ、めめめ、迷惑そうだったから!そう言うの見過ごす訳にはいきませんから!ね、そうですよね?め、迷惑でしたよね?ね?」

「え、迷惑なのか?そうなのかサンプル君?」


 言葉に窮した。

「あ……あの……謎の解明と言うか……それに岡本さんが必要なような……」

「え、必要なんですか?」

「な、ほら、サンプル君も言ってる。私のもの~!」

 そう言って、また僕にしがみつく。


「だから、そう言うのダメですから!食堂とは言え、社内ですから!べたべたくっつくの禁止!悪霊退散!」

「悪霊とは何だ?失礼な。私は悪霊か?」

「降って沸いて邪魔してるんだから、十分悪霊ですよ!」

「邪魔?何の?邪魔はお前の方だろう?」

「あ!……いえ!そう言うことじゃなくてですね!その人の邪魔になってますから!とにかく離れて!」


 ポロロン。午後の業務開始チャイムが鳴った。

 それを聞いて、岡本先輩は僕を放した。


「まあいい、私は急ぎの用がある。サンプル君、後でみっちり調べさせて貰う!連絡しろ!」

 それを聞いていた相田さんが突っ込む。

「調べるって何するんですか?」

「……そうだな、とりあえず体の違いはチェックしないとな……」

「か、体の違いを?」


 ……何か勘違いしている気がする。とりあえず理由をボカして説明する。


「いやあの……詳しくは話せないんですが、ちょっと僕に不思議なハプニングがありまして。それをその方面に詳しそうな彼女に調べて貰おうかと。その……異常が無いかどうかを」


「……ご、ごめんなさい、私……何か勘違いしてたかも……」

 相田さんは頬を赤くしていた。

「じゃ、サンプル君、後でよろしく」


「あの、私……その……」

 相田さんはそう言ったきり、そわそわして落ち着かなくなった。


 その様子に気付いた岡本先輩は、相田さんと僕の顔を交互にジーッと覗き込み、しばらく思案していた。


「これは……もしや……ここがこうでこうなってる可能性……なるほど、可能性はあるな。よし、君も参加したまえ」

「わ、私、関係無さそうですし……」

「いや……来たまえ」


 岡本先輩は相田さんにもメモを渡し、去って行った。

 相田さんは僕のところへ来て、申し訳無さそうにこう言った。


「ごめんなさい、口出ししちゃって。あの、迷惑なら止めますから……」

「いえ、心配して下さるのは有り難いです」

「本当ですか?……良かったー」


 こちらの世界の僕と相田さんはどういう知り合いなのだろう?


「あ、私、業務戻らないと!ごめんなさい、行きます!」

「あ、僕も伝票!」


 僕らは昼食を片付けてオフィスへ急いだ。そして、戻る廊下で時田が話しかけて来た。


「お前、相田ちゃんと知り合いだったの?」

「いや、僕の記憶だとそうじゃ無いんだけど。でもこっちはどうなっていたのやら……」

「……なんだそりゃ?」


 時田はしばらく考えてこう言った。

「……モテ期?」


 そして僕らは、形ばかりの終業時間の後、チャットを開始した。


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