六譚ノ弐 事始大競り騒動

 鳥の声は聴こえない。

 雪がしんしんと積る、外部を遮断する音だけが。

 霊園の除雪をしなくちゃ。

 暖まった蒲団に後ろ髪を引かれながら、何とか蒲団から這い出た。

 見知らぬ景色に目を疑うと、すぐに過ぎ去った記憶を引き出す。

「お早う、小鳥遊ちゃん」

 不意にした声の方に振り向くと、手鞠さんの籠がそこあった。

 窓から射し込む薄い光に包まれている。

 ふらふらとした足取りで籠まで向かう。

 心なしか、昨日よりも怠い。

「お早うございます……」

「顔色が良くないわよ。しっかり休めたの?」

 正直に言ってあまり眠れていない。多分、枕が変わった所為だろう。

 でも心配をかけるのも嫌だったから、首を縦に振った。

「そう。でもね、黙っているのは絶対にしないことよ」

 内心を全て見透かされている様な言い回しに、心臓が縮む思いをした。

 兎に角着替えようと思ったけど、どうしても、着物の帯の解き方がよく判らない。

 貝ノ口と呼ばれる結び方らしいけど、構造がどうなっているのか検討がつかない。

 それでもたもたしていたら、横で手鞠さんが指導をしてくれた。

 どうにか寝間着を脱いで、白シャツの下にインナーを着込み、カーディガンを羽織る。寒いから靴下も履いた。

 今度、着物の着付け方を誰かに教えて貰おう。

 部屋から廊下に出ようとすると、

「ちょっと私を籠ごと運んでくれないかしら?」

 と手鞠さんからお願いがあった。

 断る理由も無いので、籠を両手で抱え、先に開いていた扉から部屋を出た。

 廊下に出るとすぐ直角に曲がっていて、その角を曲がると、障子や襖が礼儀正しく並んだ、廻廊かいろうだった。

 雪見障子の下から覗く景色は一面雪で、誰が作ったのか、縁側に雪兎も見える。

「ここを真っ直ぐ行って、次の曲がり角で居間よ。取り敢えずそこに行きましょう」

 手鞠さんの指示通りに進むと、少し古びた障子が廊下と部屋を隔てていて、一度籠を床に置いて、力を入れて障子を開く。

 ガタガタと騒々しい音を立ててしまって、恥ずかしくなった。

「お早うございます。体調はどうですか?」

 居間で待っていたのか、糸さんがそこに立っている。

「手鞠の籠をこちらに渡して下さい。それから、小鳥遊さんは先に炬燵へどうぞ」

 言われた通り、床に置いていた手鞠さんの籠を糸さんに手渡す。

「あの、顔を洗いたいんですが……」

「洗面所ですね。今来た道を戻って、右手に二つ目の扉です。あぁそうだ、このタオル、お顔を拭くのにお使いください」

 お礼を言ってその場を後にすると、洗面所の扉を探して、再び廊下に出た。

 障子や襖ではない木製の扉を開くと、推測の築年数に比例して古びた、それでいて清潔な空間があった。

 少し高めな洗面台で、冷水を叩きつける様にして洗顔をする。

 渡されたタオルで水分を拭いとる。

 ふと鏡を見ると、いつもよりずっと青ざめた表情かおをしていた。

 今日は大人にしている方が良いかも知れない。

 気になる事があって、居間には戻らず、その足で客間に向かった。

 再び戻って来ると、手鏡を手に取り姿見の前に立ち、うなじの痣を確認する。

 昨晩よりひろがっている様に見えた。

 先の事を想像したらどうしようもなく怖くなって、意味も無く手で払う真似事をする。

 インナーと、それでも足りずにシャツの襟で痣を隠した。

 着替えの中に香袋を忘れていたのを思い出して、香袋をカーディガンのポケットに入れた。

 居間に戻ると、糸さんは居なかった。

 戸棚に置かれた手鞠さんから、糸さんが勝手にいる事を聞く。

 炬燵に入ると、丁度雪見障子の窓部分から外の景色が見える。

 畳の部屋にアンティーク家具が置かれた居間は、和洋が複雑に交ざり合っている。

 太い梁の張られた高い天井から吊り下がるランプは、燈色の柔らかい光を放った。

 まるで夕方みたいだ。

「英国と日本様式を併せ持つ、アングロジャパニーズと言う家具なんですよ」

 唐突に視界外から発せられた声に振り向くと、いつも糸猫庵で見る様な、お盆を片手にした糸さんがそこに立っていた。

 すぐ側の開かれた障子からは、煮炊にたきの煙が上がるお勝手が覗く。

「糸さんが集めたんですか?」

「いえ。前のこの家の主人が蒐集していました」

 お茶を差し出して、もう少しお待ちください、と去って行った。

 良い匂いが鼻をくすぐる。

 卵とお米、それと野菜の甘い香り。

 ほんのり醤油も香っている。

 炬燵蒲団に両手を隠して暖をとった。

 まだ炭を余している火鉢は、部屋の隅でじっとしている。

  外では、まだ雪が止む気配を見せてはくれなかった。

「お待たせしました」

 いつも糸猫庵で聞く台詞。

 その言葉と共に、料理が運ばれて来る流れ。

「温泉卵粥です」

 炬燵の天板に置かれたお盆に、載せられていたのはお粥だった。

 どうも病人食の印象が抜けないけど、糸さんが作るとそれは消えてしまう。

 湯気を立てるお粥の中心に、温泉卵が我が物顔であり、一緒に煮込まれた人参と菜葉なっぱが彩りを添えている。

「どうぞ、召し上がって下さい。但し、熱いので十分に冷ましてから口に運んでください。いいですね?」

 お盆に載せられていた、木製の匙を手に取った。

「……いただきます」

 言うと、糸さんの口許が緩んだ。

 真ん中あたりを匙で穴を空けて、冷める様にしておく。

 いきなり温泉卵を崩すのは勿体無くて、端っこから匙を入れてお粥を掬った。

 息を吹き掛けて冷ます。

 これをしないで、昔一度だけ口内を火傷した事がある。

 それ以来、心傷トラウマになって、熱い物はよく冷ます癖が身に付いた。

 口に運ぶと、薄く醤油を加えてあるのか、香ばしい香りと味が広がった。

 ちらりと、鰹節の破片も見える。

 温泉卵を崩せば、半熟の黄身がお米と絡む。よく絡めて頬張ると、まろやかで深い味わいを楽しめる。

 人参が甘い。

 熱いのも気にせず、一気に食べてしまった。

 ……がっついてたかな。

 ふと部屋を見回すと、糸さんがどこにも居ない。

 どこかに行ってしまったかと、勝手の方に目をやると、丁度何かの作業を終えた後らしく、こちらに歩いて来るのが見えた。

「汁物をお持ちしました」

 そう言って差し出されたお椀には、出汁の香る味噌汁が注がれている。

 具材は豆腐と葱、溶き卵。

「少々具材が多くて不恰好になってしまいました……」

「美味しそうですよ?」

 お世辞ではない。お椀に口を付けて一口啜り、笑顔を見せる。

 すると安心したのか、糸さんの口角が少し上がった。

「坊や、完璧主義が玉に瑕なのよ」

 そう笑い飛ばす手鞠さんに、

「坊やは止めてくれ!」と珍しく大きな声を張り上げる糸さんだった。

「そう言えば、糸さんは食べないんですか?」

「あぁ、私はもう、先に食べてしまいました」

 ──あれ?

「今、何時ですか?」

「お昼前──十一時半を過ぎた所ですね」

「へっ!?」

 嘘。

 毎日朝の五時半には必ずと言っていい程目が醒めていたのに、今日はお昼前まで寝ていたの!? 何で? 昨日深夜を過ぎても眠れなかったから?

「気づかない内に、相当体力を消耗しているのでしょうか?」

 自らの形が整った顎に手を添え、呟いた。

 そして流れる様にぼくの額に、一回り大きく冷たい手をあてる。

「熱は無いんですよねえ……」

 昨夜自己診断をしてみたけど、腹痛も無ければ熱も無い。咳も出ないし痛みも無かった。

 少し気怠いだけ。

「今日はそれほど怠くはないです」

「今日も休んでいた方が良いわよ。夕方あたりからお客も来るし」

「お客さん?」

「──まあ、すぐに判るわよ」


 お昼を食べてからはずっと客間に籠り、本を読んで過ごした。

 時計の長針が午後四時を打った所で、糸さんがお店まで来て欲しいと呼ぶ。

 部屋を出ると手鞠さんが廊下に居て、危うく踏みつける所だった。

 回避した手鞠さんは羽ばたいてぼくの肩に乗り、道案内をするから、とそこに落ち着いた。

 居間からお勝手を通り、勝手口に繋がる階段を下ると、いつもの光景が目に入る。

 店内に居たのは、鉄穴かんなさん、春秋ひととせさん、四月一日わたぬきさんの三人だった。

 糸さんを入れれば四人になる。

 小走りでカウンターを出るや否や、三人が駆け寄って来る。

「うわぁああ大丈夫だったー!?」

「倒れたと聞いたぞ坊主。爺の寿命を縮める気か」

「良かった……本当に良かった……」

 慣れない囲みに襲われて、一度立ち竦んでしまう。

 肩を掴まれ、揺らされ、酔いそうになる。

「大丈夫ですから! あの、えぇっと落ち着いてください!」

 目の前で両手を振って見せると、ようやく収まってくれた。

「小鳥遊ちゃんは病み上がりよ? 手加減してあげてちょうだいな」

 肩に止まっていた手鞠さんが制する。

 ふと、見慣れた顔が一人足りないことに気が付いた。

「あれ。馬鹿さんは居ないんですか?」

 居たら少しうるさいくらいだけど、こんな時は居ないと寂しくなる。

「誰か迎えに行ってから来ると、今日の昼速達が届きました。なのでもうすぐ来ると思いますが…………あのくそが」

 最後に不穏な言葉が聞こえたけど、今、あの声が欲しい。聞いているだけで、元気になれそうな突拍子もなく明るい声を。

 丁度その時、心を読んだかのタイミングだった。

「待たせたなあ!」

 硝子戸を思い切り開いて乱入してきたのは、まごうことなき馬鹿さんだった。

「馬鹿さん!」

「おらおら元気してたかこのちびっ子野郎~!」

 こちらを認めた馬鹿さんは、ぼくの脇腹をつつきながら質問攻めにする。

 いつもなら止めて欲しい所だけど、今日は特別だ。

 そのまま身を任せて好きな様にさせていると、唐突な終わりを迎えた。

「っとまあ、こんなこたあしてる場合じゃねえんだよな。糸、つー訳でな、連れて来たぜ」

 と言って硝子戸の向こう側を、力強く指差す。

 未だに開かれたままの戸に、二つの人影が見えた。

「やあ、邪魔させて貰うよ」

 ほとんど同時に入った二人は女性で、片方は背が高く、もう片方は、反対に低い。

 どちらも華奢で美人、と言う特徴が共通していた。

 背が高く燈色の髪を持つ女性は、華奢な見た目に反して、背負った行商箪笥はかなり大きい物だ。

 小柄で幼さが残る女性の手には、旅行鞄がそのまま小型化した様な鞄が握られている。

 正反対、が似合う二人だった。

 小柄な女性は毛量の多い白髪で、その長さはふくらはぎまである。目は赤褐色で、アルビノ体質を思わせた。

 紺色と白を基調としたエプロンドレスを身にまとい、まるで白髪と同化する様に、白のベレー帽が乗っている。

 同い年だろうか。

 一方背丈の高い女性は燈色の髪を後ろでまとめ、目の色は左右で異なる。右は紫、左は緑だ。

 小柄な方とは打って変わって和装を身にまとい、千草ちぐさ色の着物と、黒地に花柄の帯を巻いている。

 帯の結び目は胸の前にあり、京都の舞妓さんの様だ。

 ぼくは店内の空気を一変させてしまった二人に、半ば見惚れていた。

 しかしその理想化された印象は、すぐに塗り替えられることになる。

「手紙にあった子ってこの子だよね~……は? え? いや可愛いな。しんど。何この可愛さ、無限に愛でていられるよ。はあぁ良い匂いがする。きっと、いや絶対に良い洗髪料と石鹸を使ってるのだろうなあ……。くんかくんかすぅぅうううううはぁぁぁぁああああああああああ。はあはあぁ可愛いよぉお。飴ちゃんいる? おじさんが何でも買ってあげよう。はっ! 天使? 天使なのか君は! この穢れた地上に舞い降りた、いや降臨なさった、天使様なのか!? 泥田に下りた鶴だ君は! いや~銀髪と言い線の細い体格と言い、あと、ハッカ色の目も最高だねえ、はあはあ。あぁ……お持ち帰りたいよ。しかし如何せん、薄汚れた世の下らないしがらみによって、私は私が真に望む願望も叶えることは、到底叶わないのだよ……ねえ君、いえ、天使様、貴方さえ宜しければ、そして天上の神々が赦し給うものならば、私は貴方を必ずや幸多き生涯にしてみせると誓おう。私にはその覚悟と、資本がある。あぁ。背中に透明の翼が見えるよ……。黄金の夕日に照されて輝くそれは、穢い地上にあってはならない光だ。あぁそうか。だから天使の翼は透明なのか──」

 全ての音が、たった一人の台詞に吸い込まれた瞬間だった。

 気づけばその人に、鼻を掴める程の距離に詰め寄られ、肩を両手で力強く掴まれている。

 目は左右異なる色も相まって、まるで宝石の様に輝いていた。

 背後に見えている白髪の少女に目をやって助け船を求めると、何も言わずに頷いた。

 そしてつかつかとかかとを鳴らしてこちらに近づいて来ると、女性の両脇に腕を入れ、平衡バランスを崩させて引き剥がした。

 ぼくはその隙に糸さんの背後に回り、千草着物の女性を警戒する。

 その人は、小柄な少女にずるずると引きずられていた。

 糸さんを見上げると、口が開いていることに気が付いていなかった。

 馬鹿さんは罰が悪そうに後ろ頭を掻き、重い口を開く。

「……つー訳でな。今日こいつ──池鯉鮒ちりふに来て貰ったのは、小鳥遊、お前の為だ」

 ここ中で完全に不審者と化している、池鯉鮒と紹介された女性は、少女の細腕から逃れると、先ほどとは打って変わって飄々とした表情に切り替えた。

「えー、先程紹介に預かりました。池鯉鮒と申しんす。今影を盗られたと言う子の噂を耳にしまして、本日こちらに参った次第で御座います」

 やけに丁寧な挨拶をすると、今度はまたこちらに歩み寄る。

 だけど、今度は嫌な気はしなかった。

 糸さんの影に隠れながら様子を伺う。

「やあ今日こんにちは。でも今は今晩こんばんはと言うべきかな? 取り敢えず挨拶は終わり」

「……えっと。今晩は」

「では本題だ。小鳥遊君、君は影を盗られたそうだけど、何か心当たりはあるのかい?」

 一瞬にして払拭された先程の空気を無視して、話は進展を見せる。

 ぼくは落ち着きを取り戻して首を横に振る。

茉莉まりー一寸ちょっと良いかい」

 言って、白髪の少女を手招きした。

 茉莉と言うらしい。

 茉莉と呼ばれた少女は、手に提げた小型旅行鞄を池鯉鮒さんに手渡すと、すぐに下がってしまった。

 池鯉鮒さんは手慣れた様子で鞄を開くと、手探りで何か目当てのモノを捜しているらしかった。

 それと言うのも、鞄の底が見えないからである。

 ただ黒々とした底の見えない黒闇で、池鯉鮒さんはその中に片手を突っ込んでいる。

 時間が長引く程心配が増すばかりで。

「あったあった」

 明るい声を聞いて心配の種が消えると、池鯉鮒さんの右手に握られていたのは、一枚の人形ヒトガタだった。

 寺社仏閣なんかにありそうな、千と千尋に出てくる、あの紙で作られたヒトガタ。

 ぼくが首を傾げていると手招きし、こちらに来る様促す。

「お手を拝借」

 差し出された手に答えると、池鯉鮒さんは屈んでぼくの目線に合わせてくれる。

「何をするんですか?」

 内心だけは千尋の様な想像に身を任せていた。

 その時池鯉鮒さんが針を手に構える。

 反射的に身構えると、すまないね、とだけ呟く様に言ってぼくの掌に針を刺した。

「ちょっ!?」

 鉄穴さんの声が遠くに聞こえた。

「少々黙っていて貰いましょう。茉莉」

 池鯉鮒さんの台詞と共に、茉莉が何かを鉄穴さんに向けて飛ばす。

「んんっ!」

 鉄穴さんはまばたき一つの内に口を塞がれ、見ると、それは一枚のお札だった。

 ぼくは何が起きたか判らずに立ち尽くしていると、針の刺された掌に、人形があてがわれる。

 あてがわれた人形は、ぼくの血液を吸って赤く染まった。

 池鯉鮒さんに目をやると、悲しそうな表情をしていた。

 しかしその表情も束の間で、いつの間にか飄々とした笑みになっている。

「はい、終わり~。茉莉、解除してくれ」

「畏まりました。姐様あねさま

 その合図と共に、鉄穴さんの口が解放された。

「何すんだこのヤッロあぁん!?」

「鉄穴、如何なる時も下卑ては駄目よ」

「儂は教え説いた筈じゃが?」

「何で私が酷い扱いになってるの? 非道いよ皆!」

 春秋さんと四月一日さんの追撃に怯まなかった鉄穴さんだったが、次で倒れることになるのだった。

「だって私達はヒトでは無いもの」

「そうですね」

「それにお前なあ……やっとることの意味をわかとらんじゃろうに、何を言う」

「──っへ?」

 鉄穴さんはとても困惑して、周囲に説明を求めていた。

 自分も同じく困惑していたので、説明が欲しい。

「──これは?」

 池鯉鮒さんに向き直って問うと、待っていました、とでも言いたげな笑顔をこちらに向けた。

「うん。実によい質問やねえ。えー……それは人形言うてな、今君の血ぃ吸わせたやろぉ? でな、これで君とおんなじ匂いのをな、追い掛けてくれる代物なんやよ」

 つまり、追跡装置だろう。ぼくの影を追う為の。

「折角やし、君が飛ばしてみる?」

 差し出された人形を受け取るが、どうしていいか判らない。

 紙飛行機みたいに飛ばせば良いのだろうか。

 人形を飛ばす為、一旦外に出る。

 早く見つかる様にと願いを込めて、口をつけた。

 その人形を、丁度吹いて来た風に、風下から人形を乗せる。

 人形は、まるで坂を駆け上がる様に上へ上へと上って行き、ついには見えなくなった。

 本当にこれが正しい方法だったのかと、疑心暗鬼になりながら、寒い屋外から暖かい糸猫庵に戻る。

 店内では池鯉鮒さんと茉莉を含めて、いつの間に打ち解けたのか談笑していた。

 しかし女性陣と男性陣に別れているのが、なんとなく複雑に思える。

「そう言えば馬鹿さん。よくこれ程早く呼びましたね」

「ああ。向こうには、優秀な集配能力を誇る郵便機関があるからな」

「糸! 今日の夕飯ここで食べたいんだけど」

「あら。鉄穴がそうするのであれば私も」

「あ、俺も食べたい。奢りで」

「なら儂もじゃ。池鯉鮒君と茉莉の歓迎会を兼ねてな」

「全額鉄穴さん持ちで宜しいですか?」

 また置いていかれそうになる。

 ぼくも仲間に混ざりたいけど、内気が邪魔をするのを止めてくれない。

 思い切り息を吸った。

「あのっ! ぼくも、ここで、その、ごはんが食べたい、です……」

 言えた。内気に勝った。

 糸さんは微笑むと、勿論ですとも、と頷く。

「この輪から外す理由などございません」

「そうだよー。お金は私が持つからさ、食べよう。今日は懐が暖かいからね」

「鉄穴、ずるいわよ。ここは私に奢らせなさい。小鳥遊君のだけ」

 盛り上がりの輪に入れたことが嬉しかった。


 最終的に、店内に居た全員が糸猫庵で夕食を摂る事を決定した。

 午後六時半、厨房では糸さんがいつもの様に腕を振るっている。

 そしてぼくはと言うと、女性陣の囲む卓に座っている──もとい、座らせられている。

 対面に池鯉鮒さん、茉莉。左右を鉄穴さん、四月一日さんに包囲されて、極端に言えば、居心地が悪い。

 店内は男性陣と女性陣とで完全に別れていて、衝立ついたて一つ挟んだ向こうの席は、春秋さんと馬鹿さんとが対面で酒類を酌み交わしている。

 肴は乾物だ。

 対してこちらは、とても近い距離で話し掛けて来ている。

 ひたすら作り笑いを貼り付けて過ごすしかない。

「もぉおおおお可愛いなぁああああ久し振りに会ったらもっと可愛いなぁああああ!」

「お持ち帰りは反則よ。すれば全力で叩くわよ」

「お持ち帰りたいのはわっちもさぁ。でも山山でしょう?」

「姐様? ここにいる皆さん共々監禁して差し上げましょうか。この鞄の中に」

「……それはご遠慮願いたいね」

「でしょう? 僕でもこの中がどうなっているのか、検討もつきませんから」

 さらっと恐ろしい話題が持ち上がって、静かになった席に春秋さんが訪れた。

「お主ら、何小鳥遊君を拘束しとるんじゃ。鉄穴は兎も角、四月一日、お前は静止役じゃろう」

「申し上げますが師範しはん、師範は私の性分を存じているでしょう」

「欲しいモノは手に入れる精神はな、お前の美点だが汚点でもある。説いて聞かせた」

「言われてやーんの」

「黙れ小娘」

 ぼくを挟む二人の口論が始まったので、尚更肩身が狭くなる思いだった。

「小鳥遊君、ここは肩身狭いだろう。儂らで良ければじゃが、こちらに来んか。むさ苦しいがな」

「おい親仁おやじさんよお! 俺はまだ若えぞ」

「馬鹿君。君、儂よりは年寄りじゃろう」

「言うなよ!」

 酔った馬鹿さんの大声も無視して、大人の余裕で春秋さんは話す。

「来るか?」

 ぼくは二つ返事で席を立った──立とうとした。

 二人は渡さないと言わんばかりに、ぼくの服の袖や裾を引っ張る。

「いい加減にせい貴様ら」

 春秋さんはそう言い捨てて二人の頭を叩き、手を振りほどいてくれた。

 そして両脇に手を入れ、ぼくを抱上げて退席させてくれる。

 春秋さんがこれほど助け船に見えたのは、今日以降これだけだった。

 別の席に下ろされると、その隣に春秋さんが腰を下ろす。

「おう坊主。肴で悪いが、これ喰うか」

 対面に座る馬鹿さんは、まだ宵の口であるにも関わらず日本酒を一瓶空にしてしまったらしく、かなりべろべろになっている。

 差し出された炙りスルメイカを受け取った。

「いただきます」

 乾物は好きだ。お寿司に関してもえんがわや、ヒラメみたいな渋い食べ物が好き。

 春秋さんに差し出された緑茶を啜りながら、もう一つ、スルメイカに手を出す。

 背後からの視線を感じながら。

 そこに調理が一段落ついたらしく、糸さんが料理の載った大盆を運んで来た。

「お待たせしました。鱈と春菊の小鍋です」

 うわあっ、と黄色の声を浴びながら登場する形になった糸さんは、少し……いや、かなり恥ずかしそうだった。

 黄色い声の主犯格は池鯉鮒さんと茉莉である。

 それぞれの卓に運ばれた小鍋だったが、ぼくのだけは違っていた。

「小鳥遊さんはお粥です。……少し苦しいですか?」

 苦しい、の意味をはかりかねていたけれど、糸さんの作る料理は全て美味しくなるので、何も言わず首を横に振った。

「……大丈夫ですよ。ぼくだけ違っても、今が楽しくなれば良いんです」

 言うと、糸さんは笑ってくれた。

 そして小声で、

「ありがとうございます」と、消える様に呟いた。

 お粥は卵粥で、具材は鶏ささみと葱。鶏肉で出汁をとったのか、優しい味だ。

 そしてほのかに鰹が香る。

 木製の大きめな匙で、比較的冷めている表面を掬い、一口で頬張った。

 薄味で卵の味や風味がしっかりと感じられる。

 鶏は柔らかく、素材の味を守りながらも塩味がよく効いている。

 葱が全体の引き締め役だ。

「いいなあ……それ。糸、私にも一つ」

「私もお願い出来ますか?」

 背後からの視線が、一気に好奇心に満ちて糸さんに向けられる。

「材料は今しがた使いきってしまいました」

 糸さんはイタズラっぽく舌を出して断った。

 この人──影法師──が材料を切らす筈はないのだ。

 鉄穴さんは笑みを浮かべながら軽く非難したが、その隣に座る四月一日さんは、潔く諦めていた。

 その間ぼくは、ひとり占めする様にお粥を口に運んだ。

 食べ終わった頃には満腹になる。

 一皿だけでも満足感があるから本当にすごい。

 ふと、春秋さんが頭を撫でてくれた。

「坊主が元気そうで何よりじゃった」

 ぼくより一回りも大きな手は暖かく、子供に接する時の優しさがあった。

 ふにゃっと笑顔を見せると、ワシャワシャと撫でられて髪がぐしゃぐしゃになる。

「話は変わるんですけど、四月一日さんと鉄穴さんは仲が良いですよね」

「そうじゃな。結構宜しい」

「どんな関係があるんですか? さっき、春秋さんを師範と呼んでいましたけど……」

「あぁ。鉄穴と四月一日はな、儂がかつて開いていた、手習塾の生徒じゃった」

 随分仲が良いとは思っていたけれど、意外にも、二人は幼馴染みの関係だった。

「儂が居なくのうても、二人居れば大丈夫じゃろうて」

 最後に不穏な言葉を残して、かき消す様にカカっと豪快に笑う。

 いつもの会話に交ざる笑い声を聞いて、秘かに嬉しくなったのは内緒。


 酒豪の鉄穴さんが酔った勢いに任せて、鉄穴さん自腹で始まった呑み比べ会が、無事に終了した午後七時。

 結果は春秋さんの圧勝で終わったが、その途端に倒れてしまった。

 窓際の広い席では呑み比べ会に参加した、鉄穴さん、春秋さんに馬鹿さんが、座蒲団を枕に横になっている。

「酒に呑まれているわね」

「………ぅううるしゃ~いぃ…………」

 四月一日さんは、そんな鉄穴さんをつついて楽しんでいる。

 どうやら足が痺れたらしい。

 ぼくはそんな二人を横目に小さく笑っていた。

 すると、不意に四月一日さんは真剣な面持ちになった。

 周囲をしきりに見回し、誰も居ないことを確認すると、こちらに向き直り、口を開いた。

「少し聞いて欲しい話があるの……これだけは」

 ぼくは驚きを隠して頷く。

「なんでしょう」

「あなたの香袋、見せて貰えるかしら」

「──へっ?」

 発せられた言葉は予想の外の言葉で、思わず困惑してしまう。

 しかしすぐに取り直し、素直に香袋を四月一日さんに手渡す。

 四月一日さんは受け取った香袋を軽く匂うと、安心で満ちた笑みを浮かべた。

「ぁあやっぱり……。この匂いだわ、間違っていなかった」

 何のことかさっぱり判らなくて首を傾げてばかりいると、優しい目を向けて語りかける様に言う。

「この香袋に使われている藤の花、どんな物か知らされている?」

「知らされて……?」

「この藤の花、私があなたのお母様に頼まれて藤の精霊から賜った、貴重な花なのよ」

「え……」

 香袋は長年使っているけれど、今までに匂いが褪せてしまうことは無かった。

 それは向こうの世界の花だったから──

「そう言えばお母さんから渡された時、絶対に失くさないこと、って念を押されました」

 思い出された忘れかけていた記憶。

「これ……かなり強い手掛かりになるわよ。藤の精霊は強い。他の樹に絡み付き、自分の一部にする位」

「本当ですか!? じゃあ、ぼくの影は──」

 まさかごくありふれたモノが、苦境を逆転させる鍵になるなんて、誰も思いはしなかっただろう。

 ぼくを向き直した四月一日さんの顔には、自信で満ち溢れている。

 そして力強く頷いた。

「ええ。必ず見つかるわ」

 その時、硝子戸が押し開かれた。

「サぁさあ君の影が見つかったよ! 場所は事始大市ことはじめのおおいち大競おおぜり会場は出品物保管小屋!」

 唐突な演出じみた大音声に店内が静まりかえり、それを破る、総勢五人の叫びが、

「「「「「「はぁあああ!?」」」」」」」

 と響いた。

 硝子を揺らし、空気を震わせる程の大合唱。

 その中に包まれて目を丸くしているしかなかった。


          *


「では説明しよう」

 その一言で幕は切り落とされた作戦会議は、一つの卓を囲んだもので、隙間になんとか入り込み、置いていかれない様にするのが精一杯だった。

「にしても驚いたね~。夕方に飛ばしてその日の夜に見つけるなんて。性能いいね、それ」

「いやぁ? ごくふつーの呪い掛けただけでのう。まあ、祈願も兼ねて二つほど重ねて掛けたのじゃ」

 四月一日さんが言っていた、藤の精霊から賜った香袋の匂いがついていたのだろう。

「姐様。人形が発見した影には、どうやら藤の加護が付与されていた様です。どの様にして付与されたかは存じませんが」

 うん。茉莉大正解。

 兎に角影の居る場所が判ったのは大きな収穫だ。

 でも、ぼくには気に掛かることが多すぎる。

「あの、ことはじめのおおいち、とは?」

 片手を真っ直ぐ上に伸ばして問うと、池鯉鮒さんはハッカ色の目を向けた。

「事始大市とは、毎年旧正月の最終日に開かれる大規模な市のことじゃぁ。そこには多種多様な珍妙な品が並ぶ」

 その先を、春秋さんが引き継ぐ様に口を挟む。

「その中心となり、市を動かすのは大競おおぜり、坊主の影はな、そこに出品されておる可能性が高いの」

 何故ぼくの影が、そんな大仰な競りに出品されるのか。それほどの価値があるとは思えない。

 だけどここは物々交換だ。モノ、の形をとっていれば何であれ成立する。

「先程仰有っていましたが、藤の加護が付与されている、と言いましたね。それなら価値は跳ね上がります」

「そうだな。藤の加護なんて持ってたら最強だぞ?」

 ……お父さん、お母さん、想定していたことよりも、何だかすごいことになりそうです。

「どうする? 今すぐ行ける?」

「いいえ鉄穴。せりは明日、明星の時間よ」

「そっかぁ……」

「んー……でもよお? 出品者を見つければ早くないか?」

「それは無理でしょう。全員素性を隠すのは得手でしょうから」

 危険なモノを扱うから、自分の身は自分で守れ、と言うことだろうか。


 翌日の午前四時半、大市に集合することを決定し、今日は各々休む運びになった。糸猫庵で。

 皆、今から家に帰るのが面倒で、無精なだけなんだと思う。

 各々座蒲団を枕にしたり、羽織を蒲団代わりにして、畳で横になった。

 時計に目をやるともう午後の七時を回っていて、体の倦怠感もあって、目を閉じればすぐ睡魔に絡め獲られそうだ。

「あれ、小鳥遊くんはもうお休みかな?」

 船をこいでいたのに気づいた様で、鉄穴さんがいつもよりワントーン低い声色で話し掛てくれけた。

「……はい。少しだけ、眠たいです」

 心配をかけさせない為の嘘を吐く気力もなく、睡魔に体を預ける覚悟を決める。

「まだ時間はあるさ。大丈夫。それまで、出来るだけ体力を温存して」

「判りました……」

 座蒲団を二つ折りにして作った、簡易的な枕に頭を投げ出した。

「──おやすみ」

 睡魔は鎌を持って意識と視界を刈取り、代わりに深い夢を与えた。


 藤の花を見た。

 大木に咲き誇る藤が、風に波打って大気を揺らす。

 大木は、良く見ると他の木に絡み付いている。他を侵食してしまうほど力強い大木と、儚い花。

 その下に、花と同様に儚げな人影を見つけた。

 長い髪は藤の花で出来ており、肌は向こうが透ける程白い。

 その人に近づいてみようとしたけど、ぼくは動けなかった。

 代わりに、その人がぼくの方に歩み寄って来る。

 足音はしなかった。裸足を地に擦る音も。

 その女性ひとは、ぼくの頬に手をあてる。

「──幸くあれ」

 それだけ言って、ぼくは倒れる。


「起きて!」

「うわっ!?」

 再び目を醒ませば、鉄穴さんの声が迎えてくれた。

「もう時間ですか?」

「そうだね。起きられる?」

 ゆっくりと起き上がると、体の倦怠感が少し軽くなった気がする。

「大丈夫です」

 力強く頷いて見せると、鉄穴さんは、よし! と確認する様に頷く。

「これから行くのはちょっと離れてるからな。地獄を経由していくぞ」

 そこに、横から顔を出した馬鹿さんが急かす様な声音で伝えた。

 もう怖がっている場合ではない。

 すると、馬鹿は突然ぼくを担ぎ上げた。

「ちょっとお前は心配だからな、すまねえが、暫く我慢してくんな」

「っはい!」

 答えると馬鹿さんは即座に駆け出し、お店を出て、二段坂を駆け上がり、、そのまま跳躍した。

「えっ──」

 宙に浮いている。

 下に、雪で白く染まった砂浜と、馬鹿さんの鍛え上げられた脚が見えた。

「っぇえぇええええええええ!?」

 唐突に高度に達し、叫ばずにはいられない。

 周囲に目をやると、全員同じ様に宙を駆けていた。

 一人で混乱を起こしていると、馬鹿さんが白い吐息を吐いて叫んだ。

「どっか別の場所に飛ばされちまうかもしれねえ! 小鳥遊! お前はその場所から一歩も動くな!」

「はいっ!」

 吹き飛ばされそうな夜の冷気に、負けない様にぼくも叫ぶ。

「その後私とバカ野郎、春秋さんと捜します!」

 糸さんの声が遠くに聞こえる。

「そりゃ良い! 神が来てくれるなら怖いもんはねえぞ!」

 確かに、春秋さんは付喪神であって、仮にも神様だ。

 納得していると、不意に、体の感覚が全て放棄した様に

「じゃあなっ、小鳥遊ぃ!」

 そして、視界は無理矢理に引きちぎられた。


          *


 鈍い痛みが身体中を襲った。

 視界は暗く、像がぼんやりとしている。遠くからは祭囃子の様な、太鼓や笛、長唄が聞こえる。

 そんな季節でもないだろうに。

 地面は硬い。よく触るとでこぼこしていて、石畳の様だった。

 灯りが見えるが、嫌な予感がして後ろに後ずさった。

 その時壁にぶつかって、そこが行き止まりと言うことを知る。

 身体のあちこちがひりひりする。

 視界が暗闇に慣れてくると、同時に状況把握も進んだ。

 ──そうだった。馬鹿さんに放り投げられて、でもそこからの記憶はあまり覚えていない。

 そう言えば、地獄を経由すると言っていた。

 じゃあここは?

「大市……」

 用件を思い出せば、あとは皆と合流するだけだ。

 しかし事前に、その場から動くな、と念を押されたばかりだ。

 それもそう。

 非力なぼくが下手に動いても、何かどうこう出来る力は無い。

 じっと息を潜めて──

 祭囃子を聞きながら、硬い石畳の上で、行き止まりの袋小路に、呑み込まれそうな暗闇。

 馬鹿さんが来てくれるのを、ひたすらに待つ。

 春秋さんもいる。

 大丈夫。大丈夫。だいじょうぶ、ダイジョウブ。

 少しでも息が漏れ出さない様に、意味が無いのに口を両手で強く抑える。

 すぐに消えてしまう気休めの暗示をかけていた。

 その時、

「わっ!?」

 どんどんこちらに迫る壁に、ぼくは逃げるしかない。

 逃げて、逃げて、路地の間から出て──

 そこには、見慣れない風景が広がっていた。

 そこかしこに立ち並ぶ露店。

 食べ物や土産物が並んでいるが、どれも異形・異質で、手に取る気にはなれない。

 そして往来を行き交う人々は、人ではなかった。

 頭部は人間のモノではない別のモノに置換されていて、恐怖心に拍車をかける。

 魚、蛙、鞠、提灯、その他、呪詛が記された紙片だけが浮遊している者や、下駄、算盤、錆びた歯車。

 首は無く、着物など衣服の上に物体が浮かんでいる様に見える。

 その群衆は、袋小路から出てきたぼくに、示し会わせたかの様に、一斉に振り向いた。

 背筋に悪寒が走る。

『ヤァヤア子供ガイルジャァナイ』

『ヌリカベヤ、ヨウヤッタノウ』

『コッチャコイ、旨イモノヲ食ワセテアゲルヨ?』

『イイエ、私ノ所ニオイデナサイナ。綺麗ナオベベヲ着セテ、美味シイオマンマ食ベサセテ、毎日遊ビマショウ』

『子供ノ肉ハウーマイゾ』

 いやだ。

 怖い気持ち悪い嫌な匂いがする悪寒が止まらない震えも治まらない怖い怖いいやだやだやだ──

 手が伸ばされる。

 それと同時に走り出した。

『『『『『『『マチナサイ!!』』』』』』』


「小鳥遊! どこ行った!」

「返事をしてくださーい!」

 俺達は飛ばされた先で小鳥遊を捜していた。

 案の定別々の場所に到着した様で、糸の奴と爺とは合流出来たが、小鳥遊が全く見つからない。

 鉄穴や四月一日、それからあの行商人も。

 時間は無い。

 只人タダビトがこの世にいちゃいけねえ。

 客寄せの喧しい喧騒の中、たった一人を見つけ出すのは困難だ。

 ニンゲンでなければ、の話だが。

 往来を走っていた時、視界の端、一団の塊を捕らえた。

 しかもその塊は、次々と集まった野次馬も吸収され、大きくなっていく。

 糸は明らかに異常な一角に顔をしかめた。

「あそこだな」

「でも、どうやってあの中から引っ張り出すんです」

「心配してくれんのか?」

「はぁ……。馬鹿さん、黙って実行してくれれば良いです」

 許可はなされた。

 口が三日月形になっているのが自分でも判る。

 俺は地に屈み、狼が飛び出す寸前の姿勢を取った。

 脚のバネを無理矢理に縮める。

 そして、野次馬に向かって飛び込んだ。

『ナンダ!』

『バケモノ!』

 異形頭の連中を蹴散らし、伸ばされた手が殺到している中心まで道を開ける。

 足を開いて着地した先に、小鳥遊が頭を押さえて屈み込んでいた。

「たかな──」

「厭!」

 手を伸ばしたその時、強く拒絶された。

 見開かれた目には生気の光が無く、息は荒く、身体は小刻みに震えている。

 俺とこの塊の区別がつけられていないらしい。

 唇を噛んで野次馬を睨み付ける。

「手前ぇら……」

 しかし群衆は意に介せず、小鳥遊と言う名のニンゲンを、我のモノにしようと再び手を伸ばした。

 俺は小鳥遊を小脇に抱え、異形頭を踏み台に、一団の塊を飛び越える。

 高度が下がる度に頭を踏みつけ、跳躍する。

 それにしても野次馬が途切れねえな……。

 真逆まさか

「馬鹿さん!」

 嫌な悪寒が背中を駆け抜けたその時、糸が野次馬の中で叫んだ。

「私が道を作ります! なので、貴方は──」

「判ってらぁあっ!」

 言葉を交わさずとも通じ会える程、俺達の腐れ縁は伊達ではない。

 手や頭を踏みつけにして、更に高く跳躍。

 それでも尚伸びてくる手も踏み、上へ上へと。

「? ……へ? うわぁあ!」

 その時、小脇に抱えていた小鳥遊の目が醒めた様で、暴れだした。

「危ねえって! 落ちるから落ち着け!」

「え。あぁすみません……」

「そこまで落ち込めとは言ってねえ。それよりも見てろ」

 俺はあいつに託した。

「影法師の真髄をな」


「糸さん。儂を依り代に使え!」

「ですが!」

「いつ朽果てるか明日も知れぬ身じゃぁ! そんなもんくれてやろうではないか」

「……感謝します」

 目を閉じる。

 雨の音が聞こえる。

 普段のヒトガタから五徳に──本来の姿に戻った春秋さんを両手で包み込む様にして、明方の闇に溶ける、私の影に取り込んだ。

 私は身体のほとんどを影に変えた。

 取り込んでも取り込んでも、貪欲に求め、尽きることの無い影。

 それらは波となって暗い深海の様に、掴んだモノを放して返さない。

 雨の音は、細波さざなみに変わった。

 膨大な量に膨れ上がったは、津波の如く群衆を呑み込んだ。

 異形頭が石油の様な重苦しい液体化した影に、一人、また一人と呑まれて行く。

 春秋さんを依り代にしているので、五徳に納まる程度に力は抑えられている。

 それでも群衆を襲う私を見ていると、恐ろしくなるのは事実だ。

 下では馬鹿さんが、僅かに浮かんでいる異形頭を踏み越えて行くのが見える。

 私は向こうを見やった。

 朽捨てられた鳥井を超え、その先にある神社。

 そこでは件の競が行われている。

 私はその下に広がる大市を蹂躙し、道を開ける。


「もう競が始まっちゃったよ!?」

 競は着々と進む、朽果てた境内で、私──鉄穴は焦っていた。

「焦らないの、鉄穴。来なければ落札するまでよ」

「幾らでだい? 財布持ちの四月一日殿」

 親友は口許に手を当て、考え込む素振りを見せた。

「ざっと……小樽の硝子細工のビヰドロを五つ」

 驚いた。

 高級品に換算すれば、匠が焼き上げた有田焼一ダースに相当する。

 今ここでもっと価値のある物品を競り落とせば、影を回収出来るかもしれない。

 仰々しく建てられた高台では、蟇蛙ヒキガエルの頭を持った、司会進行役が、次から次へと品を変えては値をつけていく。

『サアサア! オ次ハニンゲンノ影ニゴザイマス! 何トコノ品ハ藤ノ加護付キデゴザイマスル。サアッサ皆様オ手許ノ品ヲ示シテイタダキマス!』

 遂に競が始まった。

 小鳥遊くんの影は、掌に乗る石造りの箱に閉じ込められているらしい。

 漆塗りの盆に載せられたそれからは、内部から引っ掻く音が漏れている。

 すかさず四月一日が手を上げた。

「小樽のビヰドロ五つ!」

 会場が沸き上がる。

 喧騒が喧しい。

 これでは、私の耳でも聞けるモノも聴けない。

 後ろは何か暴力沙汰並みに五月蝿いし、ここでは競用語が飛び交っている。

 思わず耳を塞ぎたくなったその時──

『オ客様! 困リマス! 一体何ノ権限ガアッテ……』

 蟇蛙が何やら喚いていた。


 神社の様な場所に出ると、異形頭の集団が何やら手を振っていた。

 どうやら競をしていたらしい。

 しかし、活気溢れる異形なその光景も、馬鹿さんの登場で静まり返った。

 正確には、全てを呑み込む影と化した、糸さんの登場によって。

『オ客様! 困リマス! 一体何ノ権限ガアッテ……』

 蟇蛙の頭を持った、高台に立つ妖怪が止めようとするも、こうなってしまった糸さんの前では、その貫禄も無意味に思えた。

「黙りゃ」

 ──えっ?

 今、糸さんが口を開いてモノを言った。

 だけどそれは怒気と殺意が込められていて、とても、普段の温厚な声の面影は見つから無い。

 蟇蛙の顔がひきつっている。

「この競に、私の大切な人の影が出品されている、と聞きまして、こうして参上しはった次第にございます」

 聞き慣れない京言葉。

 その訛りは腹の底に鈍痛を響かせる様で。

『ア──貴方様ハ、何方デスカ!? 名ヲ、名乗ッテモライマショウカ!』

 糸さんは、蟇蛙の要求を気怠そうに聞き、またその権限があるかの様に見えた。

「…………うまれは、京都は朱雀大路の寂れた路地裏。産みの親は名も顔も知りませぬ。育てたるはぁ──」

 そこで意味を込める様に一度切った。

「京の山における、猫王・錦の鯉」

 言い切ったその直後、どよめきが拡がる。

『猫王ダト!?』

『オォ猫王! マサカ貴方様ハ……』

「糸、と申しんす」

 会場が割れた様に騒ぎだす。

 そして媚びる様に、異形頭が次々と足許に寄って来た。

 糸さんはそれを見て、尚更腹の虫の居所が悪くなったらしい。

「小鳥遊」

「はい」

 不意に馬鹿さんが話かけてきた。

「お前、あそこ見えるだろ? 四角い、石造りの箱」

 元は賽銭箱があった場所には重厚な台が置かれ、その上に、馬鹿さんの指し示す箱がある。

「あそこまで走れ、俺は出品者を探す」

「無理ですよ! これ程囲まれているんですよ……?」

 さっきから、媚を売ってすり寄って来る群衆が止まらない。結果的に周りを囲む形になってしまい、動こうにも動けない状態だ。

「いいや行ける。万が一でもお前には、お袋さんのお守りがあるだろ! しっかりしろ」

 藤の加護がどれくらい強いモノかは知らないけれど、今、ここを突破出来るくらいの力があればそれでいい。

 ぼくは何も言わずに頷いた。

 馬鹿さんは口を三日月形にした。

「よっしゃ! 心意気はばっちりだな。そんじゃ、行ってこぉい!」

 そして、小脇に抱えたぼくを上方に放り投げた。

 身体が宙に浮き、一瞬感覚が麻痺する。でもこのまま落ちる訳にいかない。

 ぼくは空中で体勢を整え、着地する瞬間、一度地面を蹴って、前方にでんぐり返しで転がった。

 痛みは大分軽減されると言うけれど、全身に分散されてやっぱり痛い。

 また伸ばされて来る手を避けて、地面を思い切り蹴って走り出す。

 壊れて足を取られそうな石畳を駆け抜け、石造りの箱に手を伸ばした──


          *


「こんにちはー!」

「いらっしゃーい」

 糸猫庵を訪れると、糸さんではなく、鉄穴さんの声が迎えた。

 昼間から酒杯を傾けている。

「いらっしゃいませ……」

 それから一際疲弊した声で迎えたのは、糸さんだった。

 顔のほとんどが見えないけど、心なしか、表情筋を動かすのも辛そうだ。

「大丈夫ですか……? やっぱりお店、しばらく休んだ方がいいんじゃ……」

「ほら、小鳥遊ちゃんもこう言ってるわよ」

 横から手鞠さんが口を挟む。

 しかし糸さんは意地でも、と言った感じで、そのまま厨房に立ち続ける。

 それでもカウンターにもたれ掛かる姿は、見ていてこちらまで辛くなってくる。

「ぁあそうだ。ご注文は?」

 つとめて普段の様に話しているが、口調からも疲れは抜けていない。

 ぼくは首を横に振った。

「あの、今日はお見舞い……と、お礼です」

 言って、手提げ籠をカウンターに差し出した。

 籠には名店の和菓子を詰め込んである。

 あの大競で影を取り戻せたことを考えれば、到底これくらいでは足りない。

 でも、今のぼくに出来るのはこれが精一杯だ。

 小さい頃から貯めたお年玉も消費した。

 結果的に影は取り戻した。

 それから、分離していた影が再びくっついたのである。

 その時池鯉鮒さんに、

 理屈は全く判らないけど、曰く、特殊な糸で縫い付けた為、これ以降離れることは無いだろう、と。

 あれから変わったのは、一番は、自分の影がちゃんと地面に写ること。

 次に、糸猫庵の常連さんが二人増えたこと。

 言うまでも無い、池鯉鮒さんと茉莉だ。

「お邪魔するよ」

「お邪魔致します」

 噂をすれば、その二人組が来店する。

 目を向けると、茉莉が少しだけ笑った様に見えた。

 気恥ずかしくなって思わず顔を背ける。

 そのすぐ後、馬鹿さんが勢い良く表れた。

 その手には一升瓶が握られている。

 ラベルには「鬼殺し」と毛筆で書かれていた。

「よおこの野郎! 大分お疲れだな。とっとと倒れて合法的に休んじまえ」

 糸さんは突然の来客にも動じないどころか、酒瓶を奪って、らっぱ飲みで半分程空にした。

「ああぁああああああああ!! 俺の酒がぁあああああ!」

 うん。休もうよ、糸さん。

 お酒を半分空にされた馬鹿さんは、とぼとぼとこちらに歩いて来る。

「……ちょっと話に付き合ってくんねーか」

 ぼくは黙って頷いた。

 馬鹿さんは畳の席に座り、隣の座蒲団を叩いた。

 ここに座れ、と言うことだろう。

 腰を下ろし、外套のフードを外して話を聞く。

「ま、取りあえず影が戻っておめでとう、だな」

「本当にありがとうございました」

「良いってことよ」

 和やかな雰囲気で始まった会話に、自然と笑顔が零れる。

「だけどな、ちょっと疑問が残るんだよ。あ! 俺の個人的な見解だけどな?」

 和んで無くなった筈の緊張が、すぐに戻ることになった。

 馬鹿さんは顔をしかめ、切り出すのを躊躇っている様だった。

「あのな、お前の影を盗んだのは、俺の同僚だった。で、なんで影を盗ったら駄目かってーと、魂の器になるからだよ」

「魂の器……?」

「それが無いと、死後魂の回収が難しくなるんだ。魂の器だからこそ、魂を喰べる奴からしたら、ご馳走が載った皿でしかねえんだ」

 じゃあ今まで、ぼくの魂は分離していたってことになるのかな?

 それが引き離されて、体調不良になった。それなら辻褄が合う。

「それで本題はこっから何だけどな」

「……はい」

「お前、向こう行った時何か口にしたか?」

 質問の意味があまり判らない。

「全く覚えていません……」

 答えると、馬鹿さんは、そうか……、と難しそうに眉間に皺を寄せる。

「騒動が収まった後、野次馬の何人かに訊いたんだが、お前は何か喰わされていたらしいんだ」

「? ……それがどうかしましたか?」

 質問の意味は判らないけど、悪寒がする。

「あの場で作られていたモノは、のモノである可能性が高くてな。黄泉戸喫よもつへぐいをしちまった可能性もある訳だ」

 そこまで言って、一度言葉を切った。

 まるで、意味を込める様に。

「だとしたら──お前は何で、こっち側に戻って来れたんだ?」


          *


 本日の料理

 ・南瓜饅頭

 ・お茶漬け風スープパスタ

 ・親子粥

 

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