二譚 墓守紙風船
「今日は風が強いなあ」
そっと、誰にも聞こえないように呟く。
墓石が倒れていないと良いけど。
鎧戸の外をびゅうびゅう、ごうごうと吹き付けている。
明日もお仕事ができますように。
祈って、布団に潜る。
*
お昼頃、お仕事が半分終わって、昼休憩の時間になる。
今日は、久しぶりにどこかでご飯をたべたい。
土や埃で薄汚れた仕事着から、
焦げ茶と黒の肩提げかばんに、財布、お守りを入れて出かける。
『
ぼくは墓守だから、顔をあんまり見せちゃいけない。
──何でだっけ。
高台の霊園を下っていった。
*
今日の空は鉛色。外套と同じ色。
街に行くには、坂を上ったり、下ったりして行く。
昨日から風が吹いている。外套が時折飛ばされそうになった。
こんなに風が吹いているのに、空のクジラは悠々と泳いでいる。
この二段坂を下るとバス停があって、そこから出るバスで街に行く。
いつもこの道が怖い。
墓守なんかが人の前に出ても良いのかと、ご先祖様が見ている気がして。
ヒトが怖い。幽霊とか、生きていないヒトは怖くないのに。
今日はやけに、道も石垣も暗く見える。
石垣の群れの中に、見慣れない路地を見つけた。
細い路地の石垣に、釘で打ち付けられた鉄色の長方形な看板。
『お代は物々交換』そう書いてあった。
反対側に、一面硝子の壁と硝子戸が埋まっている。硝子戸の上で、金属製の鈍い銅色の看板が風に揺れた。
「
看板に書かれた文字をそのまま読み上げる。
「お入りなさいな」
その時不意に、どこかから女性の高い声がした。
「こっちよ、こっち。あなたは墓守さんね?」
墓守。それだけの言葉で締め付けられる。
声のする方を見ると、硝子の向こう、文鳥が入った鳥籠があった。
「……文鳥さんは、死んでるヒト?」
「失礼ね」
「ごめんなさい……」
そう謝ると、文鳥さんは毛繕いを始めた。そしてぶっきらぼうに、
「そんな所に突っ立ってないで、入りなさいな」と言う。
本当に入ってもいいのかな。
文鳥さん、怒らせちゃったよね。
入ったら駄目、だよね。
「焦れったいわねとっととお入りなさい!」
「ごめんなさい!」
ほとんど反射的に硝子戸を押した。
セピア色の古ぼけた店内には、二人のヒト? が居た。
片方は、長い金髪の女性で、紫の眼と、狐の耳、それに尾を持っている。
カウンター席に座り、奥の男性と何か話しているようだった。
「糸~もう一杯!」
そして、昼だと言うのに既に酔っている。
糸と呼ばれた男性は、三毛色の髪で、杏子色の着物に、紺の前掛けをしている。
顔は幅広の赤茶けた布で覆われていて、それには眼の模様が描かれている。
明らかにヒトならざる者が二人居る。でも、ぼくにはそっちの方が比較的話せるから、助かる。
それと、もう一つおかしい点があった。
「窓がある……」
ここは石垣の中にある筈だ。それなのに、通りが見渡せる、縦に細長い窓がある。
不可解なそれらは、採光窓の役も担っている。
その男性がこちらに気づくと、にっこり微笑んで、涼しい声で言った。
「いらっしゃい。今日は肌寒いですね」
「えっと、……こんにちは」
顔を隠す様に頭を下げる。
外套を直すふりをして目深に被った。
カウンターに近寄って行き、台の上に顔を出す。
「当店は物々交換です。何か、交換できるモノは持っていますか?」
糸さん──狐耳の女性がそう呼んでいたから、そう呼ぶことにする──にそう言われて、外の看板を思い出した。
とっさに、かばんの中に入れていたモノを取り出した。
「折り紙ですか」
いつもこのかばんに入れている、折り紙五十枚入りセットから一枚取った。
「見ててください」
鮮やかな赤の正方形を折り、どんどん形を変えていく。
うん、綺麗に出来た。
「出来ました」
そう言って台の上に完成品を載せた。
「飾り鶴、ですね。いいですよ」
糸さんは赤い飾り鶴を見ると、快く承諾して調理を開始した。
ぼくはその間にもう一つ折り始める。
「お昼ご飯ですか?」
「はい」
じゅうじゅうと音を伴いながら、美味しそうな匂いが漂ってくる。
「え、なにそれ美味しそう。ねえ糸、私にもそれ作って」
隣で酔っていた、狐の女性がカウンターに乗り出してねだった。
「いいですけど、追加料金は払ってもらいますよ」
「……あ~い」
そう言うと手慣れた仕草で、横の椅子に置いていた白いかばんから、一枚の写真を取り出した。
それを受け取った糸さんは、顔、と言うより口をひきつらせた。
「
嫌な写真だったのか、声が震えている。
鉄穴、と呼ばれた狐の女性は、カラカラと笑って陽気に答えた。
「呑み比べしたときだよ。覚えてない? あの後さあ、爆睡してたんだよ。結局残った酒は私が全部飲んだし、糸の寝顔は撮れるわで、や~お得な取引だった」
……かける言葉が見つからない。
そうこうしている内に、もう一つ折り紙が出来た。
気まずくなった雰囲気を払拭する様に、手渡す。
「あの、これもお願いします。“耳のついた紙風船”です」
通常の紙風船の折り方に工夫を加え、その名のとおり、耳をつけたモノだ。兎風船ともいう。
糸さんは調理の手を止め、珍しそうに、色々な角度から紙風船を眺めていた。
「ねえねえ」
不意に横から肩を叩かれ、見ると鉄穴さんも珍しいのか、興味津々な目付きでこちらをみていた。
「よかったら私にも作ってくれるかな? あ、私は
改めて自己紹介を受け、笑って差し出された手を、おずおずと握り返した。
ヒトじゃなければ、こうして仲良くできるのに。
「はい。喜んで」
もう一つ紙風船を折っている間にも、料理が出来そうだ。
「あの、すみません」
「? はい、何でしょう」
「その……料理を、包んでもらえませんか?」
そう申し出ると、糸さんは以外そうにこちらをじっと見て、何か考える様に暫く固まっていた。
「……すみません。食べていきますから、さっきのは忘れて──」
「いえ、良いですよ。すぐにお包みしますので、もう少々お待ちください」
そう言って微笑むと、素早く手を動かし、あっという間に包みを一つ作ってしまった。
小さめな風呂敷に包まれたそれがカウンターに置かれると、実に美味しそうな匂いが隙間から漏れた。
これは多分……卵。
「ありがとうございます」
来たときと同じ様に頭を下げ、まだ温かい包みを受けとる。
帰り際、
*
「……あの子、影が無かったよね」
糸の作る料理を待ちながら、さっきの墓守について話題を提示する。
あの服装──顔を隠せる外套スタイルは墓守に多い──から墓守なんだろうと推測した。
「そうですね。ああいう方に逢ったのは初ですけど、実際いるんですねえ」
私は何人か見たことがあるが、それでも片手に収まる位だ。
「
そう聞かれて、私は記憶のそこからありったけの情報を掬う。
「うーん……。多分あれは、引き剥がされたんじゃないかと思うよ」
子供と言うのは、私達が一番干渉しやすい者だ。
だからああ言った子供達が絶えない。
でも影を無くすかとるかなんて、誰にも出来ることじゃない。影は強力に縫い付けられているモノだから、とるのが難しい。
他人にその存在が認知されている分だけ、それは強くなる。
じゃあ、あの墓守は──?
「ところで
「ん、なんだね」
「先程の写真を撮る前、私はどうなっていたんですか?」
「…………さあてねえ」
わざと含み笑いを見せて答えた。
すると出来上がった料理の皿が、叩きつける様にカウンターに載せられた。
ちなみにあの写真は、店を出た後写真を撮っていないのに気づいた時に撮ったモノだ。
*
最後の客(鉄穴)が店を出た後、慣例の掃除をしていた。
カウンター席を磨きあげていた時、視界の端に何かを捉えた。
椅子の上にあったそれを取って見ると、お守りの様だった。
鼻を近づけると、
「……香袋か」
誰かの忘れモノだろう。
しかし今日この席に座っていた客は一人。
本日初来店の、墓守の客だ。
*
霊園の裏口に、石造りの塀と、草が絡まり、錆びた鉄製の柵がある。そこから敷地に入ると、小規模な庭と平屋の家が見える。
この時季は、露草と金木犀が咲いて、小さめな家庭菜園では、人参とさつまいもを植えている。
くすんだ灰色の瓦屋根、太い柱が家全体を支えていて、淡い色の漆喰で壁が塗られている。
渡り廊下は季節を無視して年中雪見障子だ。障子を開けると縁に出る。
今日は鎧戸を閉めた方がいいかな。
築八十年位の古い家だけど、まだ頑丈だ。
縁のすぐ横を通り過ぎて、玄関に近づくと、屋根に吊られたランタンがひとりでに点灯した。
手探りでかばんから鍵を取りだして開け、引き戸を滑らせる。
かばんを一度床に置いて、くつを脱ぐ。
急に、外套を後ろから脱がされた。
振り向くと、そこにはぼくの影が居た。
「ただいま」
少し笑って、横のかばんから包みを取り出して見せる。
「今日はね、すごくお洒落なカフェを見つけてね、お昼をそこで買ってきたんだよ」
ぼくが歩くと、影も肩を並べてついてくる。この影はもう、意思を持っているんだ。
でも、そんな生活も悪くない。
今は家の掃除を任せたりしているし、なんだかんだ共存している。
ぼくは子供の頃からヒトが苦手で、その穴を埋めるように、ヒトじゃないものが視えた。
友達もいなくて、両親は居たけど、独りっ子だったから、立派な墓守を育てるのに必死だった。
確か十三歳の誕生日だった様に覚えている。
ある日、木蔭でうずくまっていた、お化け(そう呼んでいる)を見つけた。
その日両親は出掛けていて、とにかく暇だったから、興味本位で話しかけてみたのが始まり。
お化けは色んなことを識っていて、内側に友達を持っている様な存在だった。
ぼくは外に友達を欲しがっていた。
お化けにその悩みを打ち明けたら、お化けは、小鞠の様な“砂糖菓子”を手渡して、食べるよう言った。
悩みごとを解決できるなら、とそれを躊躇することなく全て食べた。
そうしたら、影とぼくが分離した。
昔、影を分離させたお化けは未だに見つられていない。
あれからぼくはちっとも年を取らなくなって、両親はぼくを忘れ去って、ぼくはあの日のままずっとこうだ。
あの日からぼくはどんどん変わってしまって、肌の色は灰に近い白に、髪は銀灰色になってしまった。
ただ、眼の色だけは変わなかった。まるで呪いの様に。
戻りたいと思っても、影は良い“内側の友達”だし、今のところ、影を戻す気はない。
友達を失くすのが怖いし、自分が死ぬのも怖い。もう長く生きたのに、それでもまだ怖い。
戻れるのかも、一切判らない。
居間の机に包みを置いて、勝手から食器を取ってくる。
影は包みの中身が気になるらしい。
卵の匂いがする包みを開けると──
「オムライスだ……」
作るのはハードルが高そうで、ここ数年食べてなかった料理の一つだ。
丸皿に移して、包み紙を捨てようと席を立った。
そこでようやく、風呂敷の底にもう一つ、紙が添えられた何かがあったのに気づいた。
それは、丸い抹茶色のコースターで、添えられていた紙には、文が書かれていた。
『次回からそのコースターを持ってご来店ください。それが目印になります。
またのご来店を、お待ちしております。
糸猫庵』
目印?
「ねえ、これどういう意味だと思う?」
影に訊いても、まじまじと見詰めて首を傾げるばかりで、やはり答えは得られなかった。
当たり前だ。影もぼくなのだから、同じことを考え、行動する。
折角だからコースターを湯呑みの下に敷いた。
「いただきます」
ぼくが手を合わせると、影は向かい側の椅子に座って、皿を覗き込む。
スプーンで分厚い卵を切ると、中のご飯が隙間から覗く。
五目ご飯だ。
五目オムライスだったんだ。ケチャップをかけて、味を台無しにしなくてよかった。
一口運ぶと、卵が甘い。砂糖が入ってるのかな。
五目ご飯の塩味と卵の甘さが相まって、甘塩っぱくなっている。
夢中でオムライスをかきこみ、食べ終わって皿がむなしくなると、不意に涙が込み上げてきた。
もう何年も他人の手料理を食べていなかったから。
何で食べてしまったんだろう。
何でどこかで食べたいと思ってしまったんだろう。
必ず反動が来るのは、判っていたはずなのに。
影が心配しているのを余所に、ぼくは決意する。
明日、もう一回あのカフェ──糸猫庵に行こう。
また同じ料理を食べたら、それで満足して、忘れられる筈だから。
*
翌日、昼になるのを待って、抹茶色の丸コースターを持って出掛けた。
周りをよく見ながら、見落とさない様に二段坂を下って、糸猫庵を探し歩く。
多分、あの空間はヒトならざる者にしか造れないんだろう。
コースターは、いわば通行証だ。そうでなければ、わざわざ風呂敷で包んだりしない。
確か、昨日来たときはこの辺りにあった筈だけど……。
無い。
どこにも無い。
何で? コースターもちゃんと持ってきた。
不安に駆られながら辺りを見回す。しかしあの石垣の隙間の細い路地は、見つからなかった。
今にも雨が降りだしそうな鈍色の空の下、強風が外套を吹き飛ばして、灰色の髪が踊った。
暗い色の道に斑点が表れて、あっという間に本降りになる。
どこでもいいから雨宿りする場所が欲しい。
それこそ糸猫庵。
昨日は突然現れたのに、ぼくは捜し物が下手なんだろうか。
「こっちよ、こっち! 墓守さん!」
昨日聞いた文鳥の甲高い声が聞こえる。
昨日も文鳥の声を聴いて、糸猫庵を見つけたんだっけ。
もう一度周りを見渡すと──
「在った……」
鉄色の看板がある細い路地。そこから響く文鳥の声。
良かった。
しかし、今は胸を撫で下ろしている場合ではない。折りたたみ傘も持ってきていないから、早く中に入らないと風邪を引く。
外套を即席の傘代わりにして走った。
既に髪や顔は濡れてしまっているけれど、せめて軒下に入るまでの間持てば良い。
細い路地の奥で、ランプをつけた電柱が、ぼんやりと路地を照らしていた。
硝子の向こうで、文鳥さんが昨日と全く同じことをいう。
「お入りなさいな」
今日はためらわずに入れた。
雨の
カウンターの奥で作業していた糸さんが、振り向き様にいつもの台詞を言おうとして、固まる。
「いらっしゃい、今日は……え?」
まあ、客がずぶ濡れだったら驚かない店員は恐らく居ないだろう。
「ごめんなさい、こんなで来てしまって。すぐ、帰るので──」
雨で濡れたぼくを見た糸さんは、すぐに奥の扉から出ていった。
やっぱり、誰だって不快な気分になるよね。
踵を返して硝子戸を押し開こうとすると、後ろから肩を掴まれた。
後ろを振り返ると、今日も来ていた鉄穴さんが、手拭いを片手に立っていた。
「糸がタオルとか持ってくるから、君はここで待ってようか」
そして手を引いて店のソファ席に誘導し、座らせる。
かばんを肩からおろして、脇に置いた。
「ほらほら、これも脱がないと風邪引くよ。あ、これ、あんまり役に立たないだろうけど、良かったら使って」
何かと世話を焼かれるのは、悪い気はしないけど顔を隠す為の外套は少し抵抗がある。
だけど世話を焼かれているときに拒否できる勇気も無く、ただ黙って鉄穴さんのしたいようにさせていた。
そこに、糸さんがバスタオルを両手に抱えて戻ってきた。
「どうぞ、これ使ってください。ああそうだ、何か温かいものを作りますよ、何がいいですか? お代はいただきませんよ。遠慮なく言ってください」
口調は心配しながらも、まるで、拒否権は無い、とでも言うような圧で言われたので、“温かいもの”を必死に検索する。
「え? えっと、じゃあ、ほうじ茶、お願いします……」
バスタオルを半ば押し付けられる様に受け取って答えた。
「その外套も預かりますよ、乾かしておきます」
そう言って空いた片手を差し出してくる。ここで遠慮するのは申し訳ないので、濡れた外套を渡した。
「……ありがとうございます」
「コースターはお持ちですか?」
「あっ、はい持ってます!」
ポケットの中を手探り、丸い抹茶色のコースターを手渡す。
それを受け取った途端、糸さんは台所に走って行った。
去り際、一言残して。
「
「よっしゃ任せろ」
横に座っていた
受け取ったバスタオルを鉄穴さんが手に取り、ぐしゃぐしゃとぼくの頭を拭く。
「墓守くん、名前は?」
「……
「それだけ? 下の名前は?」
ふるふると頭を横に振る。
「へえ……」
「ん?」
不意に疑問声を発すると、ぼくの頬を両手で掴み、眼を覗き込んだ。
「な……なん、ですか?」
頭を恐怖がよぎったのと反対に、鉄穴さんの表情は好奇心で満ちている。
墓守として、顔を他人に見せることは避けるべきことなのに、外套を取られ、その上覗き込まれるのは耐え難かった。
「小鳥遊くんの眼の色は面白いよねえ。黒目勝ちだけど、碧色で、光によっちゃ蛍光に見えるんだから不思議だよ。ほら、糸も見る?」
カウンターの方に向けて大きな声で言うと、打って変わって、落ち着いた声が返って来る。
「取って喰えとでも言うんですか。私が欲しいものは、あくまでも交換で手にはいるモノですよ」
眼を褒められたのは初めてだ。
両親はぼくの素質にばかり眼を向けていたし、生まれつきと聞かされていたから、自分でも気にしたことはない。
むしろ、ぼくは自分の白すぎる肌や、灰の髪がずっと嫌いだったし、眼の色も、気味の悪い変な目、としか思うことは無かった。
それを褒められると、どちらかといえば不快で、何故か、嬉しいとは思えない。そんな自分だから尚更嫌いになる。
そんなことを考えている内、髪が大分乾いた代わりに、
ちょうどそこに、糸さんがお茶の載ったお盆を持ってきて、机に置いた。
「どうぞ、ほうじ茶と大判焼きです。暖まってください」
ほうじ茶は白い湯気がたつ程熱く、大判焼きも、包み紙の部分を持っていても熱いくらいに暖められている。
冷えきった体には良いけど、舌が火傷しそうになるのはどうにかならないかな。
しばらくお茶に息を吹きかけたりして、程よく冷めたところで大判焼きを口に運んだ。
「美味しい……」
大判焼きの中身は粒餡だった。
「それは良かったです」
カウンターで様子を見ていたらしい糸さんが、布で覆われた顔を覗かせて言った。
「それにしても糸、いつの間に焼き器を入れたんだい」
「つい昨日ですよ。先週古物市に出掛けたんですが、その時これを見つけましてね。店を閉めている時間に練習をして、漸く入れたんです」
大判焼きを頬張ってほうじ茶で流し込むと、一気に体が暖まる。
二つ目はカスタードクリーム、三つ目はこし餡が入っていた。
全て食べ終わった頃には雨も止んで、外套も乾いていることを期待したけど、そんな都合の良いことは無かった。
窓の外の雨は一向に止む気配を見せず、外套も、湿気が多くて乾かないと糸さんに聞かされた。
しばらく滞在することになり、今すぐに帰りたいのをこらえて、暇潰しにと折り紙を折る。
兎風船、鶴、カメラ、蛙、足の生えた紙飛行機……。
時間が過ぎる毎に作品は机の上に増えていき、雨は表情を変えず、時計は午後二時三十五分を指していた。
いつもなら、霊園のお墓を見て回って、掃除したり、植木の手入れをしたりしている時間だ。
影も心配してるかな。
影に傘を持ってきて貰いたいけど、どういう訳か敷地に縛られていて、自由に出入り出来るのはぼくだけ。
するとしたら、ぼくの後ろにつかないと出られない。
誰にも聞こえないように、喉の奥でため息を吐いた。
誰かに傘を借りる勇気もなく、かと言ってザアザア降りの中走って帰れる訳もない。
お墓のこと、霊園の生け垣の手入れ、明日やること、今日は他にもやることがたくさんあるのに……。
色々なことがぐるぐると頭を回っているうちに、うとうとしてきた。
*
隣で船をこぐ
「寝ちゃいましたね」
「うーん……。どうする?」
頭を捻っている横で、糸がそっと毛布を掛けた。このイケメン。
そして乾いた外套を持ってきて、カウンター席で作業をし始めた。
「それ何やってんの?」
椅子から立ち上がり横から覗き込むと、台の上に裁縫道具と幾つか布が置かれている。
「繕っているんですよ。見ての通り、所々破れているでしょう」
話ながらも手は素早く動いていて、一旦口に加えた縫い糸を針に通し、外套の破れた箇所に、抹茶色の布を宛がって縫い付けていく。
昔、誰かにパッチワークとか言うモノを見せてもらった。糸がしているのはそれだろう。
暫く見ていると、あっという間に修復された外套が完成した。
完成したそれを、静かに
その重みで目を覚まし、跳ね起きた。
「へっ? すみません、ぼく、寝てて……」
そしてかばんに折り紙作品を詰め込んでいく。
「あの、もう帰らないといけないので。お茶、ありがとうございました」
寝顔を見られたのが恥ずかしかったのか、或いは別の理由があるのか、作業する手は速くなっていく。
「外はまだ雨が降っていますが? それに傘も持っていないでしょう」
糸の言う通り、窓の外はザアザア降りのままだ。これでどうやって帰れよう。
「仕事か何か知らないけど、今日は止むまでじっとしてた方がずっと良いけどねえ」
そう引き留めても
「お仕事、ですから。それに、大切なお墓に何かあったら……」
今にも飛び出して行きそうだ。
何故そんなにも執着するのか、私にはよく判らない。
糸は私の横で困った様に首を捻っていた。
「あ、そうだ」
不意に漏らす様に呟いて、奥に引っ込んでしまった。
何かと思って暫く
「お待たせしました」
戻ってきた糸は、その片手に青い傘を持っていた。
ああ成る程、そう言うことか。
「今日はこれでお帰りください。後日、一日中晴れる日に再度来店し、お返しください」
こうすれば、
傘が手渡されると、小鳥遊くんの感情変化が少ない鈍色の目が輝いた。
*
「……良いんですか?」
鮮やかな青い傘を使うのは、もったいない気がした。
でも、またお店に来るには傘が必要だろう。
霊園以外の、うたた寝するほどくつろげる場所にまた来るために。
硝子戸を押し開くと、文鳥が鳴き、電柱が路地を照らす。
傘を開くと、鈍色の空が青で隠される。
傘を打つ雨音は、一つの曲みたいだった。
翌日、仕事を早く切り上げて傘を返しに行ったのは言うまでもない。
その日は本当によく晴れていた。
テレビがないから、棚の奥に眠っていたラジオを引っ張り出し、事前に天気予報を聞いた。
その日から、周波数を合わせて無機質な天気予報を聞くのが日課になった。
ただ、古い型のラジオなので時々雑音が
今思うと、我が家は古いモノばかりだ。
黒電話や邦文タイプライターに、文机なんかもある。
『──明日未明から夕方にかけて、暴風雨──でしょう。落雷に警戒が必要です』
雑音が酷くて聞き取り辛かったけど、明日は雨だと判った。
そう言えば外は風の音が大きくなっている。
対策に鎧戸を全て閉じ、霊園のお墓が倒れないことを祈った。
雑音を発し続けているラジオを消して、布団に潜り込む。
ぼくの寝床は押入れを改造したベッドになっている。どこかで読んだ本によると、アルコープベッドと言う似た物があるらしい。
この時季貴重な晴れている日に、半日干した布団だ。寝心地が違う。
同じく半日干した枕に顔を埋める様にして、毛布をすっぽり被る。
ずっと作っていた猫の抱き枕がやっと完成して、不格好だけど、今日から布団が暖かくなるといい。
文字通り抱きついて目を閉じる。
いつもより早く睡魔が訪れた。
*
朝早く目が醒めたとき、鎧戸を激しく叩く音がしていた。
時刻は午前五時。
明確すぎる程に嫌な予感がする。
急いで作業着に着替えて、跳ねた寝癖も放置し、朝食も摂らず、外に出る。
出掛けに、影が何かを言いかけて止めた。
ぼくはそれに気付かず、雨と風が吹く中、代々続く霊園に向かった。
大粒の雨が横殴りに降り注ぎ、倒れた墓石や細い倒木が、強風の程度を示していた。
「折角手入れをしたのに……」
思わずそう呟くほど、霊園は荒れていた。
強風で花壇の花が全て倒れ、金木犀の株は傾き、太い木の折れた枝が墓石に寄りかかっていた。
一晩で全て奪って行くのが自然だ。
この程度の損害、どうとでもなる。実際、今までずっとそうしてきた。
きっとこれからも。
外套を深く被って、折れた枝を回収していく。
雨粒が頬を伝い、体温が奪われていく。
傾いた墓石を正して、盛り上がった土をスコップで
倒れた墓石は納屋に運び込み、ひび割れがないかチェックする。
それほど広くないとは言え、自然の地形をそのまま利用しているので高低差があった
緩やかだけど、それでもスコップと一輪車を引いて移動するのは体力が要る。
墓石や折れた枝を積んだ一輪車は、雨でぬかるんだ地面に何度もタイヤがはまって、その度に転んだ。
花壇に防水布を被せ、煉瓦を幾つか重ねて固定する。
雨足は強まり、風が体を冷やしていく。
かといって風邪をひいている暇はない。お仕事は明日もあるし、墓石の修理も、石材店に依頼しないといけない。
お父さんとお母さんが守った霊園を、壊す様なことがあっては。
一通りの作業が終わった時、時刻は午後二時四十五分を回っていた。
家では影が、バスタオルを三枚も用意して待っていて、ぼくはそれらを全て使った。
汚れた服を洗濯機に入れ、一番汚れが酷い外套を洗面所で手洗いする。
お風呂を沸かして、汗と埃、それと顔に付いた泥を洗い落とした。
お風呂から上がって、洗濯物を干し終わった頃には、時計はちょうど午後三時を指し示していた。
髪も乾かさないままに、布団に寝転んで一息ついた。
その時お腹が鳴って、朝食を食べていなかったことを思い出す。
食事を、と思ったけど力尽きて起き上がれなかった。
悪天候、いつもより厳しい体力仕事、このコンボで体力の消費が激しかったんだ。
明日はきっと筋肉痛になる。
「お腹空いた……」
食べる為に動きたいのに、空腹と疲労で動けない。
兎に角疲れがとれるまで動かず、体力を消費しない様にしないと。
空腹が限界に達した頃、やっと動ける位に回復した。
布団から起き上がって、ふらふらと勝手に向かう。
とりあえず卵とお米があれば良い。それさえあれば満腹になれる。
祈る様な気持ちで、これもまた古い冷蔵庫を開ける。
機械的な光に照らされた庫内に、片手鍋に豆腐が一丁と、卵の十個入り一パックが、未開封で入っている。
その他には何も無い。
その時、
──バツンッ!
「ひやっ!?」
反射的に目を閉じて飛び上がった。
恐る恐る目を開けると、家中が暗い。真っ暗で、見えない。
今のはブレーカーが落ちた音じゃない。
停電。
事実、ブレーカーを上げても電気が灯かない。
「どうしよう……」
ガスは通っているから、お米を水を張った鍋に移し変えて、
押入れから手探りで取り出したカンテラに、火を灯した。
それを机の上に置き、鎧戸の閉めきった部屋で一人、ひたすら復旧するのを待つ。
お腹が空いた。電気も使えない。外にも出られない。
そう言えば前にもこんなことがあった。
悪天候で外に出られなくて、あの時は傘を借りられた。
今日はついていない。
小一時間待って、復旧しないから更に一時間待ち続け、ただ動かず、じっと待った。
わずかな光を頼りに壁時計に目をやると、午後五時手前を指していた。
既にお米が炊けて、何のおかずを作るか悩んでいた。
電気が使えなくて、冷蔵庫で保存出来ないから、出来るだけ早く調理したい。
責めて野菜が欲しかったけど、贅沢は言えない。
頭をひねらせている所に、玄関が叩かれた。
「今晩はー」
直後に、一度聞いた声。
小走りで玄関に向かうと、曇り硝子の向こうに大きな影が見えた。
引戸を横に滑らせると、
「糸さん!?」
そこに立っていたのは糸さんだった。
衣服の裾や袖はは水分を含んで重そうに濡れ、片腕に提げた大きな買い物籠も、中が心配になる位に濡れている。
「……どうしたんですか?」
予想しなかった来客にとまどいながら、ここに来た理由を推測する。
──もしかして雨宿り……?
「今晩は。すみませんが、雨宿りをさせていただいても宜しいでしょうか」
予想が当たって少し嬉しかった。
反面、家に入れるのを躊躇する。
「いいですよ。風邪ひいちゃうので、早く入ってください」
だけど、口から出た言葉は全く逆だった。
糸さんは、助かります、と短く言って、着物の袖を絞ってから入った。
「買い物に出掛けていたら急に降りだしてきまして、傘を持っていなかったもので……。恥ずかしいですね」
ここに来るまでのいきさつを説明しだした糸さんに、どうぞ、とタオルを数枚渡す。
「有り難う御座います」
濡れた髪を粗雑に拭く糸さんは、濡れるのを気にしてか、玄関から廊下に上がろうとしない。
「床が多少濡れても構わないので、どうぞ上がってください」
手で上がる様うながすと、首を横に振った。
「心配ありませんよ。……ほら見ていてください」
そう言うと、濡れている箇所をタオルで軽く拭き始めた。
すると不思議なことに、タオルをあてた部分からどんどん乾いていった。
衣服は元の杏色を取り戻し、三毛髪も毛の一本一本まで乾き、ふわふわとはねる。
乾いた髪や着物と引き替えに、渡したタオルは水分を吸って重くなっている。
その所業にぼくは目を見張った。
やっぱり、向こうの世界のヒトなんだ。
小さい頃からこう言う現象には親しかったから、判る。
「わあ……」
「面白いですか? あ、タオルありがとうございます」
雨で濡れた分だけの水分を吸ったのか、受け取ったタオルはずっしりと重くなっている。
そのまま洗濯籠に放り込んだ。
ふと見ると、ようやく玄関に上がった糸さんが、周囲をきょろきょろと見回している。
「停電……ですか? 随分お部屋が暗い様ですが」
「はい。ブレーカーが上がらないので、雷か何かだと思います」
「今はどうしているんですか?」
「カンテラで、なんとか明かりを確保してます」
カンテラを持ってくると、糸さんはそれを初めて見た様で、顔をぐっと近づけてしげしげと眺めていた。
まるでお店で代金を渡した時みたいに。
強くやわらかい光が、端正な顔を照らし出す。
決して見せない目を見たい。
そして顔を上げると、
「このカンテラ、少しだけ借していただけますか」
「いいですけど……何に使うんですか?」
「いえ。何こうして雨宿りをさせていただいている以上、何かお返ししなくては、と思ったのですよ。何かリクエストはありますか?」
いきなりそう言われても、簡単にパッと思いつかない。
何かして欲しいこと……。
「あ」
こぼすと、糸さんが首を傾げた。
「その……夕ごはんがまだなので、作って、欲しいです」
答えると、微笑んで快諾してくれた。
勝手から、生活的な音がする。
鍋で煮込み、ヘラでかき混ぜ、時折蓋を外して火加減を調節したり。
何を作っているのか、どうしても気になって勝手を覗くと、出来るまでのお楽しみです、と返されてしまう。
「卵とお豆腐しかなくて……」
机に今ある材料を並べる。
その横で、糸さんが整った形の
お米は今鍋で炊いているけど、少ない材料でどんなおかずができるのかな。
肩を並べて悩んでいるところに、再び玄関が叩かれた。
「今行きます!」
勝手に糸さんを残して、小走りで玄関に向かい、戸を開ける。
「や~参った。
そこには、大きな和傘を指した
……うちは雨宿りの呪いでもかかっているのかな。
傘を指していたのが幸いして、糸さん程には濡れていない。
鉄穴さんは傘をくるくる回して畳み、麻で編まれた鞄を無造作に置く。
声を聞いて、廊下の奥から糸さんが顔を覗かせた。
「
「お。そっちこそここで何してるのさ。小鳥遊くんに餌付け?」
「雨宿りですよ」
「へ~」
それだけ聞くと
その足取りは、室内が暗いにも関わらず真っ直ぐで、夜行性の動物みたいだった。
居間を通り掛かった所で不意に足を止め、鼻を鳴らす。
「糸、何か作ってる? 米の匂いがする」
「雨宿りのお礼に、今から晩御飯を作るのですが……何しろ材料が無いんですよ」
うう……。すいません。
「そこで
鉄穴さんは頬に手をあて、材料ねえ、と糸さん同様に小首を傾げた。
しばらく悩んだ後、あ、と声を上げて玄関に走り出した。
足音が遠ざかって、玄関の鞄をあさる音がし、また足音が近づく。
「あったあった。これはどうかな」
そう言って持ってきたモノは、小麦粉の袋だった。
「小麦粉じゃないですか」
糸さんが少し驚いた様に言って受けとる。
豆腐と卵、それに小麦粉で何が出来るんだろうか。
調理をするため、カンテラを糸さんに譲った。
居間で待機するぼくは、代わりに
居間と勝手は障子一枚で隔てられているだけなので、勝手からはじゅうじゅう焼く音と、香ばしい匂いが漂ってくる。
ガスが使えて良かったとつくづく思う。
向かい合った席には
何で鉄穴さんが居るかと言うと、何でも、食材を提供する代わりにご馳走してもらうのだそうだ。
それにしても、豆腐と卵と小麦粉で、フライパンを使う料理とは一体なんだろう。
お腹が空く。
さっきお米も炊けたし、出来上がるのがひたすら待ち遠しい。
ただお味噌汁も無いのが惜しい。
外の雨は少し止んできて、夕方より小降りになっている。
時刻は午後六時過ぎ。
そわそわしながら待っていると、
「お待たせしました」
お店の時と全く同じ様に、皿を両手に持った糸さんが居間に入ってきた。
待ち兼ねた夕ごはんが目の前に置かれる。
出来立てでほのかに湯気を立てるそれは──
「ハンバーグだ……」
久々に食べたいと思っていたから、すごく嬉しい。糸さんは察知能力でも持っているのか。
鉄穴さんは興奮して、即座に箸を取って食らいつきそうな勢いだ。
「どうぞ、召し上がれ」
糸さんの言葉で、ぼくと
焦げ目がついた楕円形の上に、刻んだ
それにケチャップをかけ、箸で割ると、中から
息を吹き掛け、少し冷ましてから口に運ぶと、熱々のチーズとお肉が口の中でとろけた。
紫蘇がさっぱりしていて、いくらでも食べられる。
ふと疑問に思った。
美味しい料理は嬉しいけど、お豆腐がどうやってハンバーグに化けたんだろう。
「あの……糸さん」
「? はい」
「材料って、お豆腐と卵、小麦粉ぐらいですよね」
「そうです。まあ、幾らか鉄穴さんの買い物から頂戴しましたけど」
それは恐らく、チーズや紫蘇の葉だろう。
「どうやったら、お豆腐がハンバーグに化けるんですか?」
どうしても気になって訊くと、簡単なことですよ、微笑む。
「豆腐と小麦粉を混ぜて焼くと、肉の様な食感になるんですよ。後は味付けでごまかせます」
そうなんですか……、と相づちを打ちながら、今度作って見ようと決意した。
一旦ご飯で口直しをして再びかぶりつくと、中のチーズが糸をひいた。
これがたまらなく美味しい。
鉄穴さんにご飯は無いけど、それでも幸せそうに食べている。
……これ、お店のメニューにしてくれないかなあ。
夜は
降り注いでいた雨は止み、雲間から星が覗いていた。
*
勝手では糸さんが皿を洗い、ぼくと
夕食後の皿洗いを申し出ても、雨宿りのお礼と言って譲らなかった。
申し訳なく思いつつも、甘えてしまう自分が情けなく思える。
雨が止んだ午後七時。
雨宿りする必要が無くなったから、きっと二人はすぐに帰ってしまうだろう。
今はそれだけが、少し
そこまで考えて、ふと気づいた。
やっぱりぼくはヒトが苦手で、その代わりに、ヒトではない者が近くに居る。
両親が生きていたら何て言うだろうか。
ちょうどその時、勝手から糸さんが戻ってきた。
「お勝手をお借りしてすみませんね。ところで雨も止んだ様なので、私はもう帰ろうと思います」
やっぱり。
もう少し居て欲しい。そんなの叶わないのは判ってる。
「あ……──」
見苦しい思いが出かけて、消える。
背中に伸ばした手が諦めて、うつ向く。
糸さんはぼくが引き留めた様に見えたらしく、苦笑して振り向いた。
「何でしたら、今日の料理をお店で食べられる様にしますよ。如何ですか?」
少しだけずれた言葉で笑顔になる。
「っ──本当にありがとうございます」
帰り際、霊園を出るまで糸さんと鉄穴さんを送っていった。
霊園の看板が見えた時、糸さんが急に何かを思い出して、立ち止まった。
「そうだ、これを忘れる所でした」
「何をですか?」
おもむろに懐を探り、その大きな手で取り出す。
「手を出して下さい」
素直に両手を差し出すと、ぼくより一まわり大きい掌が重なる。
「お守り……?」
手の中にあったそれは、お守りだった。
頭の奥で何かかが引っ掛かっている。
それが何か暗闇ではよく判らなくて、しばらく見つめていた。
「? ……あ!? ぼくのお守り……何で」
手渡されたそれは、どこかで落としたと思っていたお守りだった。
「店を掃除しているときに見つけたので、また逢った時にお返ししようと思っていたんです。忘れないで良かった」
「でも、どうしてぼくのお守りだって判ったんですか?」
「昨日あの席に座っていたのがあなただけだったんです。それにこれ、香袋ですよね」
お母さんに作ってもらった香袋。
それを今でも、お守りとして使っているだけ。
「自分ではあまり気づけないかもしれませんが、藤の匂いが微かにしているんですよ。それも決め手です」
自分では気づけないだけに恥ずかしくなる。
でもお守りが帰ってきて良かった。
先を歩いていた鉄穴さんが、手を振りながら呼んでいる。
糸さんは向こうを見て、それから、おやすみなさい、と頭を垂れた。
「おやすみなさい」
夜風が冷たく吹き、露草の
*
「こんにちは」
硝子戸を開くと、今日も同じ景色、匂い、そしてヒト達がそこに居る。
仄暗い店内、黒い頑丈そうな梁から吊るされた
「いらっしゃい」
くすんだ赤い布を巻いている、三毛色の髪をした店主は糸さん。
この人が作る料理は本当に美味しい。
一番端のカウンター席がぼくの定位置。だけど、今日も時間がないから料理を持ち帰るしかないのが残念。
時々隣の席で、
今日は昼食を食べに来ただけらしく、お膳には定食が並んでいる。それがむしろ珍しいから面白い人だと思う。
時間短縮のため、前もって折っておいた兎風船に空気を入れて、膨らませたら糸さんに手渡す。
「お持ち帰りで宜しいですか?」
「はい」
この流れが慣例になっているのに気づいて、寂しくなる。
「たあにふぁ、ゆっふり食へていけはら良いのにね」
そんなぼくの心を読んだ様に、鉄穴さんが口に食べ物を含んだままで言う。
「鉄穴さん汚いですよ」
「ふぁーい」
そこに糸さんがつっこんで、鉄穴さんはへにゃっと笑う。
いつの間にか、いつもの日常が知らなかったモノへと変わっている。
仕事をして、霊園とお墓をを守ることが世界の中心だった。
おいしいご飯が楽しみになって、外にぼくのことを知るヒトが居て。
心に余裕ができた気がする。
「どうぞ」
もう一つ折り紙が出来たところで、包まれた料理が目の前に置かれた。
「いつもありがとうございます」
それを受け取り、隙間から漏れてくる匂いを楽しむ。
今日はなんだろう。
最近、糸さんはお弁当を出すことを考えているらしい。ぼくみたいなお客さまに対応するため、と言っていた。
「
唐突に鉄穴さんが口を開いた。
「そうなんですか?」
言葉の意味が判らなくて、思わず間抜けな声を出してしまった。
「そうだよ。最初はさ、物凄くおどおどしてたのに、外套無しでもよくなったじゃん」
確かに初めてお店に来たときは、正直怖かった。今は
初対面の人はまだ怖いけど、それでも良い方だと思う。
ぼくは料理の包みを持って、今日も霊園を整える。
明日も、来週も、来月も、来年も、十年も、数十年後もこんな日常が続く様に祈った。
珍しく晴れた空で鯨が泳いでいる。
本日の料理
・五目オムライス
・大判焼き
・豆腐ハンバーグ
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