糸猫奇譚

あてらわさ

一譚 カフェ巡り野干

 私はカフェが好きだ。

 自分が狐で良かったと思う。だって、人間に化けてカフェ巡りができるもの。

 週に一回、必ず"カフェ巡礼"をするのがここ十数年の慣例になっている。

 どこに行くか、どのルートで廻るか、軍資金は幾らかかる、時間は、などと、想像するのがたまらなく楽しいのだ。


 それは少し遠くまで足をのばした日の帰り道だった。

 残暑が厳しくて、蝉がわんわと元気に鳴いている日だった様に覚えている。

 その日、私は石垣のカフェと巡り逢ったのだ。


「あっづ~~~~~~い」

 キャスケットを脱ぎ、大きな狐耳を外気に晒して、少しでも涼を、と思ったが、駄目だった。

 狐耳を堂々と晒しても良いのかって? 誰も見てないからいいんだもん。

「坂、キッツい……はあ」

 下り坂の向こうに、まだ入道雲が悠々と浮いて、石垣の隙間のど根性朝顔が、太陽に向かって咲いている。

 日は傾き始めた頃で、入道雲の横を鯨が泳いで行った。

 石垣が日陰をつくらないから、直射日光をまともに浴びている。

 薄富士のロングスカート、生地が薄いやつで本当に良かった。

 ただ、白いノースリーブは昨日買ったやつだから、汗染みが気になる。

 首から提げた、黒のポラロイド One Step 600カメラが重い。

 私は必ず行ったカフェを写真におさめる。今回も例によってカメラを持っていた。

 とにかく、どこかで休まないと死ぬ。

 そう確信したときだった。

「文鳥の鳴き声?」 

 不意に、どこからか鳥の声がした。私の耳は正確だから保障できる。

 これは外にいる感じじゃない。どこか屋内にいる。でなければくぐもっていない。

 つまり──

「……どこかに建物があるってことだ」

 なんでも良い。

 軒下で休ませてもらおう。ついでに水もあれば万々歳なのだけど。

 私は暑さを忘れて走り出した。

 流れる汗、結い紐がほどけた長い金髪、胸元で揺れるカメラ、サンダルの踵を鳴らした。

 傾斜が比較的緩くなった場所に、それはあった。

 いつもの帰り道に突如現れた細い路地。

 石垣の横を沿うように流れる水路があり、湿って黒くなっている。石と石の隙間に、暗緑色の苔が生え、薄紫のイワタバコの花と共存している。

 路地は行き止まりの所に、打ち捨てられた木製の電柱が突っ立っていた。

 あるかなきかの微風に揺れる、金属製の看板。

「“糸猫庵いとねこあん”?」

 石垣の反対側に、淡い色の青煉瓦と、一面硝子張りの壁。

 硝子の向こうに、文鳥の鳥籠が置かれた机があった。

「あなたが……」

 薄灰の文鳥は、飽きもせず元気に鳴き続けている。

 よく鳴けるな、と思いながら見ていると、

「お入りなさいな」

「しゃべった」

 別に、動物がしゃべること自体珍しくも無いんだけど。私、一応狐狸妖怪の類だから。

 それにしてもずいぶんと人語が流暢だ。

「いいの?」

「もちろんですとも。ほら、そこのメニュー板をご覧なさい」 

 促されて、入口のすぐ横に立ててあったメニュー板に目をやる。どれどれ。

『珈琲からお酒まで出します。お代は物々交換』

 酒って……。カフェじゃないのか? まあ酒は好きなんだけど。

 まあ良いか。

 私は、とにかく休憩したさに硝子戸を押した。内側に掛けられていた、『商い中』と書かれた小さい看板が揺れる。

「おう、涼しい」

 中に入ると、天井で扇風機が冷風を掻き回していた。

 日が差し込まない路地にあるからか、中は薄暗い。頑丈そうな黒い梁から吊られた、枇杷びわ色の丸提灯が、ぼうと照らしている。

 セピア色で統一された家具、抜け落ちそうな古い黒ずんだ床、白い壁紙、そして縦長の窓が等間隔に三つ。

 普通、石垣に窓が付いていないから窓は無い、と思い込むだろう。

 私からしたら特別なことではない。誰かが何らかの力で、外の映像を窓に投影しているのだろう。これなら石垣に窓が無くてもいい。

 昔、知人に似たような術を見せてもらったことがある。

 その知人は水族館とか言う、魚が一つの水槽に、いっしょくたになって入れられている場所を映した。

 席は、カウンター席と、四人掛けと二人掛けが一つずつ、それと一人席が二つ、どれも古ぼけている。

 籐椅子と、背の低い小机。カウンターは色褪せている。

 天井(といってもそれほど高くない)まで届く本棚には、それほど本がおさまっていない。

 カウンターの横に置かれた年代物の蓄音機が、小さくピアノ曲を流している。

 まるでむじなの穴蔵の様な店内だ。

 これは……撮るしかないでしょ。

 早速カメラのシャッターを切る。少し待つと、正方形に近く、厚みのある写真が現像される。

 撮れる枚数は少ないので、できるだけ節約しなければならないのが残念だ。

「いらっしゃい、今日は暑いですね」

 唐突に奥から涼しげな声が聞こえたと思うと、さっきまで誰もいなかったカウンターに、背の高い青年が寄りかかっていた。

 三毛猫色の少し長い髪は結んであって、奇妙な癖がついている。まるで猫耳だ。

 分厚くて幅の広い、濃い赤茶の布を巻いていて、目があるべき位置に大きな目の模様が、黄色い線で一つ描かれてある。

 杏色の着物と白いたすき、鈴のついた根付けとくすんだ濃紺の前掛け、薄茶のブーツ。

 肌の色は薄く、体が細い為に病人の様に見える。

「あ、写真撮っちゃ駄目でした?」

「いえいえ、幾らでも撮っていただいて構いませんよ」

 とは言うものの、あと一枚しか撮れないのだ。

 諦めてカウンター席に向かうと、青年も黙ってカウンターに向かう。

 着物の隙間から、三毛猫の尾がゆらゆらしているのが覗いていた。

 私が座ると、青年と対面する形になる。

「マスター、何か冷たい奴」

「お代は物々交換です。それ相応のモノを先にもらうことになりますが……」

 の世界では、お金ではなく物々交換が主流だ。

 価値はそれぞれだから、相手が気に入りそうなものと交換する。

 外の看板は、ヒトが迷い混んだ時の為に置いてあるのだろう。

 鞄のなかを探り、手に触れた物を一つ、適当に取り出した。

「写真ですか」

 さっき店に入った時撮った写真だ。綺麗に撮れたし、これで何が出るか楽しみだ。

「良いのですか? さっき嬉しそうに撮っていましたが」

「あ~良いよ良いよ、また撮るからさ。幾らでも撮って良いんでしょ?」

 そう言うと青年は微笑んで、少しお待ち下さい、と背を向けた。

 待っている間読む本も無いので、適当に店主と話をした。

「マスター」

「どうしました?」

「マスターの名前、何て言うの?」

「糸、と申します。それだけです」

「私は鉄穴かんな。耳と尾を持つ者同士、よろしくね」

「ご贔屓に……」

「あ、もしかして店名の由来って名前から?」

「そうですね」

 思いの外、寡黙な奴だと思った。

 他者に話し掛けられて初めて、反応を返す柄なのだろう。

 暫くすると、目の前に木製の盆が置かれた。

「檸檬炭酸と、です」

 シベリア。また随分と懐かしいもんを……。

「昭和に食べたきりだよ、シベリアなんて」

 シベリアとは、羊羮をカステラで挟んだお菓子だ。一時期──大阪万博までほぼ毎日食べていた。

 私の両親は、戦時中、人間も食べ物に困って山の物を食べる様になり、ヒトも山に生きる妖怪──私は野干だが──も食べるのに苦労したと聞かされた。

 そんな経験があってか、戦後に生まれた私に同じ思いはさせまいと、出来る限り食べ物を調達してきてくれた。

 その時良くおやつに食べたのが、シベリアである。

 檸檬色の真四角なコースターに載ったグラスは、泡の弾ける透明な炭酸水と氷で満たされていて、輪切りの檸檬が浮かんでいる。

 良く冷えた檸檬炭酸を、回想と共に一気に喉の奥に流し込む。強い炭酸が喉を刺した。

「っあああああーーー!! マスター糸! おかわり!」

 空になったグラスを掲げて追加注文すると、マスターは苦笑してグラスを受け取った。

「糸で良いですよ。ああ、おかわりは一度までならおまけしますよ」

「え、いいの? やっふううう!」

 無駄に興奮している私を見て、素直ですね、とでも言いたげに二杯目の檸檬炭酸をコースターに置いた。

 今度はちびちび味わいながらいただくのだ。

 シベリアを食べてみると、昔食べたのとそっくりだった。しかも冷たい。

 昔はよく、遊んで帰ってきた日に冷蔵庫で冷えたシベリアが待っていたものだ。

 口の中が乾いた所で、檸檬炭酸を少し流し入れる。檸檬の輪切りによって酸っぱさが増していた。

「ああ、言い忘れていました。そのコースターはお持ち帰りください。……また来るときに必要になりますから」

 

 皿が空になって、日が更に傾いたけど外はまだ暑そうだ。

 もう少し長居しよう。

「糸~冷酒ある?」

「ありますよ。お代はいただきますが」

 何があったかな……。

「お」

 私は鞄の底に転がっていたそれを糸の手に握らせた。

「これは……」

 それを見た糸は、驚いた顔(布で顔は見えないが)をして凝視した。

「あれ? それってまずいモノだった?」

 私が渡したのは、へきべにの、鞠の様な模様のビー玉だった。

 糸は、まるで鑑定人の如く灯りに透かし、見定めている様だった。

「いえ、最高のモノですよこれは。冷酒、でしたね?」

「え?ああ、うん」

「お待ち下さい」

 そして糸は、そそくさと奥の方にいってしまった。

 もしかして糸は、ビー玉が好きなのだろうか。

 あのビー玉、六年前に駄菓子屋の前で転がってた、もとはかなり汚かったやつだ。

 こんなことを逐一覚えている私も私だけど、何故これが鞄に入っていたのか謎だ。

「お待たせしました、大吟醸と、カンパチの刺身です」

 私の大好物じゃないか最高。てかそれよりも、

「どっから出した、そんな高級魚!」

「朝買って来ました」

「まじか」

「港の方に知り合いがいまして、その人から安く譲ってもらいました」

 私は山と人里の方に友人や知り合いが多い。その代わり海の方は皆無なのだ。

 だから海の方に知己が居るのは羨ましい。

 ……だって、海の幸とか分けてもらえそうじゃん?

 糸が酒を注ぐのを横目に見ながら、刺身を口に運んだ。あえて醤油も山葵わさびもつけない。私は素材そのものの味が好きだ。

「……どうですか?」

 機嫌を伺う様に糸が訊ねる。

 私は即答した。

「旨いっす」

 それを聞いた糸は、唯一隠れていない口を綻ばせて、

「それはよかったです」

 と、さも嬉しそうだった。

 ……ちょっと可愛いかも。

 二切れ目の刺身を噛み締める様に味わって、冷酒を一息に飲み干す。

「さっきのビー玉でさ、どれくらいお代わりできる?」

 そう訊くと、糸は形の整った顎に手をやって、考える様な仕草を見せた。癖なのだろう。

「一升瓶二本分ですかねえ」

 あのビー玉、取っておけば良かったかも。

 そう思っても、今になって後悔するのもおかしい。なら、その一升瓶二本分で何が出来るか考えるのが一番良い。

 思考を巡らせ、最大限有効活用する方法を見出だす。

「酒は呑める?」

 少し挑発的に言って、右手でお猪口を傾けるふりをして見せると、糸は意図を探る様に小首を傾げる。

「一応呑めますが……」

 よし。

「なら、呑み比べ、しようじゃないか」

 私が好きなモノは、刺身やカフェだけでは無い。

 一番好きなのは呑み比べそれ自体だ。

 酒豪と自負できる。

 私の友人達も大半が酒豪だ。そんな奴等と付き合っていれば、一度酒が入ったら無性に呑み比べがしたくなって来るのだ。

 さあ、糸はどうする。

「酒は久しいですねえ」

 そう言うと鮮やかな色の舌を出し、舌なめずりする。

 かかった!

「よおし」

 私は余裕と言った風に足を組み、カウンターに頬杖をついて、糸と距離を詰める。

「じゃあもう一本持ってきな。あるから言ったんだろう?」

 糸は笑って頷くと、また奥に行った。

 数分で一升瓶を抱えて戻ってきた糸を、隣の席を手で叩いて、椅子に座る様促す。

 呑み比べは肩を並べてやるもんだ。少なくとも私はそう思っている。

「まず一杯飲みなよ。こっちのは一杯分減ってるんだから」

「そうですね」

 短く答えると、栓を開け、そして何か思い立った様にカウンターに戻った。

「提案なんですが、これでやるのはどうです?」

 そう掲げて見せたのは、1合枡だった。

「良いねえ」

 私も舌なめずりして見せる。

 糸が席に戻ると、今度は私が酒を注いでやる。

 糸は暫く酒杯を眺めていたと思うと、一気に傾け、一息に飲み干した。

 これで条件は同じだ。

「始めよう」


 二人同時に二合飲み干した時、糸が不意にぽつりぽつりと語り始めた。

「私はもともと、実体の無い影でした」

 酔いが回ってきたのだろうか、いきなりそんな話を聞くのも慣れていたが、私としては少し以外だった。

 窓に外の映像を投影できるなら、それなりに力があるものと思い込んでいた。

 私は相槌をうち、糸は溢すように続ける。

「ほんの子供の頃に死んでしまいまして、それから、私の影が私の死体を喰らいました」

 結構面白いぞ、この話。

「それで?」

 私は興味本意で続きをねだった。

「その影は人形ひとがたを得て今の私に成りますが、もともと目が両方とも欠損していたので……」

 あ。

 もしかして、糸がビー玉を好きなのって──

「糸がビー玉を好きなのは、眼に成るから、でしょ?」

 硝子玉は、景色を映す。

 だから、術を使える者に頼むか自分でやれば、それが“眼に成る”。

 恐らく、糸はその事を知っていて、或は術か、それを使える者も知っている。

 だからあのビー玉を、高級魚と大吟醸二本と交換出来たんだ。

 本当に価値はそれぞれだ。

 その仮説を述べると、糸は、ええ、ええ、と強く頷いた。

「それで集めているのですが、矢張やはり、欲しいものはいつも後少しで手に届かない。……それに手が届いても、それはいつも合いません。綺麗すぎて、私の眼には入らないのですよ」

 妖怪達の間で、硝子や鏡は競争率が高い物の一つだ。

 その中でもビー玉は、競争率が低い方と言える。

 私が持っていたビー玉も、その競争率を判っていて保存していたモノだ。

 まあ、大吟醸と刺身は良い取引だった。

「私を面白半分で世話をしてくれた猫又も、集めてくれていたのです、が──」

 最後まで言い終わらない内に、突然糸の体がかしいだ。

 突然のことで、私は驚いて声も出なかった。

 しかし、カウンターの板に倒れてきしんだ音で、はっと我に返った。

「え、いやっ、ちょっ、大丈夫!?」

 思わず甲高い声をあげて、大半が分厚い布で隠れた顔を覗き込むと、

 当の本人はグースカ寝ている。

「……弱っ」

 先に潰れたのだ。

 よって勝負は私の勝利でおさめたことになるが、まだまだ飲み足りない。

 私のと合わせると、酒はまだ十六合弱残っている。

 私は無言で酒を枡一杯に注ぎ、一気にあおった。

 そしてまた注ぎ、十五分で四合飲んだ。

 六合目をちびちび味わっているとき、ふと思い立って、糸の顔を覆っている布をめくった。

 確かに、そこには有るべきモノが無かった。

 私は静かに布を戻し、残っていた刺身を口に運んだ。

 それから再び酒を飲んだ。

 窓に目をやると、月明かりが射し込んでいた。

 柱時計で時間を確認しようとしたが、提灯の薄灯りでは難しかった。私が狐でなければ、の話だが。

 今、九時四十五分。

 残った酒は二合。

 私は残りを全て飲み干し、席を立った。

 いきなり立ち上がると足下が覚束おぼつかなくなる。でも私はこの程よい疲労感が好きだ。

 檸檬色のコースターとカメラを鞄に入れて、硝子戸を押す。

 『商い中』の看板をひっくり返して、『準備中』に切り替えた。

 ほとんど二升分の酒が入った今の私に出来た、精一杯の気遣いだった。

 今は電気が通っていない木製の電柱の、天辺に取り付けられた赤いランプが細い路地を照らしている。

 どこまでも続く夜のしじま。

 上弦の月を、弧を描くように鯨が泳いでいた。


「……写真撮るの忘れた」


           *


 唐突だが、私の夢は写真家として食べていくことだ。

 憧れた当初は、写真を撮るだけで仕事になり、お金も貰えるものと思っていた。

 それも子供の頃の話で、あの頃は必死にシャッターを切っていた記憶がある。

 ポラロイドカメラのフィルムの量も考えず、フィルムが切れる度に催促しては、恩師に頭を叩かれていた。

 あとで知ったことだが、恩師は私のフィルムを買う為に生活費を削っていたらしい。

 私がそのことに関して謝ろうとするといつも、孝行など二十年早い、と切られてしまう。

 ただ、写真家になると言う夢を後押ししてくれるのも、昔から変わらないのである。

 そんな私は今日もシャッターを切り続けて、仕事をする。

 仮にも妖怪である私が、ヒトの側に働き生きる

ことを許してくれた師匠には、本当に感謝しかない。

 仕事の時は一眼レフで撮影するが、私は旧式のポラロイドカメラで撮影した写真が好きで、撮影に撮影を重ねる内、まるで旧式のポラロイドその物の雰囲気を持った写真を撮れる様になった。

 今私は、レトロ調の写真を得意とする、風景・動物メラマンとして売れている。

 今日は撮影した写真を、勤め先の出版社に納品した帰りだった。

 時間内に全て撮影出来たは良いものの、遠回しに写真の出来が悪いと言われ、拗ねていた。

 ──人の世は兎に角住みづらい。

 師匠の言葉を言い訳にして、二段坂を下って行った。

 残暑が幾分か和らいで来た夕方、まだ高い日が辺り一帯を黄金こがねに染めている。

 私は条件反射でシャッターを切った。

 写真を確認すると、建物の影と黄金色の光が作り出したはっきりとした陰影が、わびしい道に印刷された絵。それが、四角な画面の中に収まっていた。

 それで満足すると、再び歩を進めて目的地を目指した。

 兎に角早く家に帰りたい。

 帰ってやることは沢山ある。何より休みたい。手紙も書かなければならない。

 逃場を求める様に彷徨歩さまよいあるいて、辿り着いたのは、自宅ではなく糸猫庵だった。

 ほとんど意識しないままに、ふらふらとした足取りで店内に入る。

 自宅と同じ方向にあるこの店を通るだけなら判るけど、何故引き寄せられたのだろう。

 一刻も早く自宅に帰りたい筈なのに、私の足が言うことを聞かずに進んでいる。そんな感覚だった。

 黄金色の光が細長い窓から射し込んで、床に線を引き、空気中の埃を幻想的に浮き立たせていた。

 私はまた、飽きもせずシャッターを切る。

 ここの写真を撮っている内に、洒落た店を紹介する雑誌の写真を引き受けようかと、真剣に考えてしまう時がある。

 ただ、私は出来るだけ好きな写真を撮っていたい。そんな我が儘を言って、自分の生活を追い込み勝ちにしている。

 一通り撮影が終わって顔を上げると、カウンターに糸の姿が見えて少しだけ安心した。

 昨日と同じ席に腰を下ろし、何も言わず一葉の現像した写真を手渡した。

 糸も黙って受け取ってくれると、背を向けて調理を始める。

 今は無言の優しさが嬉しかった。

 相手の心情を察する。こんなの日本文化くらいじゃないだろうか。

 カウンターに突っ伏して料理が来るのを待っていると、意識しないままに言葉が零れた。

「あのさ」

「愚痴ですか?」

「そうだけど」

 糸はため息を吐き、

「手短にお願いしますね」と手を動かしながら答える。

「いや特にこれって言うことはないんだけどさ、ちょっと自信喪失しかけてた所にトドメ刺された感じになってんの。今」

 愚痴には答えず、黙々と手を動かしている。

「技術を否定されるのはすごい精神的にくるし、その人に悪気が無いにしてもさ、言われた側が“そう”受け取ったら、そこから関係がきしむじゃん」

「面倒ですね」

「そう、そうなんだよ。だからさ、遠回しな表現を読み取れるのって便利だけど裏で泣いたりしてるんだよ。だからいっそ本音の付き合いで良いだろって思うじゃん。でも直球よりオブラートでぐるっぐるに包んだ言葉が、関係は潤滑になるし」

 ふう、と糸が息を吐いて、すぐ近くに皿が置かれる音が聞こえる。

 続いて右隣の席が軋む音がして、気配で糸が座ったのだと判った。

 ゆっくりと体を起こすと、すぐ鼻先をかすめる匂いがあった。

 顔を上げると、目の前に大きめの茶碗にマグロの茶漬けがある。

「今日はこれだけですが」

 糸はそう言って私に茶漬けをすすめ、あとは黙って麦茶を飲んでいた。

 私は頷いてさじを手に取り、漬けマグロをお茶に沈めてから口に運ぶ。

 赤茶色の身が白く変わり、塩気が緑茶で中和され程好くなっている。

 まだお茶を吸っていない細長のぶぶあられが、サクサクしていて、柔らかい米との食感が楽しい。

 何故か涙が溢れた。

 疲弊した体に染み渡って、疲れが霧散していく。

 感情を隠し人間じみた交流を重ねる内、私は私を封じていたのかもしれない。

 ふやけた刻み海苔が、残ったお茶に泳いでいた。


 それから私は長い話をした。愚痴でしかなかったが、それでも糸は黙って耳を傾けてくれていた。

 面倒くさい人間じみた感情が溢れ、それが言葉となって口からこぼれ続ける。

 私はヒトに成り済まして初めて社会に出た時、醜い人間と言うものを何人も見てきた。

 責任を押し付ける者、根拠の無い者、己が正しいと言う者、否定する者、利己的過ぎる者、横暴な者。

 皆違って皆恐ろしかった。

 ヒトの側で自らを偽って暮らす、そこで初めて仲間に止められる意味を識る。

 私には一緒にヒトの世に出た友人がいる。その友人も、社会に出たあとで同じことを言っていた。

 同じ目線や思想を共有出来る人物が居て、本当に良かったと思う。

 でも以前この事を話したら、人間くさい、と言われてお互いに笑いあった。


「ありがとね。愚痴に付き合ってくれて」

 気づけば夜八時を回っていた。

 水を一杯、一息に飲み干してから席を立つ。

 名残惜しい気もしたが、残念ながら明日も仕事がある。夜十時には眠らなければならない。

 糸は皿を洗いつつ愚痴を零した。

「閉店ギリギリまで粘るのは今後やめて欲しいですね」

 水の音に紛れて尾が振れる音が僅かに聞こえる。確かに機嫌が悪そうだ。

 私は次来る時も料理が美味しい様に、さっさと店を出る。

 夜の空気は澄みきり、浮かぶ満月は道を白く照らしていた。私は息をする様にカメラのシャッターを切る。

 雑多な都会では遮蔽物や建物が多く、こうも綺麗に月明かりが照らさないと言う。

 ヒトが多ければ灯りが集まり、月など必要無くなるのだろうか。

 一葉の写真を撮って帰宅する最中、恩師の言葉を思い出した。

 ──人の世は兎に角住みづらい。だが人に流され、時に抗い、流され遠くへと至りなさい。

 私はまだ真意が解らないままでいる。そのままで歳をとっていき、いつか戻れなくなるだろう。

 いつの日か、私が真にいきたいと願う世界に繋がる道を見つけるまで、人に流されて見ようと思うのだ。

 ヒトは嫌いだ。

 そんな私が、ヒトの側で生きてみようと志した切っ掛けを、思い出せる気がした。

 人に流されている内に明日は来る。流され、流されて、旅の終着に流れつくまで。

 明日は良いことがありそうだ。

 これもまた人間くさい。だが、流される分には悪くない。


           *


 本日の料理

 ・シベリア

 ・三ツ矢サイダー檸檬

 ・カンパチの刺身

 ・大吟醸

 ・漬けマグロの茶漬け

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