第16話 女どもは苦しからず。急ぎ罷り出でよ

 信長が奥にいる家臣に目配せをした。すぐに数人の家臣によって、若い女性がセイの元へ連れてこられた。なにがなにやらわからないまま、衆目に晒されることになって、彼女の顔は蒼ざめていた。なによりも今にも喰らいつきそうな信長の目に見据えられて、人生で一番の恐怖のどん底を味わっているに違いなかった。

「おい、女、こいつに怯えなくてもいいぞ……」

 マリアは若い女性にそう言ったかと思うと、瞬時にして背中から大剣を引き抜いた。周りの者が気づいた時には、マリアは信長の首筋に大剣の刃を押し当てていた。

「おまえの答え次第では、この信長の首はこの場に転がる。おまえに手出しする暇もなくな」

 マリアは気を使ったつもりらしかったが、かえって彼女の恐怖を煽ってしまっている。真っ青になった彼女は、からだの震えがとまらず、その場にへたり込んでしまった。

 セイは彼女の近くまで歩み寄ると、頭上に手をかざした。


「かがり!。でてきて」

 すっと頭の上に、かがりの顔が浮かび上がった。かがりは目を閉じて、眠っているようにみえた。その輪郭はうすく透き通っていて、ややおぼつかなく感じられる。

「セイさん、これ、ちょっとまずいんじゃありません?」 

 かがりの姿をみて、脇からエヴァが心配そうに言った。

「あぁ。かなり精神への浸潤がすすんでる。急がないと、この人の『未練』の気持ちと同化して、完全に飲み込まれる」

 セイはかがりの頭の近くに手のひらを近づけると、かがりがふっと目を開いた。

「セイ……、ちゃん?」

「かがり、引き揚げにきた」

「引き揚げ?。どういうこと……?」

 セイはふーっと嘆息すると、かがりの顔に自分の顔を近づけて言った。

「かがり、きみは今『昏睡病』にかかってここにいる。この若い女性の『未練』を晴らさないときみは元の世界にもどれないんだ」

「この人の『未練』はなんだ?。かがり、教えてくれ」

 かがりは一瞬なにか考え事をしているような顔つきになったが、すぐに若い女性のからだのなかにひっこんだ。

 とたんに、若い女がふいに目頭を抑えて泣き始めた。口元を震えさせながらじつに悔しそうな表情でことばを漏らした。


「わたしは、信長様の天下を見てみたかった」



「ちっ!。この男を救えってか」

 マリア・トラップは唾棄するように言い捨てると、信長の首筋にあてがっていた大剣の刃をひいた。そのとたん信長がどすんと尻餅をつく。さすがの信長も生きた気がしなかったのだろう。あわてて蘭丸たちがうしろから支える。

 セイはからだを震わせる女性の肩に、やさしく手をおいてから信長に言った。

「信長さん。今からこの寺を明智光秀軍を取り囲みます。信長さんは逃げてください…;」

 ぼくらが、あなたを助けます」

「助けるぅだとぉ!。笑止。おぬしら子供数人でなにができる」

 蘭丸に支えられながら、よろよろと起ちあがった信長が声を張った。

「わしは馬でここから逃げる。弥助、馬を曳けぃ!」

「はっ」

 うしろに控えていた大きな黒人が、ぬっと前にからだを踏み出した。弥助は、その背丈の高さもさることながら、お世辞にも似合っているとは言い難い武士の出で立ちのせいもあって、なにやら本当の異世界から来た人物のようにみえる。

「信長さん、逃げられないと思うよ」

「セイ殿、わしの早駆けの腕前を知らぬから……」

「光秀軍は一万三千の兵で、この寺を取り囲んでいます」

 信長がことばを飲み込んだ。うまやに向かおうとしていた弥助の動きがとまった。その数字を耳にした者たちは、だれもがそこに立ちすくんだ。

「一万三千……だとぉ」

 マリアが腹を抱えるようなしぐさをして、信長に言った。

「うはは。しんがりのほうは、ここでおまえが討たれてることすら知らないだろうな」

 だが、信長はそんな態度を歯牙にもかけなかった。すこし考え込むような顔をすると、すっかり明けた空をみあげながら言った。

「まぁ、しかたがあるまい。人生五十年……、これも天命……」

 まわりを護衛していたお付きの者たちも、信長の覚悟のことばに身をただしてかしこまった。森蘭丸が無念そうにぎゅっと目を閉じながら呟いた。

「御屋形様……」

 信長はくっと顔をあげると、家臣を見渡して言った。


「女どもは苦しからず。急ぎまかり出でよ(苦しゅうない、おんなたちは逃げよ)」

 女衆たちがあわただしく、奥の方へ向かい始める。

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