《蒼月1000PV記念!》はじめてのおつかい(後編)
壁の向こうで、足音が遠ざかっていく。それを聞きながら、クリフは不安で胸が一杯になった。
――エルナータがクリフをここから出してやる。
あれは、どういう意味だったのだろうか。自分が必ず大人を呼んでくるという意味か、それとも――。
そこまで考えて、クリフは身震いした。自分より少し上くらいにしか聞こえなかった声の持ち主が無謀にも誘拐犯に挑み、そして返り討ちにされる姿を想像し、恐ろしくなった。
クリフはこのフェンデルでも有数の、大商会の家の子だ。父はやり手であったがその分敵も多く、命を狙われた事もクリフが知っているだけでも何度かある。
そんな父の血を引いたクリフもまた幼くして聡明であり、父の跡を継ぐ者として周囲に期待を寄せられていた。だから自分の置かれたこの状況も、しっかりと理解し分析も出来ていた。
クリフは今日、十日に一度行われるアンジェラ教の礼拝に参加してきたところだった。大地母神アンジェラを崇拝するアンジェラ教はレムリアの国教であり、クリフの両親もクリフ自身もアンジェラ教の信者であった。
この後商談があるという両親と別れ、クリフは一人迎えの馬車に乗った。ところが馬車は家とは違う方向へと向かい出し――辿り着いたのがこの家だった。
家から出てきた連中にクリフは即座に縛り上げられ、奥のこの部屋に転がされた。漆喰が剥き出しになった部屋には出入口は一つしかなく、窓も届かない高さにある上鉄格子が備え付けられていた。
御者は父の商売敵の内通者だったのだろう、とクリフは考える。もしかしたら、御者以外にも内通者が存在するかもしれない。
自分は恐らく、父にとって不利な条件を飲ませる為の餌にされる。幸いにして息子可愛さに即その要求を飲むような父ではなかったが、それでもクリフは不安だった。
もしも自分が、大好きな家族の足を引っ張ってしまったら。そう考えただけで、胸が押し潰されそうだった。
だから壁の向こうから知らない子供の声が聞こえてきた時、クリフはこれが最初で最後のチャンスだと思った。自分の居場所を助けになりそうな大人の元に知らせるには、今しかないと。
今のクリフには、祈る事しか出来ない。どうか彼女が、無謀な真似をしませんようにと。
――アンジェラ様、どうかお姉ちゃんをお守り下さい。
瞳を閉じ、クリフはただそれだけを祈った。
壁づたいに暫く走っていると、広めの路地を表として建物の入口が見つかった。いつの間についてきたのか、足元にはあの黒猫も一緒である。
「待ってろよ、クリフ。エルナータがすぐ助けてやるからな!」
「にゃあ」
エルナータの声に応えるように、黒猫が鳴く。それは自分も手を貸すと言わんばかりであった。
エルナータに、作戦などなかった。エルナータの頭にあったのは、困っている人を救いたい、ただそれだけだった。
普通なら、無謀極まりない行為だろう。年端もいかない少女がただ一人、悪漢達のアジトに飛び込もうなど。
しかしエルナータと、そして囚われのクリフにとって幸運な事に――逆に言えば悪漢達には不幸な事に、彼女は、
「たのもー! たのもー!」
ドンドンと、エルナータが入口の戸を叩く。最初は反応がなかったが、何度も繰り返すとやがて内側から戸が大きく開け放たれた。
「うるっせえなガキ! 遊ぶなら余所で遊びやがれ!」
出てきたのはボサボサ頭に無精髭の、人相の悪い男だった。男が堅気の者でない事は、その風貌と腰に下げた長剣からすぐに見て取れる。
「やい、お前! クリフをここから出せ!」
威圧する視線を送る男に怯まず、エルナータは指を男に突き付けた。クリフの名前を聞いた男の顔が、ニヤリと昏く歪む。
「何だあ? 嬢ちゃんあの坊っちゃまの知り合いかよ。そりゃあ運がなかったな。ここを知られたからには、例えガキでも消えて貰うしか……」
「たあっ!」
しかし、男が最後まで言い終わる前に、エルナータの髪が
「グペッ!?」
「おい、どうした!?」
男の悲鳴に、男の仲間達が次々と入口に集まってくる。エルナータは目の前の男を髪で壁に弾き飛ばすと、一同をキッと睨み付けた。
「何だ、このガキは!?」
「お前達、全員悪い奴だな! エルナータがやっつけてやる!」
そう叫び、エルナータは悪漢達へ向けて突撃する。まるで生き物のようにうねる髪は、襲い来る悪漢へと向かって次々と伸び、その体を打ち据えていく。
これがエルナータの秘密。己の髪を自由自在に操り、さらに鋼のように硬化させる事が出来る力。
エルナータがこの力を知ったのは、彼女を引き取った少年冒険者達がポロリと漏らしたからだった。しかし何故エルナータにその力があるかは、彼らも知らない事のようであった。
それからエルナータは、暇さえあれば力を試していた。但し人前では力を使わないよう固く言われていたので、周囲の目を盗みながらではあったが。
そしていつかこの力で、困っている人々を助けるのだと心に決めていた。エルナータにとって今が、まさに力を使うべき時なのだ。
「チイッ、この化け物が!」
順調に悪漢達を床へと転がしていたエルナータだったが、打ち倒した一人の悪漢の陰から別の悪漢が現れ、斧を横凪ぎに振るおうとする。しかしその時、エルナータの頭を踏み台にして黒猫が悪漢の顔に飛びかかった。
「わっ、何だこの猫は!」
「助かったぞ、お前!」
悪漢の注意が黒猫に逸れたほんの一瞬、その一瞬さえあればエルナータには十分だった。エルナータは大きく飛び上がると、髪の塊を思い切り脳天に振り下ろした。
「たああああっ!!」
「ぐほっ!!」
髪の塊がぶつかる寸前に空中に逃れた黒猫の見下ろす中、悪漢は高速で顔面を床に叩き付けられ、そのまま動かなくなったのだった。
水を打ったように静まり返った扉の向こう側の様子を、クリフは戸惑うように窺っていた。うるさいくらいの自分の動悸だけが、クリフの耳に木霊する。
さっきまで聞こえていた幾つもの怒鳴り声、そして悲鳴。自分を捕らえていた者達に、何かあったのは明白だった。
助けが来たのだろうか? いや、それにしては早すぎる。
もしや、もっとタチの悪いならず者でも現れたのだろうか。だとしたら、自分は――。
クリフがそう思考を巡らせていると、タタタ、という軽快な足音が聞こえてきた。それはまるで子供が立てるような足音で、この場においては違和感しかない。
足音はクリフのいる部屋へと近付いていき、扉の前で止まる。息を飲むクリフの前で扉の鍵が外れる音がし、ゆっくりと扉が開いていった。
「いた! お前がクリフか?」
そう言って扉の向こうから顔を出したのは、長い銀髪に眠たげな銀色の半目の少女だった。自分の予想と全く違う人物が出てきて面食らうクリフだったが、その声にどうにも聞き覚えがある気がして恐る恐る問い掛けてみる。
「あの……もしかして、エルナータお姉ちゃん?」
「そうだ! 助けに来たぞ、クリフ!」
腰に手を当て胸を張る少女――エルナータを、クリフはついマジマジと見てしまう。まさか本当に来るなんて。いや、なら誘拐犯達はどうなったのだろう。
「あ、あの、外の人達は……」
「ん? エルナータが全部やっつけたぞ!」
あっけらかんと放たれたその言葉に、今度こそクリフは絶句した。自分より少し上にしか見えないこの少女が、誘拐犯達を全員倒しただなんて。
「にゃあ」
その時エルナータの足元をすり抜けて入ってきた猫の姿に、クリフは顔を綻ばせる。その猫を、クリフはよく知っていた。
「ペー! お前も来てくれたの!?」
「ん? この猫知り合いか?」
「うん、うちで飼ってる猫なんだ。とってもお利口なんだよ」
ペーと呼ばれた猫はクリフに一目散に駆け寄り、体によじ登ってクリフの顔を舐め始めた。その様子を見ていたエルナータが、不意にポツリと呟く。
「……そうか。お前、クリフを助けたかったんだな」
「え? お姉ちゃん、何か言った?」
エルナータの声がよく聞き取れなかったのか、クリフがそう問い返す。しかしエルナータは小さく首を横に振り、クリフとペーへと近付いた。
「何でもない! さあ、クリフ、家に帰ろう!」
「……うん!」
クリフの縄をほどきながら明るく言うエルナータに、クリフもまた大きく頷き返した。
無事帰ってきたクリフの姿を見て、両親はとても喜んだ。クリフを誘拐犯に引き渡した御者は既に逃亡しており、後で冒険者ギルドに依頼しその行方を追うという事で話が纏まった。
クリフを連れてきた礼として両親はエルナータに謝礼金を渡そうとしたが、エルナータはそれを断った。お金の為にやった事ではなかったし、そもそもエルナータはお金自体にそれほど興味がなかった。
ならば代わりにと沢山の食料品を持たされ、エルナータはクリフの家を後にする事になった。クリフの両親が用意してくれた馬車に乗り込み、マッサーの宿に向けて出発したその時――エルナータは重大な事を思い出した。
「……あっ! おつかい忘れてた!」
こうしてエルナータの初めてのお使いは、失敗に終わったのだった。
fin
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