魔法の小屋

 織江の気配を小屋の中からうかがっていた佑人は、やっと一人になれた、と窓際のベンチに腰を下ろした。

 昔ここには小規模ながらみかん畑があり、この四畳半程度の小屋はみかん選別・貯留用に使われていた。いわゆるみかん小屋だ。

 テイカカズラに覆われた朽ちかけの板壁と、海水で固めた三和土たたきの床。

 ぼろぼろにもろくなったプラスチックの選果用コンテナが隅に五つほど積み上げられている。

 壁にぽっかり開いた四角い穴は、だいぶ前に窓枠ごと外れた窓の跡だった。

 最近まで、そこには直径15センチほどの灌木かんぼくが数本立ちふさがり眺めをさえぎっていた。


――これ切って、あと周りをちょっと刈り込んだら、港が見えるな……


 佑人はなたとのこぎりを持参し、体力を振り絞って何日かかけて切り倒した。

 今は、窓から見える部分はぽっかりと空き、蒼穹そうきゅうと水平線、緑の樹冠じゅかん、そしてちまちまと人が生活している家々や港が見下ろせる。

 アウトドア用の軽いベンチ、小さな収納ボックスの中に納まったLEDランタンやクッション、そして数冊の本も佑人が持ち込んだものだ。ムカデや蛇などに効くという忌避剤きひざいいたが、ノネズミやヤモリたちが時々やってくる。佑人はそんな小動物たちに知己のように声をかけ、個体の判別もつかないくせに勝手に名前を付けた。

 小さな子どもが大人には秘密で「基地」と称するガラクタを寄せ集めた場所を作るように、彼はその小屋を大切に思い、自分で自分の居心地をよくすることを楽しんでいた。


 一方で、祖父母の家はあまり居心地がいいとは言えなかった。離婚して戻ってきた叔母とその子供たちもいて、かわるがわる干渉してくる。自分を預かってくれているのだからむげにもできず、敬意を払いながら距離を置こうとしても、彼らはデリカシーなくパーソナルスペースにずかずかと入り込んでくる。そのうち心を開くだろう、と思っているのだろうが、ホームドラマと現実は違うのだ。

 そんなある日、少し体を動かしてみてはどうか、と祖父母に散歩に誘われた。少しなら、と祖父母孝行のつもりでつきあったのだが、山道を歩いてこの小屋を見せられ、風雨に腐った木の扉の隙間から中を覗いたとき、佑人は自分でも不思議なほどわくわくした。幽霊が出そうなこのぼろ小屋が、自分のために誂えられた魔法の場所であるかのように思えた。

 ここを使わせてもらえないか、と祖父に頼むと、最初は断られた。ここで倒れられたら、佑人を運び下ろして病院へ運ぶのは大変だ。そもそも、倒れたことすら気付かずに手遅れになったらどうするつもりだ、と言われた。

 しかし、何にも興味を示さず虚ろな目をしていた孫が、何かに心を動かしたということが嬉しかったらしく、祖父がこの小屋の鍵をくれた。本当に体調がよいときだけ、スマートフォンを携帯してこまめに連絡をし、必ず家のものに行き先を告げていくことが条件だ。


 この二、三日は特に、祭りに行くよう強く勧められ、あの家には居づらかった。今日は花火大会に行くふりをして、佑人はここへやってきた。小屋に行っていることは叔母にメールで書き送ったのでいいだろう。


 佑人はランタンの灯りの中、収納ボックスから使いかけの蚊取り線香を取り出して火を点けて線香皿にのせ、少し離れた床へ置いた。

 わんわんとうるさかった蚊の羽音が消えていく。

 そして、ウエストバッグから小さな水筒と薬の入った紙袋を取り出した。

 ざらざらと幾種ものカプセルや錠剤をピルケースの角から口へ入れ、水で胃へ流し込む。味気ないが、これが佑人の本日の夕食だった。もともと食べることに執着がなく、祖父母たちにあれ食えこれ食えとすすめられるのは苦痛だったので、これはこれでいい。

 水筒と薬袋を片付け佑人が顔をあげると、外が一段と暗く見えた。つい先ほどまで出ていた月が隠れている。雲の中、月の輪郭が一瞬だけ見えたが、雲は厚みを増し完全に空は夜の暗さになった。


――ああ、予報では雲が出るって言ってたな……


 そのとき、小屋の歪んだ扉が地を擦りながら開く音がした。

 明るい光がさっと壁を撫でるように照らし、彼の影を大きく映し出した。

 佑人は立ち上がり、振り向いた。

 まともにライトの光を喰らい、顔をしかめる。


「こっちに向けんな」


 扉を開けた少女は静かに、先ほど佑人からもらったライトを足元に向けた。


「……村井?」


「うん」


「まだなんか用? 会場に行くんじゃなかったの」


 目の奥にライトの残像をちかちかさせながら、佑人は訊ねた。


「行こうと思った」


「じゃあ何でここに」


「あのさ、前学校ですごく具合悪そうだったでしょ……ちょっと思い出しちゃって、本当に大丈夫かなって」


 そう言って、床からの反射光におとがいを照らされながら織江は黙った。


「大丈夫だよ」


 佑人は素っ気なく言った。

 佑人は夜目にも白く浮き出る姿で、織江は闇に溶けそうな黒い甚平姿で、お互い不満そうに見つめ合った。

 佑人はしばらく口を尖らせ何か言おうとしていたが、溜め息をつくと、切れ長の目を細め苦笑した。


「まあいいや……ありがとう」


 沈黙が破られた。


「佑人はここに何か用があって来たの?」


「ああ、ここで花火を見ようと思って」


「会場で見ないの」


「人ごみが嫌いなんだ」


「都会の花火大会より絶対すっかすかなのに」


 言いながら、織江は小屋をぐるりと見回した。


「……ここからの眺めって、そんなにいいの?」


 佑人はつと窓に寄り、織江を手招いた。


「見てみる?」


 織江は用心しいしい、壁に穿たれた窓に近づく。

 佑人はランタンを消した。

 織江は外を眺めた。


――あ……


 墨のように黒い梢に縁どられ、ぽっかりと切り取られた視界。

 暗い林を見下ろし、遠く眼下の海ぎわにに、オレンジ色に輝く帯がある。

 それは祭りの屋台が並ぶ通りで、その通りから少し入った路地にも点々と灯が光る。

 広場には祭りの櫓が組まれ、鄙びた音楽がここまで聞こえてくる。マイクで囃す声も賑々しい。

 その向こうの海岸が花火会場だ。

 ここからは、それは一纏まりの遠い遠い世界のように見えた。

 美しかったが、何となく寂しい眺めだった。


「きれいだね」


「だろ?」


 自分がよいと認めたものが他人に認められるとやはり嬉しいのか、佑人の声が少しだけ弾んだ。


「一人で見たかったの?」


「うん。一人でいると気が楽なんだ」


 素直な回答だった。

 織江はこの島も、島の人々も、そして学校での暮らしも愛している。だから、この気難しくて扱いづらいクラスメイトが、生まれ育ったこの島の環境には安らぎを見いだせず、こんな打ち捨てられたみかん小屋に寛ぎの場を作っていることに、織江は複雑な気分を抱いた。


「あーあ、この場所も結局、村井に見つかってしまったな」


 そう言いながら佑人はランタンをまた点け、パイプのベンチを織江に勧めた。


「いいの? 一人が好きなんでしょ」


「よくなきゃ勧めない」


 織江が端の方に腰かけると軽量ベンチはがたんと揺らいだ。

 心臓が跳ね上がるほど驚いてそのまま悲鳴を上げかけた織江の左の座面を、慌てる様子もなく佑人は押さえた。


「この椅子はすぐガタつくんだ。僕も何度もひっくり返った」


「どんくさ」


「うん、僕もそう思う」


 腰を下ろすと、佑人は骨ばった手を軽く握って膝の上に置き、織江に向き直った。


「この間は、親切にしてもらったのに、いろいろ余裕がなくて、ムカつく態度とってごめん」


「ああ、そんなのいいって」


「……あの、頼みがあってさ」


「何?」


「ここのことは皆には内緒にしてくれないかな」


「……ほんとにここが好きなんだね」


「うん。ここは秘密基地っていうか、魔法の場所なんだよ」


 そう言ったあと、佑人は自分の台詞に照れて、ちょっと鼻の辺りをちょいちょいと掻いた。


「ファンタジーなこと言うね」


「いいじゃないか。とにかく、他のやつに見に来られたくないんだ。だからここのことは黙っててよ」


「いいよ。そのかわり、村井って呼ぶのやめてよ」


「何で? 村井は村井だろ?」


「あのねえ、佑人は覚えてないだろうけど、うちのクラスに村井は三人いるの。海田も三人。だからみんな下の名前で呼び合ってんの」


「ああ、それで、僕も佑人って呼ばれてるんだ。初対面かられ馴れしいなって思ってたよ」


「馴れ馴れしいとかじゃないんだって。苗字で呼んだり呼ばれたりって調子狂うよ」


「ふーん。で、村井の下の名前ってなんだっけ?」


「さっきも言ったでしょ。織江。布を織るっていう字に、江戸の江」


「おりえ、か。いい名前だね」


そのとき、妙なくぐもった音が鳴った。


「?」


 いぶかっている様子の佑人に、織江は気まずい思いをしながら、足元のあずま袋を拾い、膝の上にのせた。


「……私、夜ご飯まだなんだ」


「ああ、お腹が鳴った音か」


佑人にはデリカシーの欠片もなかった。祖父母譲りなのかもしれない。


「佑人は?」


「僕は食べたよ」


「ここで?」


「うん」


「一人で?」


「うん」


「何か買ってきたの?」


「ううん。サプリメントと薬」


「そんなんじゃお腹が落ち着かなくない?」


 織江は、あずま袋からラップに包んだ小ぶりな握り飯を取り出しながら言い、そのあとで、織江は自分が母とそっくりそのままの台詞を言っていることに気づいた。

 縁日の屋台でみんなと焼きそばやフレンチドッグを食べるからいらないというのに、母が「あんなのじゃお腹が落ち着かないでしょ」と毎年強引に持たせる。作ってくれたものをむげにもできず、会場に着く前にこっそり食べてしまってから、織江は友人たちと会うのがお決まりだった。

 しかし、ここは祭りの会場ではない。

 見栄を張りたい相手もいない。

 佑人はいるが、クラスの女子たちと一緒にいるより気取らずにいられる気がする。

 それでも相手の前で一人で食べる気まずさから、織江はラップの包みを一つ、佑人に差し出した。


「よかったらどうぞ」


 佑人は一瞬ためらった。

 彼は他人、かつ素人しろうと得体えたいのしれない手作り品に対してはぞっとしないタイプだった。口にするなどもってのほかで、祖母や叔母の料理でさえ、慣れるまで箸をつけるのが苦痛だった。

 ましてや、握り飯。人が手で握ったものだ。さらに今は真夏。正直、気味が悪い。

 しかし、織江をこの小屋の客として礼儀正しく扱おう、と佑人は考え、声に躊躇ちゅうちょにじませながら受け取った。


「ありがとう」


 そこで鈍い音がもう一度鳴り、織江は思わず腹に手を当てた。

 気付かないふりをしながらラップをくつろげ、佑人は海苔に包まれた握り飯に鼻を寄せて用心深く匂いを嗅ぎ、小さくかじってみた。

 何か、酸味と塩気が利いた、赤いものが入っている。プラムのようで種はなく、もっと爽やかな果物の香りがした。


「今年漬かったばっかりなんだよ、それ」


 しげしげと眺めている佑人に、織江は声をかけた。


「漬かったって?」


「うちの梅干し」


「梅干し?! 梅干しってこんな匂いじゃないだろ?」


「新しいのはこんな匂いがするの! いい匂いでしょ」


「うん。全然違う。びっくりした」


「おいしい?」


「おいしい」


 佑人はちょっとした感激を味わっていた。見たこともない他人の握ったおにぎりを、今自分が食べている。

 心底うまいと思っている。

 それはあり得ないことで、佑人にとっては魔法のようだ。

 たぶん、この小屋の魔法だ。

 やはりここは不思議な場所なのだ。


「喜んでくれて、よかった」


 織江も安堵したように、一つ、ラップを剥がして食べ始めた。

 佑人は、小柄で癖っ毛をもっさりさせた織江が握り飯を食べているのを見ているうち、面白い気分になっていった。

 給食の時机で食べるのとは全然違う。

 遠足気分と言うのが一番近いのだろうが、身体の弱い佑人は遠足に行って友人たちと弁当を食べたことなどない。

 織江は袋からごそごそとまた何か取出し水音を微かに立てた。そして、佑人にアウトドア用のコップを手渡した。


「お茶。どうぞ」


「ああ、ありがとう」


 水筒なら持って来ていたが、佑人は大人しく受け取った。


「会場でお茶買うと髙いし、混んでるから」


 言い訳がましくそう言うと、佑人の使ったコップに茶を汲み、織江も飲んだ。

 佑人は慌てた声を上げた。


「それ、僕が使ったコップだよ?」


「うん、知ってるけど」


「大丈夫?」


「何が?」


 織江は不思議そうに聞き返した。


「いや……うん、何でもない」


「変なやつ」


 佑人一人でおろおろしていた。

 織江の方はといえば、自分の家から持ってきたものを二人きりで食べて、ほんの少しこの気難しいクラスメイトとの間の空気が和らいだような気がして、もう一つ握り飯を佑人に勧め、自分もまた一つ開けた。

 食べ終わってラップを丸め、織江が仕舞い込んだそのとき、花火大会の開始を告げる雷火らいが暗い空に散り、爆音を島中に響かせた。


「あ、始まる!」


 織江が明るい声を上げた。

 その言葉通り、十秒ほどの間ののち、色とりどりの枝垂れ花火が花束のように連なって打ち上げられ始める。


 それからは、穏やかな時間だった。

 夜空に咲き誇る火細工の花。

 消えていく一つ一つの花びら。

 遅れて届く轟音。

 織江は、夜空に輝く大輪の花々を眺め、時々そっと佑人を盗み見ていた。

 そして佑人も、居心地悪そうだった織江が少しずつ夜空に開く花々を眺めているその横顔を時折覗った。

 二人とも妙な気分だった。自分のいる場所が揺らぐような、奇妙な感覚だった。でも、決して悪い心地ではない。


 花火大会が終盤に近付くと、地を震わせて豪奢ごうしゃな三尺玉がひっきりなしに打ち上げられる。最後には四尺玉が数発、尾を引く光のドームとなって会場一帯の海と空を覆った。


「きれいだね」


「うん」


 織江は食い入るように花火を眺めている。

 その横で、佑人は寂しい気持ちになってうなだれていた。


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