祭りの夜の魔法

江山菰

祭りの夜

 のどかな島は、夏祭りの書き入れ時を迎えていた。

 港に停まった漁船の腹を波が叩くたぷたぷという音が響き、蝉時雨せみしぐれかまびすしく降ってくる。

海岸線に山が迫っている小さな島の漁村は、いつもなら閑散としているのだが、今日はいつもと様子が違う。夏祭りに合わせて帰郷した者や観光客が浮かれ歩いている。彼らにとっては島の豊かな自然と暮らしの不便さはレジャーの一環なのだ。

 今夜は祭りの三日目、最終日。

 これからフィナーレとして海岸で花火大会が開かれる。そんなに豪勢なものではないが、芋の子を洗うような都会での花火大会と違いのんびりと楽しめる。


 織江おりえは、朝洗濯して乾いた地味な黒い甚平を着けた。

 この祭りの三日間、織江はこれを身に着けている。花火大会にもこれを着ていく、と織江が言うと、自分が若いときに来ていた蛍柄の浴衣を今夜こそ着せたがっていた母はとても残念そうだった。しかし織江はあまり可愛らしいものが好きではなく、服も持ち物もスポーティで地味なものばかりだ。だからこれでいい。


 夏の夜七時はまだ明るい。

 織江は虫よけのスプレーを手足に振りかけた後、母が余り布で縫ってくれたあずま袋を手に外へ出た。

 玄関先まで見送りに出てきた母の手にはご飯粒がついている。さっきまで、織江も一緒に縁日で働く父や叔父たちへの差し入れの握り飯を重箱に慌ただしく詰めていた。


「行ってきます」


「気を付けてね」


 一日目、二日目とも友達と縁日をぶらぶらしていたが、特段約束して待ち合わせていたわけでもない。

 今日も、誰とも約束はしていない。

 本当は、今日はあまり人と会いたくない。


 昨晩、縁日からの帰り道のことだ。

 クラスで一番仲のいい美奈と歩いていると、いきなり彼女が織江を物陰に引っ張り込んだ。


「どうかした?」


「しっ!! ほら、あれ見て! 貴志たかしじゃない?」


「あ、ほんとだ」


 貴志はクラスのムードメイカーで、嫌みのないおどけた性格だった。生徒だけでなく教師まで、彼のおふざけには笑ってしまう。織江は、彼の明るさを好ましく思っていた。

 しかし、彼の隣には華やかな牡丹の浴衣を着た娘がいる。


「誰、あの子」


「わかんない」


 二人はだんだん近づいてくる。物陰から覗きながら、美奈は早口で囁いた。


「あれ、早智さちだ! 眼鏡取ったらすごい美人じゃん」


「え? 早智? うそ、めちゃくちゃ可愛い」


 学校では眼鏡をかけ大人しい早智が、今日は眼鏡を外し、頬を上気させている。動くたびに、十五夜を明日に控えた小望月こもちづきの下、簪のガラスの飾りがきらきらして見えた。

 美奈は目敏くあることに気づいた。


「ほら見て、手繋いでる!」


「え……」


 観察しているクラスメイト達に気づかず、彼らは掬った金魚のビニール袋を手に楽しそうに通り過ぎて行った。

 美奈が興奮して道々ずっとしゃべり続ける横で、織江はずっと生返事で、目も耳も霧の中のような感覚だった。。

 それからずっと気分が沈んでいる。

 単に好感を抱いていた程度のクラスの男子が、同じくクラスメイトの女子と手をつないでいるのを見たからといって、どうして今日はこんなに食欲がなくなるのか、TVを見たり本を読んだりする気になれないのか。

 自覚したときにはもう終わっていた淡い初恋。

 これは織江の人生で、初めての経験だった。


 しかし、どんなに出かける気になれなくても、狭い島で幼いころから一緒に育ってきた仲間たちのことだ。花火大会では、会場へ行けば誰もが浴衣や甚平、流行りのTシャツやサマードレスでキメてきて、一緒にりんご飴やかき氷を回し食べしてはしゃぐのが毎年の恒例で、出欠でも取っているように、顔を見せないと悪気のない勘繰かんぐりが始まる。

 どこの家の親もそういう土壌どじょうで育ってきているので、病気や怪我でもしていない限り、祭りに行けとせっつくものだ。


――そろそろ出なきゃ……暗くなる前に。


 家から会場までは、少し距離がある。海岸線から森の沿道へ入り、向こうの海岸へ出なければならない。

 祭りの二日かけてやっと足に馴染んできた草履と、反比例する重い気持ち。

 薄明るい空に、円く満ちた月が潤むように光っていた。


 森を囲む沿道に街灯がぽつぽつと点りだす。

 ふと織江は前方に人影を見つけた。

 白いTシャツとだぶついた短いカーゴパンツ、ウエストバッグをつけた人影は、薄明かりに浮き上がって見えた。


――佑人ゆうと


 それは中学校に一か月前に転校してきた少年で、親が海外出張に行っている間、祖父母の家に預けられているという話だった。

 彼、椎名佑人しいなゆうとはあまり体が丈夫でないらしく、よく学校を休んでいた。この島へ来たのも、静養を兼ねているとのうわさだ。短期の在学ということで、以前通っていた中学のしゃれた制服を着ていて、それだけで反感を買いがちだというのに、学校へ来てもなまちろい顔でぼーっとして、口を開けばけだるげで都会の話ばかり。当然、同級生たちから好かれてはいない。

 夏休みに入ってしばらく、姿を見かけていなかったが、どこへ行くのだろう。

 佑人はやぶの中の林道へ入り、木々の生命力に満ちた匂いの中、ゆっくりと傾斜を登っていく。

 小さな里山ではあるが、足場が悪いところもある。スズメバチやマムシもいる。不慣れな者が夕暮れに一人で、というのは向う見ずにもほどがある。山菜採りで山に入るのは慣れていた織江自身でさえ、夜の林に一人で入ったことはない。


――暗くなるのに何やってんのかな……


 織江は月明かりの下、その後を追った。


 十五分ほど歩いたころだろうか。

 織江は古い小屋の前で立ちすくんでいた。


――こんなところまで入りこんじゃった……


 巧みに木々に隠され、つるに覆われたこの小屋は不気味な静けさをたたえていた。小屋の前には杭が打たれ、びた鎖が張られて立ち入り禁止の手書き看板が吊り下げられている。小屋の扉には南京錠が見えた。

 織江は思わず、こずえの切れ目から月を見た。

 まだ残照も明るい。

 だが墨を流したような群雲むらくもが薄く濃くかかり始めている。


「何してるの?」


 背後から声が降った。

 宵の鈍い青に染まり始めた中で、声は不機嫌そうだった。

 織江がびくりと振り向くと、いつの間にか、錆びた鎖を挟んで小屋を背後にした少年が立っている。夜目にも青白い顔を織江は上目遣いに見上げた。


「えっと、同じクラスの……村井、だったっけ」


「……うん。村井織江。まだ覚えてないの?」


「必要じゃないことは覚えない」


 あっさりと佑人は答えた。

 遠からず転校することが決まっていて、その上あまり学校に来ない彼には、クラスメートの顔と名前などどうでもいいのだろう。

 彼はまたたずねた。


「で、何でここにいるの?」


 織江は困惑した。山道へ入りこむ佑人を見かけて尾けてきた、などとはやはり言いにくい。


「……ちょっと散歩してただけだよ」


 我ながら嘘っぽくて、織江は自分の機転の利かなさにうんざりした。

 織江を見ている佑人の瞳が、真っ黒く見える。

 おそらく、この答えに何らの真実味も見出さなかったのだろう。


「ここに『立ち入り禁止』の看板があるんだけど?」


「あ……暗かったから……今気付いた」


「ふーん」


「じゃあ、あんたは何なの? あんただって勝手に入ってるじゃない」


「僕は大丈夫」


「え」


「ここ、祖父の小屋なんだ。鍵だって持ってる」


 鎖をまたいだのか、カーゴパンツのふくらはぎのあたりには赤錆がうっすらと付着している。佑人は腰につけていたウエストバッグから鍵を取り出し、ついているキーホルダーを指に引っ掛けてくるくる回して見せた。


「で、何か用?」



「……不用心でしょ? 夜、一人で山になんてさ」


「ご心配ありがとう」


 佑人はちょっと高飛車で相手をムッとさせるような調子で礼を言った。


「僕は大丈夫だよ。それより自分の心配をしたほうがいい。暗くなると足元が悪くなるし」


「それはあなただって同じでしょ」


「僕はここに何度も来て慣れてる。よそ者だからって、上から目線はやめてくれ」


「上から目線ってあんたのことじゃない! 心配してあげたのに」


心配して、と言われて佑人はちくりと一瞬眉を顰めた。


 あれは、教室でぼんやりしていた時のことだ。

 他の生徒たちは着替えを済ませてグラウンドに出ている。体育教師が来るまでのひととき、何ごとか笑いあいながらトラックにハードルを並べている。

 その日の体育の授業も、佑人は見学予定だった。


――そろそろ行かなきゃ


 グラウンドへ向かおうとして立ち上がると、ふと胸郭の中に何かが染みこんできたような強烈な不快感を感じた。

 特に珍しい感覚というわけでもない。よくあることだった。

 いつも通りやり過ごそうとしたが、その日に限ってめまいがひどく、震える手で取り出した薬のカプセルは指をすり抜けて床へ落ちた。身体が重くなり、つい机の上に伏せてしまう。


「……大丈夫?」


 顔をあげると、織江が自分を見下ろしているのに気付いた。その指にはついさっき落としたカプセルが摘まみあげられ、差し出されている。

 ガラス越しに光がまともに佑人の顔に当り、目元がびくびくと痙攣した。


「……ちょっとめまいがしただけだよ」


 佑人は不快な咳混じりに嘘をついた。


「これ、飲むんでしょ」


「……」


「落としたものも、5秒以内だったら、大丈夫だよ」


 じわっと視界が暗くなる。佑人は思わず目を険しくした。織江がその表情にたじろぐ。彼は差し出されたカプセルを受け取ると口に含み、机のフックに吊るしていた水筒の湯冷ましでぐっと飲み込んだ。


「保健室行く? 先生呼ぼうか?」


「いや、大丈夫」


 そう言いながら、ジャケットのポケットから校則で口内持ち込みが禁止されているはずのスマートフォンを取り出し、織江から顔を背けた。力のこもらぬ声でぽつりぽつりと通話し、祖父に迎えに来てくれるよう頼んでいる。

 通話が終わると、佑人は少し気まずそうに黙った後、織江の方を向いてぼそっと言った。


「ありがとう。授業に行かないと遅れるよ」


「うん……」


「先生に、椎名は帰ったって言っといて」


 そうして、準備運動を済ませて整列したクラスメイトたちの注視を浴びながら、グラウンドの端にある校門まで迎えに来た祖父の軽トラックに乗り込み、彼は帰っていった。


 このことがあったから、佑人は織江の顔をぎりぎり覚えていた。


「村井、花火見に行くんじゃなかったの?」


「ああ、うん、そうだけど」


「誰か待たせているんだろ? 早く行ったら?」


「待たせてるってわけじゃないけど」


 何時に、どこで、という約束はしていない。

 毎年恒例のこと、自然発生的に全員集合しているだけだ。


 どぎまぎしている織江に、佑人は舌打ちしたい気分になった。

 彼女に対してではなく、人とうまく接することができない自分に対して、だ。

 他人といると、自分の心に小さなひっかき傷が増える。

 もともと佑人は神経が細く、何でもくよくよと思い悩む性質だった。この島への転校に際しても、本当はクラスメイトたちと明るく馬鹿話をし、人好きのするよう振舞おうと思っていた。しかし、島で生まれ育った子たちの話題についていくために彼らの会話にじっと耳を澄ませていても、自分との接点の無さに気づかされるだけで、どっと疲れてしまう。話そうとしても、我ながら気障きざな都会の自慢話になってしまう。

 そうして夜一人で寝床にいると、ちょっとした日常のあれやこれやが、芋づる式にずるずると思いだされて「自分はダメなやつ」とささやいてくる。


 佑人は軽く溜め息をつくとウエストバッグのポケットをごそごそと探った。


「ちょっと手を出して」


不審げに手を出した織江に、彼は口紅ほどの大きさのスティックを渡してきた。


「百均のLEDライト。小さいけど結構明るいから使って」


「え?」


「安物だから返さなくていい。友達が会場にいるんだろ? 早く行くといいよ」


 佑人は顔と名前を覚えた初めてのクラスメートに背を向けた。


「これ、私に渡しちゃったら佑人はどうやって帰るの?」


「中にランタン置いてるからそれ使う」


 入り口に掛かっていた南京錠をカチンと外すと、勝手を知った体で佑人は真っ暗な小屋へと入っていった。

 痩せた佑人が不気味な洞穴に呑み込まれるように見えた。

 佑人が姿を消すと、今まで全く気にならなかった虫の音が、一斉に聞こえ始める。


――佑人、あんまり大丈夫な気はしないんだけどな


 そう思いながら、かち、と音を立てて織江はLEDライトを点けてみた。


――あ、すごい


 安物だと言われながらもそれはかなり明るい。織江は感心してしまった。しゃれて品揃しなぞろえのよい百円均一の店など、この島にはない。

 織江は自分が辿たどってきた木々に覆われた小道をライトで照らしてみた。

 来るときにもわかっていたことだが、道は心配したほど悪くはない。

 織江は光の届かない木々の奥へ目を遣り、梢の切れ目に覗く月を確かめるように眺め、歩き出した。


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