トラオム
祐生
トラオム
深紅が目に染みていたい。わたし、初めて色に目をやられるってことがわかった。床一面に広がる赤い色は、わたしの目を刺激する。目と一緒に、脳も。
そうだ。記憶の中の祖母も言っていた。
「いいわねぇ、緑色が目に染みるわ」
こういう緑が日本から減ってしまったのは悲しいことね。そうなんとも言えない表情で祖母はつづけた。
少し足を延ばして新幹線に乗った旅行の時だった。わたしは祖母の言葉の意味がわからず、緑を確かめようと窓の向こうを見つめていた。緑、緑緑緑。たくさんの木々が密集すると、緑だとしか形容できなくなるとそこで学んだ。
「すごいいっぱいみどり!」
そうね、と祖母は冷凍ミカンを剥いてわたしに食べさせてくれた。冷凍ミカンの冷たく甘い味と、視界いっぱいのみどり。幼いころの記憶っていうものは厄介で、唐突に浮かび上がってはわたしを懐かしがらせる。
一昨日、祖母の一周忌だった。真っ黒の服を鎧のように身にまとって、田舎の家に戻った。田舎は雪が積もっていて、踏みしめるたび、雪の感覚がした。
もう家を出て何年も経つから、雪というだけで郷愁に駆られてしまう。都会はみんな他人事で、わたしのことなんて誰も意識していないのだ。田舎にいたときは、みんな意識しすぎなんじゃない? というほど、近所の人のことを隅から隅まで知っていた。娯楽がないと『噂』というものが酷く、魅力的な輝きをもって人を惹きつけるのだ。踏みしめた雪に、真赤な花びらが舞っていた。
薄暗い和室に、障子からもれる光が、仏壇に差し込む。お線香をあげにきたのはわたしが最後で、和室にはわたしと、仏壇だけだった。どこか暗い室内だったが、雪に反射したのかしろくやわらかい光りが障子ごしに侵入してきている。
手を合わせ、目をつむると、線香の香りが鼻を刺激する。線香の香りが、わたしの奥深くに眠っていたものを引き釣りだしてしまう。うすらぼんやりした記憶がだんだん明瞭になって、祖母の話していたことが蘇った。
祖母は噂がきらいな人だった。「噂話をする人は、人間性がひねくれている」とは祖母の言葉で、ことごとく噂というものを毛嫌いしていたのである。
それでも、一つだけ噂とは言えないものかもしれないが、不思議な話をしてくれたことがあったのだ。祖母はおよそ非科学的なことも噂だと呼んでいたから、これも噂に入るのだろうか。
「死んだ人には口がない、というでしょう? でも、口はないけどね、現世と交信する手段はあるのよ」
その日は、祖父が亡くなった日だった。わたしがまだ、3つ4つあたりのころだったから、ものすごく早くに祖母は伴侶を喪ったことになる。
いつも良いことがあったあとみたいに微笑む祖母の顔が暗くて、その暗い顔色ばかり気にしていたことを覚えている。祖父は元気な人で、声が大きかった。
祖父の笑い声は、縁側でひなたぼっこをしたまま眠りに落ちたわたしを容易く目覚めさせる。エネルギーの塊のような人が亡くなってしまったことが、まだ世の中の理がわからなかったわたしには理解できなかった。
ただ、あの笑い声をもう聞くことはできない、それだけ。世界から祖父が消えてしまった。誰かが隠してしまった。そう、思っていた。だから、祖母の死んだ人、という言葉にもうまく頷けなかった。
「それはね、夢の中へお邪魔することなの」
ひみつよ、という風ににんまり笑う祖母に、首をかしげた。
「夢の中に、お邪魔するの?」
「そうよ。口はないけれど、夢の中には入ることが出来るの。だから、夢の中では会えるのよ」
硬く握りしめられた祖母の両手が、ふるふる震えていた。
「じゃあ、おじいちゃんはおばあちゃんに会いに来るのかな」
「そうね、あの人は寂しがりやだから……」
その後の記憶はない。おおかた、母がわたしを呼びに来たのだろう。
神経質な性格をそのまま映し出したように、きっちりと細く整えられた眉をひそめる姿が思い浮かぶ。この日も、母に「遅いわ」とひとこと、苦言を呈された。
久しぶりの実家は居心地が悪く、一晩泊ってからすぐにあとにした。
帰り際に、母から持たされた牡丹を携えてわたしは帰った。新幹線で少し視線があるな、と思ったけれど、手元の牡丹をみれば当然かと気にしないことにした。膝に置いていたせいで、香りが少し、きつい。
祖母が手塩にかけて育てていた冬牡丹は、あまり咲いているところを見受けられなかった。「咲かないというところが、いじらしくて可愛いじゃない」と言っていたが、それは強がりだろう。
牡丹が咲いているところがみたいなら春牡丹とかにすればいいのに、祖母は執拗に冬という季節にこだわっていた。一度、気になって調べたことがあったが冬牡丹は難しく咲かないことが多いのだそう。それでも、祖母は冬に固執していたのだ。
それが、どうだろう。この冬、祖母のいなくなった冬には牡丹は満開だったのだ。それを「気味が悪い」と称した母は、あふれるようにこぼれるように咲き誇る牡丹を少し残して、ほとんど切り落としてわたしへ押し付けた。
持ち帰りきれなかった分が今日、宅配便で届いた。段ボールを開けた瞬間、むせかえるような牡丹の匂いが部屋中に充満した。
1LDKのわたしの部屋は、たちまち牡丹の支配下だ。血のように真赤な牡丹に、母が気味が悪いといったのもわかるな、と思う。もともと白だった花が血を吸って赤くなったように赤い。
ぽつんぽつんと牡丹の茎と花を切り離すと、首が落ちるようにぼとりと花が床に転がっていく。牡丹に鋏をいれていって、気づいたら床いっぱいに牡丹が落ちていた。
首が落ちるさまを連想させるから、牡丹は武士に嫌われたのだ。わたしは武士でもなんでもないから落ちてもなお美しい牡丹は素直に好きだ。
敷き詰められるように落ちた牡丹をみて、なぜか祖母の声を聞いた気がした。
「そんなふうに床を飾るために、咲かせたんじゃないよ」
しわがれて、でも、やさしい記憶のままの声。人の記憶からまっさきに消えるのは声だ。
そう、ずっと祖母のことを振り返っていたけれど、その声はぼんやりしていた。しっかり芯があって、すこし低いあたたかい声。わたしを諫めるようなそれはつづく。
「なんだいもう、敦美さんったら気味が悪いだなんて失礼するわ」
怒ったような声に、出かけていた涙が笑いにせき止められる。
「おばあちゃん、死んだら夢に出るんじゃなかったの」
まさか牡丹になるなんて。
視界に飛び込んできたのは、真暗な部屋。
スマホを探そうとする手にやわらかい感触がして、牡丹を床に散らかしたことを思い出す。体の節々が痛くて、眠っていたことに気づかされた。
暗闇になれてきた目は、わたしが牡丹に囲まれて眠っていたことを教えてくれる。そう、わたし眠っていたのか。
そして祖母はわたしの夢へ「お邪魔」したのだろう。
馬鹿なことをしている孫だと笑って。薄れていく夢の記憶に、悲しさを感じるが、それがいいのだろう。死人には口はない。
部屋にはたくさんの牡丹と、そのなかでひときわ大きな涙にぬれたかたまり、わたし、が残されるだけ。
トラオム 祐生 @yusei619
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