5 一歩
レオザルト殿下立ち去ってもルルリアナは動くことができなかった。
ミナが気遣いルルリアナに声を掛けたが、ルルリアナは震える声で「少し一人にしてください」と侍女たちを下がらせたのだった。
ルルリアナはこの後どうすればいいかわからなかった。
胸に広がるこの感情をどう扱えばいいかわからなかった。
感情を見せるのは良くないことだと厳しく躾られてきたからだ。
ルルリアナが小さいころはそれこそ寂しくて何度も泣いたことがあった。
無表情の神官、厳しい家庭教師、自分を見張っている侍女たち、怖い顔を浮かべている護衛たちの中で、ルルリアナはいつも一人だった。
どうして物語のように、私を愛してくれる家族がいないのだろう。
抱きしめてくれる母親に、頬に優しくキスをする父親、邪険に扱いながらも一緒に遊んでくれる兄たち、おしゃれを教えてくれる姉、喧嘩ばかりする年の近い妹に年の離れた可愛い我儘な弟。
私には誰一人いないのだ。私を慰め甘えさせてくれる人は誰もいない。
時にはルルリアナを可愛がってくれる人はいるにはいたが、その者たちはたった3か月には去っていくのだ。
懐いても捨てられるという経験を繰り返してきたルルリアナは、いつの頃か殻に閉じこもり自分を守るようになっていた。傷つかないように、愛情を求める気持ちを押しつぶして…。
でも、時々自分でもわからなくなるが泣きたくて仕方ない時があった。いけないと思ってもルルリアナの目からは大粒の涙がポロポロとこぼれ落ちていくのだ。止めることのできない涙はルルリアナの心が空っぽになるまで流れるのだ。
そんなルルリアナを侍女は困ったように眺め、神官は神に祈りを捧げなさいと何時間も冷たい石の上に座らせ、家庭教師は甘えるなと叱り、護衛は持ち場を離れずルルリアナがそこに存在しないかのように表情を変えず目を合わせないのだ。
自分が泣くと周囲を困らせるだけだと、ルルリアナは泣くのを堪えるようになり、成長したルルリアナは泣き方も忘れてしまった。
それなのに、レオザルト殿下を失望させてしまったルルリアナは泣きたくて仕方なかった。
泣いてしまえばいいのかもしれないが、ルルリアナの乾いた目からは涙がこぼれることはなかった。
再び窓を叩く音が聞こえ、ルルリアナは振り返る。
するとリースがひょっこりと顔を出す。
リースの陽気な表情にルルリアナはなぜかほっとしてしまう。まるで太陽みたいと、ルルリアナは思う。
ルルリアナが窓を開けると、1mくらい距離があるというのにリースは器用に部屋へと飛び移る。
「大丈夫?ルルリアナ様?怒られちゃった?逃げちゃってごめんね…。僕がいると面倒なことになると思って」
本当にごめんね?と尋ねるリースにルルリアナは悲しく微笑み、首を横に振る。
「大丈夫、ルルリアナ様?顔色がすごく悪いけど」
そういってリースは一瞬躊躇したが、ルルリアナの手にそっと触れる。
リースはルルリアナの手の冷たさに驚く。
まるで氷みたいだ。
生きている人の体温とは思えないルルリアナの手をリースは両手で優しく包み込む。
「体もこんなに冷えて。神殿の服って前から思ってたけど、体を隠すだけが服の役割って思ってるよね。少しも温かくなさそう」
リースは騎士科の黒い制服のジャケットを脱ぎ、再びルルリアナに羽織らせる。
リースのジャケットはまるで魔法のジャケットみたいだとルルリアナは思った。
羽織った瞬間、体の芯から私を温めてくれる。
魔法のジャケットってリースに話したら、リースはなんていうかな?みんなみたいに、そんな発言は雪の華らしくないっていうかな?
ルルリアナの鼻を爽やかな甘い匂いが刺激する。
スンスンとルルリアナがリースの匂いを嗅ぐと、リースが慌てたように「あっ!汗臭いから嗅がないで!」と。
「リース様の汗はとてもいい匂いがするんですね?」
「嘘!ルルリアナ様って変態なの?」と言いつつ、リースも自分のジャケットの匂いを嗅ぐ。
「あぁ、これは僕の汗の匂いじゃなくて、ロキシスの花の香ですよ」
「ロキシス?」
「えぇ!ロキシスを知らないんですか?」
「ロキシスがエギザベリア神国の国花であることは知っているけど、こんな匂いがするなんて…その…初めて知りました」
無知な自分が恥ずかしく、ルルリアナはそっとリースから目を反らす。
ロキシスは白い六枚の花弁の花で、まるで雪の結晶のような形からエギザベリア神国の国花とされている。エギザベリア神国のいたるところに咲き乱れ、それこそ馬車が行きかう道にもしっかりと咲き誇っているほど強い花なのだ。
ルルリアナは図鑑でロキシスの花を見たことはあったが、実物を見たことがなかった。
「ロキシスは今が旬で、学校の中庭にまるで絨毯のように咲き誇っているんだ!それこそ雪が降ったみたいに!」
「…見てみたいな……」
何気なく呟いたルルリアナに、リースが飛びつく。
「じゃあ、行こう!」
リースは何のためらいもなくまっすぐルルリアナに手を伸ばす。
その手はしっかりと開かれており、ルルリアナがその手を取ることに何の疑問もないようだ。
「…でも、私…」
「ロキシスは今の時間が一番綺麗だよ?日の光に白い花が反射してキラキラ輝くんだから!行こうよ!」
「でも…」
と、ルルリアナは貯まっている宿題と書類に視線を向ける。
そのことに気が付いたリースは、伸ばされることのなかったルルリアナの手をしっかりと握る。
「大丈夫だよ!少しの時間くらい!」
「でも…」
「ルルリアナ様の仕事が大切なのは知ってるけど、少しくらいさぼったからってつぶれる国なら、とっくに他国につぶされてるよ。誰もエギザベリア神国に逆らえないんだから、未来のルルリアナが何をしたって誰も文句を言えないよ」
グイグイとリースに手を引かれ、ルルリアナは初めて外の世界に一歩踏み出したのだった。
この一歩が自分を大きく変えてしまうほどの一歩だと、ルルリアナを始め誰も気がついてはいなかった。
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