第十三章 傍観者の罰
#アシスタントD3342PA備忘録
宇宙の始まりと終わりで帳尻が合うなら基本的に何をしたって大丈夫――それがシンが
実際、
もちろん、広大すぎる宇宙が知性体にしっぺ返しをする頃には、文明など跡形もなく滅び去っている可能性もあります。
シンは自ら組んだ
これは気の遠くなるほど発達した科学が遺した魔法のようなものです。シンも自称する魔法使いの弟子たちは、こうして正解も分からないまませっせと宇宙に穴を開け続けています。
生成された
先行した一〇機の探査プローブはすべて帰還しませんでした。
例え
シンの至った結論はそのいずれでもありませんでした。これまでシンの生成した
例えば
では
実験殻の
*****
黄色く灯る薄あかりの中、半ば陰に埋もれるようにシンは壁に背を預けて蹲っていた。あれから数回の食事を経たが、無口な配膳の使用人からは何の事情説明もないまま、シンは放置されている。
どうやらバルターの謁見は取り乱したヴェルナのせいで有耶無耶のまま立ち消えてしまったようだ。気付けばシンの扱いは監禁に格上げされており、自由に使える通路にも錠と歩哨が張り付いていた。
裁定の迫るこの時期にバルターが時間を取るのは難しいだろう。シンとの対話を事を成してからと考えているなら、少なくともそれまでは逃がしてもくれまい。
この監禁が本来の予定の内か、それとも本当に話がしたかっただけなのかは、今となっては分からない。
だがヴェルナの乱心がシンの監視に繋がっているのは確かだ。例え理由は分からなくても、バルターはシンを無関係とは思わないだろう。
あのときのバルターの表情を思い出す。人格がないはずのノームの悲鳴を聞いた者がミドルアースにどれだけいるのだろう。ヴェルナには気の毒だが、それを思うとシンの口許は皮肉に綻んだ。
この世界の道に外れた不遇を恨む一方で、バルターも意思のない者は道具と切り捨てている。シンにはその境界線が滑稽だった。
いずれにせよ、バルターにとってヴェルナは裁定の要だ。すでに仕込みは終わっているだろうが、件のトロルの制御にはヴェルナが関わっているはずだ。正確にはヴェルナとリンクした探査プローブ七号の知識が。
擬似人格こそないが探索プローブは高度な知能を備えている。その第一義は収集と帰還だ。知性体との対話も緊急手段としてその範疇にある。つまり探査プローブが帰還のために選ぶ行動はシンと同じだ。
思考機械という意味でプローブと算術士は同類だ。相互理解も早いだろう。ヴェルナが探査プローブの話し手として選ばれたのは想像に難くない。結果、演算技術が引き出せたなら、トロルの行動命令を改善するのは容易い。
だが、恐らくバルターにとってトロルは余禄に過ぎなかった。ヴェルナを通じてバルターが得た最大の収穫は
恐らく探査プローブが公用知識として持つ
無論、それが一方的に間違っている訳ではない。それに、シンにはこの長命社会がそう簡単に変化するとも思えない。それはバルターも理解しているはずだ。
こうしたものは長い時間を掛けて形を変えるか、強い衝撃を与えて良し悪しも諸共に破壊するほかない。バルターがトロルの兵力を背景に目論んでいるのは後者にしかなり得なかった。それでも良いと思っているのだ。
目的意識、使命感、あるいはバルターのその情念は、シンにはうまく理解できなかった。理不尽に沈黙し、ただ身を躱してきたシンとは正反対だからだ。
〈バルターに対抗するとして、あのトロル部隊が相手なら、こちらにも準備が必要です。補給とリソースの確保を考えなければなりません〉
アシスタントは囁くが、そもそもシンには反目も加担も選択肢にない。いっそどこかに隠遁したいと思っていたくらいだ。
〈ご安心ください、私とならどこでも生存が可能です。あんな野良猫も不要です〉
アシスタントは犬歯を剥き出したニアベルの映像をシンの視界に映し出し、大きく不要と書かれたピクトを貼り付けた。
アシスタントに苦笑しながら、シンはニアベルや係わりを持った皆を思った。独りでいたかったのは責任の鬱陶しさから逃れたかったからだ。独りなら自分にだけ言い訳ができればよかった。背負うのも一人でよかったのに。
だがもう遅い。一二〇年ほど遅すぎた。この世界を変える切っ掛けはシンの投げ入れた探査プローブにほかならない。
〈その結論に至るには七八四項目の仮定が含まれます、そんなものがシンのせいと言えるでしょうか?〉
アシスタントは主張する。だが仮定の羅列は言い訳に過ぎない。シンの最初の罪がバルターの切っ掛けになったことに変わりはない。
*備忘録に追加
〈また仕舞い込むつもりですね。ええ、どうせあなたは聞かないだろうと思って私も嘘を吐きました〉
アシスタントはしれっとそう言った。
〈本当は七八五項目です〉
思わず笑ってシンは天井を仰いだ。黄色い灯りが揺れて見える。
〈そもそも最初の前提が私には理解できません。例えここが異世界であれ時間遡行が可能だとは思えないのです〉
探査プローブ七号のタイムスタンプは一二〇年前だった。こればかりは誤魔化しようがない。この異なる地球の存在も含めて、シンは初めから目の前の事実に言い訳を重ねてきた。
ミドルアースは地球だ。だが
振り子のように繰り返す宇宙か、螺旋を描いて重なった宇宙か、そうした宇宙の同じ一点に穴を通してしまったに違いない。コードひとつで非常識な事態に陥る
座標のずれは空間軸だけでなく時間軸にも生じた。同じ宇宙では起こり得ない
〈シン、宇宙を客観視できたとして、あなたはすでにこの世界の一要素です〉
失敗かと思えた実験殻での
〈あなたは――〉
本来は口に出す必要がないはずのアシスタントへのオーダーに、シンは息を整えた。
*探査プローブ七号の制御を掌握
アシスタントは一瞬口籠り、少し溜息に似た口調でシンに告げた。
〈連携、掌握。マスター認証は正常です〉
*七号のすべてをリソースとして
〈安全係数を加算し――〉
*必要ない
〈外部演算域の占有により九八〇〇秒に短縮が可能です〉
シンは大きく息を吐いた。
*演算開始、生成完了後七号を凍結
〈中断すれば生成式の再構築が必要になります。よろしいですか?〉
*演算開始
〈演算回路を励起します、
頭の中の空隙がごっそりと抜け落ちるような感覚があった。ガーメントから急激に快適さが失われていく。裸のような頼りなさを感じながら、不意にわき出した微熱に意識が朦朧とした。身体制御も機能が低下しているのだ。
〈シン、安静に。体力を温存してください〉
意識の幅が狭くなる。目の前のことしか考えられない。生来の身体はこれほど脆弱だったのか。シンは壁際に座り込んだまま目を閉じた。
インプラントと探査プローブに演算を任せ、シンはぼんやりと時を待っていた。手持無沙汰に指先が宙を弄り、あるはずのない毛並みを探していることに気付いて我に返る。
決断を躊躇っていた理由はそれもあった。
カウントが二〇〇〇秒を切った辺り、シンは微かな香の匂いを意識した。どこか嗅ぎ覚えのある匂いだ。
〈代謝遅延成分です〉
アシスタントが答えた。
〈この濃度なら意識は保てますが、演算を中断しますか?〉
*継続
アシスタントの警戒はもっともだ。今のシンには身を守る手段がない。
不意に錠を弄ぶような音がした。焦るように忙しなく、随分長く続いている。まるで開け方に迷っているようだ。そう思い至ったとたん扉が開いた。
顔を覗かせたのはアルヴィだった。口許を布で覆っている。壁際に蹲るシンと目が合うと、駆け寄って同じように口に布を押し当てた。香を吸うなと目で訴えている。アルヴィはシンの袖を引き、立つように促した。
〈生成まで一七六〇秒です〉
アルヴィの意図は何となく察せられる。制するために布を取り、話そうとしてシンは咽た。アルヴィの開けた扉の向こうは思った以上に香が強かった。
慌てて口許を押さえつつ、シンは仕方なくアルヴィに従った。
ここでは迂闊に話もできない。
アルヴィに付いて部屋の外に出ると、通路に衛兵が座り込んでいた。見渡せば幾人もが床に伏せている。見掛けによらずにアルヴィの行動は大胆だ。
呆れるシンの手をアルヴィが引いた。否応もなく衛兵を横目に駆けて行く。
息を詰めたまま迷路のような道を延々と走った。辺りには香が満ちているのだろう、転々と人が倒れていた。シンが手を振り解くのは容易いが、この有様では留まるのも危うい。
〈シン、七号より権限回復の要請です〉
とうとうヴェルナが探査プローブの表層に入った。リンクを取り戻そうと足掻いた挙句、ようやくシンの上位権限に気付いたようだ。
*要請を拒絶
〈承知しました〉
アルヴィが不意に立ち止まり、ただの壁としか思えない一画を弄り始めた。唐突に壁が奥に沈んで口を開ける。その狭い暗闇は上を向いて傾斜していた。
壁を頼りに進んだ先には星空があった。建屋の外は夜だった。
「いきなり、申し訳、ありません」
辺りに人けがないのを確かめて、アルヴィは後ろ手に壁を閉じた。ようやく口許の布を取り、思い切り息を吸い込んで見せる。それはシンに香の外に出たと示すためだったが、息も絶え絶えのアルヴィはその反動で咳き込んだ。
仕方なくアルヴィの背を摩りながら、シンも冷えた夜の空気を吸い込んだ。香は消え、土壁と木と草の匂いがする。
見渡せば点々と灯が見えた。ひと続きで連なる軒に燈器が連なっている。建屋を照らし切るほどではないが、辺りには見覚えがあった。公邸の一角だ。
「何だってこんなことを」
落ち着くのを待ってシンはアルヴィに訊ねた。つい呆れた口調になってしまう。
「ヴェルナが不安定になったのはシンのせいだと、『父』が」
それは確かにその通りだ。
〈まだ七号への接触を継続しています、諦めが悪いですね〉
「アルヴィも出立が間近で、最後の調整にはシンが邪魔だと――」
長い髪に埋もれるように耳先が垂れる。シンは初めてアルヴィが父と呼ぶのを聞いた。そもそも今までその語彙がなかったのも驚きだ。
「父はシンをもっと深いところに閉じ込めるつもりです」
アルヴィが軒先を先導して歩き始めた。エルフはゴブリンほどに夜目が利かない。探るような足取りは、辺りを警戒しているせいだろう。あるいは外の世界に不慣れなのかも知れない。
「父はあなたを手放しません。私のように死ぬまで隠しておくつもりです」
成り行きで後を追いながら、シンは小さく肩を竦めた。
「だからって、こんなことをして君が酷い目にあわされやしないか?」
アルヴィが不意に立ち止まり、シンを振り返った。
「これ以上?」
微笑んだ目許はバルターに似て強かった。
シンは息を詰めて小さく呻いた。憂い、憎しみ、愛おしさ、例えアルヴィの耳先を辿らなくても情動の情報量は多すぎる。シンは言葉を探して立ち尽くした。
〈シン、七号がこちらの位置を探っています〉
探査プローブの帰巣行動を利用されたかも知れない。
「アルヴィ、ヴェルナはどこだ」
不意の問いにアルヴィがきょとんとする。
「香の用意を手伝って貰ってから、この先で――」
〈七号が急速に接近しています〉
アルヴィの目がシンの背後に逸れて見開いた。名を呼ぶように口を開きかける。
シンが振り返ろうとしたその刹那、背中を押されてたたらを踏んだ。縋るような背の重みと身体の中を押し通って行く冷えた異物に感覚が混乱する。
「ヴェルナ」
〈シン〉
悲鳴のような声を聞いた。
膝を着く。他人の視界を覗いたように勝手に世界が傾いだ。自重に沿って腹の中を再び硬い異物が通り抜ける。振り返ると血に濡れた切っ先と白い衣装が、さらに見上げると虚ろな朱い目がシンを見つめていた。
「返し、て、わた、しの」
アルヴィが飛び出してヴェルナに縋り付いた。握り締めた柄は儀仗用と思しく装飾過多だが、血に濡れた細身の刀身にはしっかり刃が付いていた。少なくとも今の脆弱なシンのガーメントを刺し貫くくらいには。
「ヴェルナ、ヴェルナ、どうして」
体温そのものが流れ出るような感覚に身体が冷えていく。
〈生命維持が危険域に入りました。直ちに演算を中断し治癒を開始します〉
アシスタントは人格演出にリソースを割く余裕を失っている。
*演算継続
いま演算を中断すればすべてやり直しだ。この環境、この状況下で再度生成式を組み直さねばならない。探査プローブの演算野を専有し続けたとしても膨大な時間が掛かるだろう。
〈拒否。生命維持を優先します〉
*演算を継続
〈生命維持が優先です〉
*演算を継続
「お願いだデルフィ」
視界の隅の赤いボタンを押すことすら忘れて、シンはそう言った。
剣が地面に落ちて跳ねた。
「アル、ヴィ」
〈なんて狡い人〉
血だまりが地面に描く複雑な文様に目眩がした。それは
どんな構造式を描けば人の情動を表せる。どうすれば互いの関係を予測できるのだろう。適切な距離、適切な会話、
「シン」
もうひとつの声がシンを呼んだ。最後に聞いたのはいつだっただろう。ずいぶん昔のような気がする。
向こうにニアベルが見えた。部屋を出る際に口を塞いだ布をかなぐり捨て、こちらに走って来る。相変わらず鼻は利くようだ。
「シン、シン、シン」
二人を突き飛ばすように割り込んでシンを庇うようにしゃがみ込むと、ニアベルはシンの傷を見て全身を総毛立たせた。逆上して二人を振り返る。
「殺す、刻んで捨ててやる」
シンはニアベルの肩を掴んで引き戻した。
「俺を――」
遠くで誰何の声が響いた。手持ちの燈器が行き来している。
「――連れて逃げられるか?」
「でも、傷が、血が」
「人のいない所に」
「誰か、誰かが西門の方に」
不意にアルヴィが燈器に向かって声を上げた。ヴェルナをしっかりと抑え込んだまま、シンとニアベルを振り返って「早く」と言った。
ヴェルナは赤く濡れた手で胸元の籠飾りを握り締めている。今も虚ろな目でシンを見つめていた。情動を一切欠いたかに見えるこのノームにとって、探査プローブがどんな存在だったのかは推し量るほかない。
「少し我慢しろ」
ニアベルはシンの胸に潜り込むように肩を入れ、腕を回して担ぎ上げた。痛みに意識が呼び戻され、シンは悲鳴を噛み殺した。何より寒さに身体が震えた。
「どうか――」
アルヴィの言葉は風に途切れた。
ニアベルは飛ぶように駆ける。壁を蹴り、小屋根を踏んで跳ね上がる。星が近づくその度にシンの身体は二つに千切れそうになった。
アシスタントは非難の声を上げる間も惜しんで演算を維持している。なけなしのリソースを掻き集めて止血に挑んでいた。
「シン」
ニアベルは屋根の上に立ち、肩からそっとシンを下ろした。腹の傷を見て胸が潰れたような唸りを上げる。
「シン、シン」
「
鮮血に滑る腹を押さえてシンは藻掻くように身を起こした。ニアベルはシンに縋りつき、支えるとも押し留めるともつかないままぼろぼろと泣き声を上げた。
「シンが帰ってしまうかもって、皆が」
地上の慌しさが微かに伝わってくる。地下の状況が発覚したのか、あるいはアルヴィとヴェルナが見咎められたのか。あの血塗れの様相では騒ぎになるのも当然だろう。アルヴィの誘導も言い訳も、とうに限界を超えている。
「シン、どうしよう、血が、血が止まらない」
すでに辺りに多くの声が飛び交っていた。
「上だ」
その叫びにニアベルが殺気立った。シンを背に庇い鉈の柄に手を掛ける。衛兵の大半はゴブリンだ。この血の匂いは誤魔化せない。
〈ゲート生成シークエンス〉
シンの背後に淡い光芒が走った。屋根の途切れた先、空の中空に螺鈿のような図形が折り重なっていく。二次元に映った生成式の残影だ。それは不意に黒々とした円形になって星空を塗り潰した。
「黒い、板?」
ニアベルが振り返り、シンと交互に見て呆然と呟いた。
「帰るのか?」
シンは身体を起こしてそれに応えた。階下の瓦を踏む音が押し寄せ、梯子の突端が屋根の縁を叩いた。
ニアベルの目がシンと
梯子が揺れ、燈器の灯りが突端を照らした。ニアベルはシンから視線を引き千切るように振り返り、梯子に向かって鉈を構えた。
〈ゲート生成、成功しました。蒸発まであと九秒です〉
「ニアベル」
つい名を呼んで口を噤む。
自分に何の権利がある。どうして負えない責任に手を伸ばす。衝動を堪えろ。冷静に考えろ。
無駄だった。自身に何を言い繕ったところで誤魔化せない。
〈シン、後悔は後でしなさい〉
「俺と来い」
放たれた矢のようにニアベルは瓦を蹴ってシンの胸に飛び込んだ。勢い、息もできないほど縋り付く。反動に足が浮いた。倒れ込む先には漆黒がある。水底に迎える波紋のように、シンとニアベルの周囲を螺鈿の文様が流れ過ぎた。
不意に視界の星空が途切れた。
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