第十二章 観測者の罪

#アシスタントD3342PA備忘録

 帝国アウターには扉職人ゲートキーパーと呼ばれる職能集団がいます。ゲートの生成に携わる多彩な種族の集まりで、今ではシンもその一人です。

 出自の異なる彼らに共通しているのは、特異な空間認識で――私にも説明は難しいのですが――知性体に高次元の影を落とした特異点のようなものだとか。

 歴史の桁が異なる帝国アウター扉職人ゲートキーパーにしてみれば、人類版図ガラクティクスの科学者はきっと背伸びをしてプランクブレーンに手を伸ばした幼児のようなものでしょう。どうか頭の上に何も落ちてきませんように。

 ただしシンにしてみれば――自身も含めてですが――彼らの方こそ理屈も知らず宇宙に穴を開けて回る魔法使いに他なりません。

 帝国アウターゲートは、そんな特異な空間認識を持つ知性体の変異種によって、個々に生成されているのです。そう、こつこつと手作りで。

 帝国アウターの技術を端的に表せば、それは単なる思考手順に過ぎません。実際、ゲートの生成に必要なのは資質と演算、それだけです。

 ゲートを定着させるために機械的な仕組みも必要ですが、それ自体は跳躍宇宙船の周辺技術と何ら変わりがないのです。

 地球原種アースリング本来の脳の容量では演算領域が足りませんが、裏を返せば単にリソースの問題です。固定化しなければゲートは一〇秒ほどで蒸発してしまうのですが、一歩には十分な時間です。

 生成式の素材コードはシンの補助演算野の中にあります。最終仕様もダウンロード済み。論理回路の再構成はいつでも可能な状況です。

 演算だけが難題でした。タスクを分割すれば負荷を時間に転換することはできます。だだ、シンにとってはうんざりするほどの長期戦になるでしょう。現実的な幅を鑑みて数年ほど。ですが決して不可能ではありません。

 シンの思索が誰にも邪魔されない、静かな環境さえあれば。


 *****


 翌朝のニアベルは、シンと一言も口をきかないどころか、終始鼻根を真っ赤にしてシンから逃げ回っていた。

 かといってどこかに姿を消すわけでもなく、王里オードへの道中も前に後ろにシンから離れてじっと様子を窺っている。ところがふとした拍子に近づこうものなら、犬歯と爪を剥き出してシンを威嚇するのだ。

 纏わり付かれるのも鬱陶しいが、警戒されるのも相当に面倒だった。アシスタントはシンの自業自得だと取り付く島もなかったが、シンにしてみれば膝の上の猫を撫でていただけだ。これほど嫌われる実感がまるでない。

〈それが駄目なんです、反省してください〉

 アシスタントはにべもない。

 朝のうちの行程で里に着き、手前で迎えのゴブリンたちに出会うと、ニアベルはすぐさまカーミラを連れてさっさと官府の用意した宿に籠ってしまった。

「今は近づくと危ないっス、アニさん」

「あとでちゃんと誤りなよ、シン」

「ん」

 耳の遣り取りで何となく事情を察したゴブリンの男衆は妙にシンに優しかった。それはそれで釈然としない。謁見までの待合いに用意された部屋に向かったものの、シンは休む間もなくカーミラに呼び出された。

 いきなり正座を強要されるや、まだ子供なのにとか、まずは段階を踏んでとか、姫さまに見合う獲物を貢いでからとか何とか、とにかくよく分からない話を滾々と言い聞かされた。

 ようやく説教から解放されて部屋に戻るなり、シンは力尽きて卓に突っ伏した。

 俺が一体何をした。どうにもゴブリンの習慣は理解し難い。

〈今後は無暗に野良猫を撫でるのを控えてください。あと、ちゃんと手を洗うこと〉

 アシスタントはまだ機嫌が悪かった。

「引っ掻き傷で済んだのは幸いでしたね」

 ターヴは呆れたような、それでいてどこか面白がっているような目を向けて言った。シンは溜息でそれに応えた。撫で加減を違えて猫に噛まれたことは何度もある。思索の最中に無意識に構っていた折はなおさらだ。

「扱い方が悪かったようだ」

 ただ、これほど嫌われたり叱られたりするとは思わなかった。

 ターヴは表情を変えないまま、その尖った耳先だけを欹てるように立ち上げた。

「子供扱いが悪かったんですよ」

 案外ターヴは普通に驚いているようだ。

「子供だろう?」

 むしろ仔猫というべきか。シンはきょとんと言い返した。ニアベルはまだ十五歳だ。彼らの寿命からすれば僅か七%に過ぎない。

「女性です。シンの世界とそう違いますか?」

 正直、シンにはよく分からない。他人と係わること自体が稀で、性別に拘わらず経歴と容姿と情欲の捌け口のほかに他人から関心を持たれたことがないからだ。

 そもそも人との距離さえ測れないのに、個々に扱い方を変えるなど荷が重すぎる。触手や目の数をかぞえている方がよほど簡単だ。もといた世界には気まぐれに擦り寄ってにゃあにゃあ鳴く生物など猫のほかにいなかったのだ。

 困ったように見渡すと、ガリオンは顎髭を摘みながらシンから目を逸らした。それをターヴが目敏く見つける。

「ああ、どうやらガリオンと同じ類ですね」

 巻き込まれたガリオンが唸る。

「種族も生態も違うからな」

「関係ありませんよ、ガリオン」

 ターヴの矛先が変わった隙にシンはそっと息を漏らした。

〈聞いてください、私はシンのパートナーとしてステップアップを図るべき時が来たと確信しました〉

 いきなりアシスタントが言い出した。

〈私の生物義体を製造するべきです〉

 勘弁してくれ。喉の奥で変な声が出る。

〈ご安心ください、プランは密かに作成済みです。ヌーサイトで改竄ボットを作成すれば製造期間はわずか二〇日、素材も現地人三〇体ほどで済みます。もちろん生殖可能で感度も三千――〉

 シンは視界の隅の赤いボタンに目線を遣った。疑似人格の抹消コードだ。

〈自己診断タスクを開始します〉

 アシスタントは自ら手を上げた。汎銀河ネットワークストリームが断線して以来、アシスタントの性格はどんどん初期値から離れていく。補正が効いていないのだ。

 この先うまく人類版図ガラクティクスに帰還できたとしても、へたに標準人格プロトコルを通せばアシスタントは別人になり兼ねない。

 シンは横道で口論する二人――というかターヴが一方的に責めている――をしばらく眺めていたものの、ガリオンが少し気の毒になって二人の話を戻した。

「例え俺の耳が長くても分からないよ」

 溜息を吐いてターヴは難しい顔をした。

「シン、それではひとつだけ。最低でも私たちの耳の扱いに気を付けてください。この鈍いドワーフでさえ他人が触れるのは好みません。シンにとって何に相当するかは分かりませんが、場合によっては人死にが出てもおかしくない」

 怖いことを言う。だが冗談でもなさそうだ。ウルスラの一件以来耳には触れないようにしてきたが、どうやらそれで正解だったらしい。

 彼らの外耳は触角にも等しい感覚器官だ。礼儀や社会的な意味合いも付加されているに違いない。もしかしたら昨夜はうっかりニアベルの耳に触れてしまったのかも知れない。思索に耽るとその辺りの記憶が曖昧になってしまう。

「まいったな」

 どう謝罪するのが正しいかも訊くべきだろうか。だが、それ以前に口をきいて貰えそうにない。シンは途方に暮れた。少し近付いたかと思えば絶望的に遠くなる。例え異世界であっても人との関係が面倒なのは変わらない。

 ふとシンはこの先を考えた。万一のこと、もしくはゲートの再生成が軌道に乗ったとして、謁見後にどれだけの機会があるだろう。シンは二人に向かって計画を話しておくことにした。


 王里オードは広く巨大な街だが、すべてがひと所に集中した造りではない。場所ごとに特性が色濃く違っている。機能ごとに施設が集まり、それぞれが幹線で繋がっていた。

 河川と港湾の周辺を交易市場が点々と埋め、それに沿って倉庫や加工場などが置かれている。郊外の平地はほとんどが田畑だ。行政施設が居並ぶ先には少し小高い丘があり、官庁や公邸の敷地があった。

 シンと一行は衛兵の立つ門を抜け、少し歩いて山吹色の濃淡に彩られた大きな建屋に入った。高い塀に囲われた公邸は、敷地の内側に窓のない棟を幾つも従えていた。

 公邸の内側は外観通り天井が高く、剥き出しの太い梁から点々と燈器が下がっていた。黒く艶のある柱と白い塗り物の壁が主体で色彩も一転、コントラストが強く格式張っている。

 待機所にゴブリンたちを残しニアベルが合流するも、相変わらずシンには見向きもしなかった。そのくせ耳先だけはずっとシンを追いかけてくる。

 一行が使者に先導された先は里ノ王の謁見場だった。大扉には控えの壁がなく、天井までの高さがある。木彫りの透かしには薄い紙が張ってあり、内と外の官吏が紙に映った耳の影の合図で大扉を開いた。

 天井の高い方形の広間だ。正面に演台めいた机があり、机上を隠した周り縁から王里オードの主の半身が伺える。

 八軒王里オードの里ノ王、バルターは黒い髪のエルフだった。紫の薄布が顔の半分を覆っているため耳はおろか容貌の委細も分からない。

 シンのフードは異人の故、後ろに並ぶノームは人外の故、演台の向こうのバルターは貴人の故に、ここでは耳を隠している。

「裁定の日取りが締結した。三〇日後、宵限ヨイキリの旧裁定場で執り行う」

 バルターのよく通る声は室内に高く凛と響いた。顔を半分覆う薄布も却って目力を強調しているようだ。彼の選んだ三人の代闘士と一人の異邦人をバルターは壇上から睥睨した。

 バルターは次いで自ら委細を告げた。様式のようなものだろう。皆が口を挟まないため、シンもそのまま黙っていた。退屈だが段取りを無碍にするのも大人げない。

 シンはぼんやりと辺りを眺めた。一見、部屋の左右に窓はなく、奥は天井から下がる大きな飾り幕に覆われていた。その先に何があるのか、ここからは伺えない。

 バルターの頭の高い冠は紫の天鵞絨でできており、それを彩る銀の鎖飾りがひと繋がりに耳を押さえて長い薄布を吊っている。上背があるため痩身に見えるが、身体は厚く引き締まっていた。同じエルフでもターヴより線が太い。

 バルター後ろには目深に頭巾を被った白装束のノームが八人、横一列に並んでいた。バルターの算術士だ。顔を伏せれば皆一様に亡霊のようで、まるで見分けがつかなかった。

 ただ一人、胸元に小さな丸い膨らみがある。それが高殿の崖の下で見た籠飾りなら、あれが恐らく白い少女だろう。ニアベルもそうと気付いたに違いない。何気に目を遣ると腕の柔毛を逆立てていた。

宵限ヨイキリの設えを進めようとしている。王里オードに着いたばかりですまないが、貴殿らには現場の指揮と顔合わせをお願いしたい」

 バルターが言った。つまり皆は来た道をとんぼ返りだ。

郷都ゴートの代闘士と裁定人が互いを検分することになる。裁定につまらぬ瑕疵を残したくない。貴殿らなら律することができると信じている」

 その言葉にガリオンとターヴが目線を交わした。これは暗にニアベルの暴走を抑えろということだろうか。

「オレが手を出すかもって?」

 物怖じすることなくニアベルが言い放った。わざわざ口にするのかと呆れたが、思えばこちらの三人は耳が剥き出しだ。そうした感情はすでにバルターの知るところだろう。だとすればニアベルはシンに聞かせているのだろうか。

 そんな道理を弁えない乱暴者ではないとニアベルは口を尖らせているのだ。

 バルターの薄布が小さく揺らいだ。笑ったような気がする。何となくそう感じた。

「貴殿のことは信用している、問題は郷都ゴートの方だ。境里サークでは些か威嚇が効きすぎた。問題を起こして裁定に難癖をつけてくるやも知れぬ」

 無言の一拍があった。バルターは一方的に皆の耳を眺めるだけだが、そこに何らかの納得があったのだろう。何となくの雰囲気は分かる。そうした遣り取りを眺めていても、シンは今さら疎外感を感じなかった。

 バルターはノームの一人に声を掛け、飾り幕の奥に向かわせた。やはり別の部屋があるのだ。見る限り部屋には文官しかいない。奥に警護の兵士が犇めいていてもおかしくなかった。

「その件で要らぬ憶測をさせてしまったな」

 衣擦れの音に合わせてバルターが言った。飾り幕の奥からノームが連れてきたのはアルヴィと呼ばれたバルターの実子だった。

 改めて見るも、やはり線が細く可憐だ。深窓の令嬢といった面持ちだが、ターヴの話の通りならアルヴィは令嬢でも令息でもない。

 人類版図ガラクティクスにも無性体や良性具有は珍しくない。ただ技術の媒介なしに性別を変える生態が驚異だ。それはドワーフも同様で、なまじ地球原種アースリングと差異のない外見だからこそ、その特異性は想像もできなかった。

「アルヴィと申します。この度は危ない所を助けて戴き――」

 バルターに促されて口を開いたアルヴィは、シンに目を留めて耳の先を桜色に染めた。

「ありがとうございます」

 アシスタントの舌打ちと同時にニアベルからシンに向かって殺気が飛んできた。理不尽なことこの上ない。

「これは私に縁のある者だ。郷都ゴートに対して弱みとなる故、今まで公にはできなかった。彼らの凶行を阻止してくれたことに改めて感謝する」

 バルターはそう言ってアルヴィを一瞥した。

「病身のゆえ此度の裁定には同行できないが、この身に纏わる理由は先で明かすつもりだ」

 裁定で突かれるのを恐れていたにも拘らず、バルターはそれを自ら語るという。バルターの勝機はどこにあるのだろう。やはりトロルの戦力か、それとも他にも切り札を隠しているのか。

 いや、関係のないことだ。シンは微かに口許を顰めた。

「シンというそうだな」

 不意にバルターが目を向けた。

「謝意が最後になり、申し訳なく思う。異邦の者だという話だが」

 問い掛ける強い目を眺め遣り、シンは答える代わりにフードを払った。居並ぶノームに反応はなかったが、部屋の隅に控えた文官は耳を忙しなく震わせた。

「なるほど、素性は問うても?」

 思えば面と向かって訊かれるのは初めてだった。そうした問いは卑しい行為だと聞いていたが、貴人であれば例外なのか、あるいはバルターは敢えて禁忌に反しているのかも知れない。

「奇異に思えるのは承知だが、たまたまこの世界に迷い込んだ凡庸な人間だ」

 正直、シンは説明が億劫だった。

「偶さか係わってしまったが、あなた方とは住む世界が違う。生態も習慣も言葉も違う。見ての通り、上手く喋れない」

 シンは自分の耳をつついて見せた。

「さて恩人には変わりがない、この先の宛はお有りか?」

 バルターの問いにシンは短い息を吐いた。

「帰る算段は立てている。そのうち消えていなくなるだろう。どうか気にしないでくれ」

「な」

 声を上げたのはニアベルだった。聞いていないぞとばかりにシンを見る。だが目が合っても唸るばかりで言葉が出ない。知らず爪を伸縮させている。一拍ほどそうしてから、逃げるように顔を逸らした。

「これは勝手な頼みだ」

 バルターは思案の素振りを見せながらシンに向かって言った。

「ある程度の事情は承知だろうが、先の一件で郷都ゴートに我トロルだけではなく『疾き者ストライダー』の噂も立ってしまった」

〈おやおや〉

 アシスタントが妙に燥いだ声で頷いた。

「どこに郷都ゴートの目があるか分からぬゆえ、裁定が決着を見るまでは身を隠して貰いたいのだが、如何だろうか」

 ガリオンとターヴが息を吐くのが分かった。シンが裁定に係わらないという意味では、彼らには願ってもないことだ。ここに至って二人の杞憂は消えたことになる。あとはシンの身の振り方次第だ。

「静かな場所が有り難い。贅沢を言わせて貰うなら書くものがあれはいいな」

 シンにしてみれば、邪魔さえ入らなければこの際牢獄でも構わない。

「望みのままに。少々不便を掛けるが、恩人としてこの屋敷に留まりゆかれよ」

 バルターは頷くと、会見の終了を匂わせた。薄布に隠した耳は見えないが、意を汲んで官吏が動いた。再び大扉を開けてニアベルたちを誘導する。

 シンの前に官吏が割り込んだ。

「シンはこちらへ」

 バルターはそう言って奥の飾り幕を示した。ふと見ればアルヴィがノームに促され飾り幕に消えるところだった。

 ニアベルが振り返って毛を逆立てる。ターヴが制してシンに視線を投げた。思いのほかバルターの分断は早かった。

 ガリオンがシンに口許を顰め、小さく顎を突き出して見せた。どうやら頷いて見せているらしい。シンは思わず微笑んだ。

 ニアベルが二人に引き摺られるように連れられて行く。ターヴとガリオンの忙しない耳の動きは彼女への説得だろうか。

 閉じる扉の隙間にニアベルと目が合った。

 言って聴くとも思えないが、せめて面倒を起こすなと伝えるべきだっただろうか。今後のことを考えれば、危険はニアベルたちの方が高いはずだ。願わくば、共に最後になり兼ねない挨拶の機会は欲しかった。

 閉じた大扉から振り返ると、物言わぬノームが退いて飾り幕を手繰った。


 それから二日、いや三日が過ぎていた。

〈四日と十一時間です〉

 アシスタントにそう指摘されても、シンの経時感覚はうまく働かなかった。

 あれから結局ニアベルにも、ガリオンやターヴにも会っていない。ゴブリンたちも含め彼らは早々に宵限ヨイキリの裁定場に追い立てられ、どうやら王里オードに馴染みの顔は残っていない様子だ。

 バルターに与えられた建屋は思いのほか広かった。好きに使える部屋が幾つもあり、何時でも用を聞いてくれる使用人もいる。天井が高く解放感もあるが、難をいえば窓がなかった。

 どうやらここは公邸の敷地に建つ半地下の一区画らしい。禁足区画から漂う微かな香りと雰囲気からして、この先にあるのはどうやら境里サークの高殿のような施設だ。

 実際、アルヴィは同じ棟で暮らしているらしい。以来バルターとの謁見はなかったが、アルヴィはシンの許を頻繁に訪れている。人目を避けて幽閉されているという点ではシンも同じ立場だった。

 大半の時間を思索補助に費やすシンの態度は言わずもがな、それでもアルヴィは些細なことを一方的に喋っていった。情動も共感できない異人の所に、よく飽きもせず通うものだとシンは不思議に思う。

 その折のアシスタントは不貞腐れたように終始無言だが、時折大きな溜息を吐いて見せた。それがどうやら何故かアルヴィではなく、シンに向けられているようで、余計に訳が分からなかった。

「あまり根を詰められ過ぎないように、御体に障ります」

 アルヴィはいつも最後にアシスタントのようなことを言うのだが、アルヴィに体調を気遣われるのも妙な気分だった。

 シンが一息ついたのを見計らって、アシスタントは囁いた。

〈四七件の脱出プランを策定しました。思索リソースを装備に転換すれば二四時間以内に十二件の実行が可能になります〉

 事あるごとにアシスタントはここを逃げ出せとシンをせっついている。

*演算野の活性化を維持

〈現状のリソースでは緊急対応も困難です。せめて安全確保を提案します〉

 ヌーサイトもアエアンも機能の大半を割いているため、強引な思索を続けるシンの身体はアルヴィと変わらないほど脆弱だった。今のガーメントはミドルアースの繊維とそう変わらない強度しか維持できないだろう。

 バルターの配慮は体の良い監禁だが、シンはそれに不自由を感じていなかった。むしろ牢屋でも気にしなかっただろう。思索環境としてこれ以上は望めないからだ。シンには逃げ出す理由がなかった。

 気のない吐息を漏らしてシンは辺りを見渡した。シンがこの部屋に残したのは机と数脚の椅子だけだ。あとは床といわず壁といわず天井といわず組成式を書き殴った紙片が平面を埋め尽くしている。

 コードはすでに出来ていた。あとは実用に耐える演算規模に組み替えるだけだ。

 アシスタントが危惧する本当の無防備はその後に訪れる。一度ゲートの生成を始めれば演算は止められない。完遂しなければ生成式は壊れてしまう。中断すれば最初からやり直しだ。

 とはいえインプラントされた補助演算野では容量が足りない。タスクを組み替えても今のままでは演算におよそ二年掛かる計算だ。

 さすがにそれほども長居はしたくない。

「シン、こちらにいらしたのですね」

 アルヴィが扉の横に立っていた。戸枠にしがみつくように、散らかし放題の部屋の惨状を覗き込んでいる。紙を踏まないようにしているのだろう。

 部屋の中の足場は飛石のように点々としている。踏んでも構わないと何度も言ったが、入るのは躊躇うだろう。シンはといえば部屋の中ほどに置いた机の上に胡坐を掻いていた。

「またこんなに、御体に障ります」

 気後れしたようにアルヴィは言って、そっと位置を選びながら扉の横に立った。相変わらず線が細く儚い。間近で見ると少年のようであり少女のようでもある。近頃はそのどちらでもない美しさもあるのかと思うようになった。

〈見すぎですよ、シン〉

「御免なさい、私なんかが言っても説得力ありませんよね」

 アルヴィはそう言って耳の先を染めた。

〈無自覚な行動が目に余ります〉

 暇を持て余しているとはいえ、確かに異人の所など頻繁に訪れて良い場所ではないだろう。

〈シン、あなたのことです〉

 アシスタントは唸るように言った。ふとアルヴィを見ると、ぱたぱたと外耳を振っている。シンの怪訝な視線を読んで、慌てて自分の耳を押さえる。

「ごめんなさい、まるで『ヴェルナ』みたいだったものだから」

「『ヴェルナ』?」

「私のお友達です、時々シンのように見えない誰かとお話をするの」

 はにかむように笑う。

 療養仲間のことだろうか。幼い外見からは想像できないがアルヴィの幽閉期間は相当に長いはずだ。もしかするとイマジナリーフレンドの一人や二人はいるのかも知れない。思えばアシスタントの組成もそれに近いものがある。

〈失敬な。私たちデルフィシリーズはイマジナリーフレンドなどではなく現実以上の安心と信頼を提供できます〉

 憮然と主張するアシスタントのアピールをシンは自然に聞き流した。

 不意にアルヴィが何かを思い出した様子で息を呑む。

「そうでした。申し訳ありません、今日は――」

 だがそれは一歩遅かったようだ。

「なるほど、これは聞きしに勝る惨憺たる有り様だ」

 廊下に覗いた人影はいつものような茶器の盆を持つ従者ではなかった。

「これはシンの世界の習慣かな?」

 バルターだ。執務室で見た姿のまま、今も顔の半分を薄布の下に隠している。貴人は部屋を見渡して呆れたような視線をシンに寄越した。

 確かに散らかっている。むしろ斬新な壁紙かパラノイアの装飾だ。だがシンも、よもや里ノ王自らがこの部屋に訪れるとは思わなかった。

「個人の手癖だ。踏んで戴いて結構、あらかた用は済んだ」

 バルターは足下に目を遣りながら戸枠を潜った。傍らのアルヴィが心持ち身を固くする。廊下を振り向いて小さく安堵の息を吐いた。

 バルターの後ろにはもうひとり、白装束のノームが佇んでいた。目深に被ったフードの下から形の良い顎先と白い髪が覗いている。胸元には境里サークで見た丸い籠飾りが揺れていた。

 やはりこのノームはアルヴィだけでなく、バルターにも重要な算術士のようだ。

「本当はゆっくり話をしたいのだが、今は私も儘ならなくてね。無作法だが隙を見て不自由の詫び寄った次第だ」

 バルターが慇懃に告げる。耳の動きが見えないからこそ貴人は物腰が丁寧なのか。耳を隠して情動を読ませず、わざわざ振る舞いを作って表現して見せる。シンには何とも胡乱に思えた。

「こちらこそ、勝手をさせて貰っている」

 辛うじて言葉から皮肉を削った。

「シン、単刀直入に伺おう」

 バルターが微かに首を傾けて問い掛ける。

「貴殿は我々をどう思う?」

 顔の半分を薄布の下に隠したバルターだが、シンにはその目許だけで十分だった。皮肉なことに、バルターの表情はこの世界の誰よりも分かり易かったのだ。

「あなた方はあなた方の世界を生きている。余所者の話を聞いても頓珍漢なだけだろう」

 シンはその問いに憮然と答えた。

「ふむ」

 頷いてバルターは目を細くした。

「審神者の話を?」

 傍らのアルヴィは怪訝そうに実父を見上げている。だがバルターは初めからシンの立ち位置を確認するために問い掛けていた。

「俺はそうではないし、余所者が異なる価値観で断ずるのは無意味だ」

 バルターは一拍のあいだ瞑目した。

 答えはバルターの意を外しただろうか。ならばバルターの欲した答えは何だろう。シンは微かな不安を覚えた。裁定に臨むバルターの策が何であれ、それはすでに完成している。今さら審神者の介入は不要のはずだ。

「貴殿らは多様性を最終的な価値として断じてきたのでは?」

 シンの背に怖気が走った。バルターはシンが何者かを、人類版図ガラクティクスを知っている。

 シンは合わせた目を逸らさずにいた。バルターが欲しいのは自身の賛同者だ。ならばシンにそれを求めるのは審神者としてか。それとも――。

 シンは怯えたように佇むアルヴィを視界の隅に、バルターの後ろに目深な白い頭巾を捉えた。自分の鼓動を意識する。

 因果が逆だったのだ。シンは帝国アウターの魔術に戦慄した。

「ヴェルナ」

 シンが名を呼ぶとノームは僅かに身動いだ。胸元を押さえ、朱い目をシンに向ける。やはり彼女がアルヴィの友人だ。

 バルターも張り詰めていたのか、話の筋道を逸れたシンの言葉につと息を吐いた。

「その名はアルヴィに? 困ったものだ、算術士に人の名を――」

*マスターコード発信

〈シン、今ですか? 探査プローブの落下位置までは距離が――〉

*発信

 アシスタントのピンと同時にヴェルナが声を上げた。情動のない人形にしては人間的な悲鳴だ。咄嗟に胸に下げた籠飾りを握りしめ、怯えたようにシンを睨む。

 不意にヴェルナは悪夢の中を泳ぐように後退り、走り去った。

「ヴェルナ?」

 アルヴィが驚いて後を追う。振り返るバルターの目に驚愕が読み取れた。

〈これは――探査プローブ十一号ではなく、七号機の反応です〉

 アシスタントが呆然と呟いた。

〈起動経過時間が一二〇年を超えています〉

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