第十一章 魔術師の失態

#アシスタントD3342PA備忘録

 俯瞰次元通信は四次元距離の制約を受けない情報交換システムです。ええ、零距離、零時差、零コストが謳い文句のアレです。

 銀河の三割に及ぶ人類版図ガラクティクスをリアルタイムで繋ぐ汎銀河ネットワークストリームも、今は各星系の俯瞰次元通信基地を拠り所にしています。

 ちなみに俯瞰次元研究の第一人者アーサクイン博士の一人――シンの知る限りアーサクイン博士には少なくとも十二人の並列人格がいます――は、皮肉にもシンを研究所から放逐した人物でもあります。

 覆水盆に返らず。呪われよアーサクイン。

 その結果シンがフースークに見い出され、こうして私をパートナーとして迎えることになったという点においては、功績を認めなくもありませんが。

 その俯瞰次元通信が実用化されたのはつい一〇〇年ほど前です。物理移動が可能なゲートがインフラとして定着している帝国アウターとは、およそ数千年の差があります。

 当然、ゲートと俯瞰次元通信の間には越えられない壁があります。私が言うのも何ですが、それは科学と魔法の隔たりです。

 アーサクイン博士はもとより、ゲートの技術は科学を礎にした人類版図ガラクティクスには、およそ受け入れ難いものがあります。シンだってそうでした。

 シンが帰還手段を探すに当たってゲートの再生成よりも汎銀河ネットワークストリームの探索を優先したのは理性的な判断だったと言えます。

 手持ちのリソースでゲートの生成を実行するには相応の再構築と演算時間が必要になるでしょう。安全な思索環境も確保せねばなりません。

 確かにシンはゲートを生成しましたが、その成果を――科学的にという意味で――本当に理解しているとは言えません。そんな自身を魔法使いの不肖の弟子と揶揄しているほどです。

 ですから、シンはあくまで帰還手段を既成の工業品に頼るつもりでした。それが最も現実的だと確信していたからです。

 だって、ここが地球だと、少なくとも私たちの宇宙の地球だと信じていたのです。


 *****


 王里オードから招集の知らせが届いたのは次の日のことだった。バルターとの謁見に際しては、ガリオンら代闘士に加えてシンの名も挙がっていた。名目は高殿の一件、その謝意だ。

 シンの気は進まなかったが、問答無用で連行されないだけましだとも考えている。もちろん、そうなればここから逃げ出すだけだが。

 ともあれシンは皆との出立に合意した。

 準備に要する数日、どこか心ここにあらずといったシンをよいことに、ニアベルたちは逸れ狩りのどんちゃん騒ぎに明け暮れていた。

 皆は二晩掛けて獲ったトロルほどの猪を街中に引き回したうえ、宿の真ん前に陣取って解体した。もちろん、官府と衛兵への当て付けだ。

 物珍しさと肉の振る舞いに里の大勢が詰め掛け、数の少ない役人たちはじきに手も足も出せなくなった。

 逸れと呼ばれる鎮守のなり損ないには珍しい蟲が多いらしく、それを求めて、これほどいたのかと思うくらいエルフも姿を見せた。ターヴまでそれに加わっていた。

 調子に乗ったニアベルたちは部屋の中に猪肉を積んで大騒ぎした挙句、血塗れでそこいらを闊歩して宿を台無しにしてしまった。

 よほどシンへの対応を腹に据えかねていたのだろう、一抱えもある猪の頭を官府の建屋に放り込んで役人を泣かせたりもした。

 結局、ひと段落ついたのは翌々日の昼もかなり過ぎた頃だ。宿の大部屋は総出で改修となり、シンたちは別棟で部屋を小分けにされた。出立の前日になってわざわざ宿を変えねばならないのも間抜けな話だが、個室はシンに心地よかった。

 彼らの夜目が利くせいか黄色い薄明かりの部屋は思索に適している。積み上げた仮説の崩壊と帰還手段の再検討に呆然としていたシンも、さすがにこの騒動に我に返って、多少は前向きに足掻き始めていた。

 一方で心身のケアに専念したいアシスタントは境里サーク全土の殲滅を実行しかけたが、ゴブリンたちのおかげでシンは食事には事欠かず、この大量の捧げものに免じて辛うじて矛を収めた。

 シンにしてみれば、体重以上の猪肉を目の前に積まれ、ゴブリンたちに代わるがわる口に押し込まれるのは地獄の責め苦だった。これ以上の経口摂取は新たなトラウマを生む寸前だ。

 そうした最中の招集の知らせだっただけに、ガリオンとターヴは辛うじてカーミラだけを捉まえて、シンの置かれた状況を説明した。

 もちろん冷静なカーミラさえシンを妄信するきらいがあり、シンがバルターに歯向かうと言えば先頭を切って斬り込みかねない。解説は幾分、角を丸めた話になったそうだ。

 結果、ニアベルを除いた四人が先行して前日に王里オードに出立した。

 ゴブリンの従者が首領の拠点を整えるは習わしだ。ガリオンとターヴはそれに加えて、カーミラに王里オードでのシンの待遇に探りを入れるようにも依頼した。万一の場合は逃げ道も確保せねばならない。

 シンが助けた二人の少女も、すでに王里オードに移されていた。境里サークでの役目は終わったとばかりに高殿はあっさり空き家になっていた。

 バルターにシンの存在が露見した以上、シンが何者であれ立ち位置は明確にせざるを得ない。舞台は否応なく王里オードへ、そして宵限ヨイキリの裁定場へと移ることになる。

 一方その間にもシンの内心は革命前夜の郷里よりも大きな問題に揺れていた。この惑星は地球であって地球でなく、もはやこの世界に人類版図ガラクティクスが存在する保障はなかった。

 即ちこの惑星も、ニアベルたち住人も、すべて本物の異世界である可能性が限りなく高い。信じられないが物証がそれを示している。

 数千年に及ぶ帝国アウターの魔術に手を出したつけが回って来たのだ。人の身で生半可に学んだ技術はシン以外の何者にも責任の取りようがない。

 シンがいつになく皆の為すがままにされ、今もこうしてニアベルへの説明という気の遠くなる難題に相席させられているのも、要は現実逃避の一種だった。

〈まずは回復と環境確保に集中してください〉

 以来、アシスタントも大人しい。日常的な振る舞いでシンの正気を繋ぎ止めようとしているのかも知れない。

〈そうです、これからのことは追って考えましょう。ええ、時間はあります、たっぷりと。この世界は私たち二人だけの新天地なのですから〉

*自己診断開始

 もっと酷かった。シンはアシスタントの世迷言をタスクで封じて、目の前に意識を戻した。卓の向かいにはガリオンとターヴ、顎の下にはニアベルの髪が揺れている。気付けばそこが定位置とばかりにシンの脚の間に陣取っていた。

「姫さま、ここまでは大丈夫ですか?」

 状況を一通り説明したところで、向かいのターヴはニアベルに訊ねた。シンは異人だからこ郷里の諍いには与しない。裁定に関する一切の行動も行わない。そういった話だ。

「うむ」

 ニアベルは始終落ち着きなくシンの膝の上でもぞもぞとしていたが、それでも二人の話には耳を傾けていたらしい。

「シンを煩わせる必要はないからな」

 目の前の卓の上には茶と野菜、果物の載った大皿がある。それらは猪肉を見るシンの表情に気付いたカーミラが置いていった気遣いだ。

 ニアベル当人は椅子にされたシンの心情など関係なく、卓の大皿に身を乗り出して渋い顔で葉物を選り分けている。話が退屈なのか野菜が多くて困っているのかよく分からない。

「問題はバルターがどう考えているかだ。万一シンを駆り出すようなら――」

 ガリオンの言葉を鬱陶し気に遮り、ニアベルは憮然と答えた。

「シンを係わらせるなんぞオレが許さん。シンはオレのだ、バルターなんぞに好きにさせるものか」

 鼻息を荒くしながらも爪の先を器用に使って大皿の野菜を横に選り分け、小皿に肉や魚や甘い果実だけを集めていく。シンが野菜も食えと囁くと、ビクリと竦んで口を尖らせた。

 ターヴに話の先を問われ、ニアベルはつんと鼻先を上げた。

「シンを手寧に扱うなら裁定には行ってやる。どうせゴブリンのサロネー皇なぞ話し合いで譲る気などないからな、闘議は確実だ。なに、オレに任せておけ」

「バルターがトロルを闘議に出すといったらどうする?」

「馬鹿を言うな、あいつら降参も聞かんぞ」

 問い掛けたガリオンに向かってニアベルは犬歯を突き出して唸る。シンはその隙に大皿から葉物を掴んでニアベルの小皿に盛った。

「あんなのと殺し合いになったら郷都ゴートの代闘士のなり手がいなく――あれ?」

 ニアベルは増えた葉物に驚いている。

「まあ、そうなればオレはお役御免だが、代闘士として請われている以上は俸禄分は働くぞ。おまえらだってそうだろう」

 野菜を怪訝そうに摘まみながら、存外まともなことを言う。

〈餌をくれるなら何でもいいんですよ〉

 ガリオンもニアベルの理解のほどを見極めかねて曖昧に頷いた。

「それはそうだ、俺たちもバルターのすべてに反発している訳ではないしな。結論としてはそうなる」

「面倒くさい奴らだ」

 憮然としたニアベルの一言にガリオンとターヴは互いの顔を見て耳を振った。呆れたか諦めたか、恐らく肩を竦めるような感情だろう。

「要はシンが審神者としてバルターに利用されなければ、それで――」

「シン? シンがどうして審神者なのだ」

 不意にニアベルが顔を上げる。ガリオンがふうと息を吐いた。

「さっきからその話だぞ、姫さま。もしバルターがシンを審神者として利用するなら――」

「シンは審神者なのか?」

 ニアベルがぐるりと首を仰け反ってシンの顔を覗き込んだ。背中も首もどこに骨があるのかと思うほど柔らかい。

「違う」

 まん丸く見開いた目を逆さまに見おろし、シンは溜息混じりに答えた。

「ほら、違うじゃないか」

 二人を振り返ってニアベルが口を尖らせる。ガリオンとターヴは二人して卓に突っ伏しそうなのを堪えていた。

「何度も言ったぞ、シンはオレのだ。勝手はだめだ。あのエルフとノームの女もだめだ。シンが拾ったからといって傍には置かんぞ」

 持論か習慣かは分からないが、どうやらニアベルは命を救った相手を自分のものだと思い込んでいる。所有権か支配権かは分からない。出会った当時のシンはむしろ食肉にされかけたような気もするのだが。

「あれは女では――」

 蒸し返そうとしたターヴを睨み、ニアベルは言い切った。

「女だ。ウルスラと同じ匂いがする」

 吠えるように言い捨てると、ニアベルはシンが咽るほどどすんと胸に寄り掛かり、フンスと荒い鼻息を吹いた。

〈確かに鼻はいいようですね。もちろん、野良猫が何を主張したところでシンはこいつのものではありませんが〉

 ややこしくなるから黙っていろ。プロンプトを打つのも馬鹿らしく、シンは胸の内でアシスタントに呟いた。きょとんとするターヴを尻目に、ガリオンはニアベルに向かってからかうように訊ねた。

「だが姫さま、シンの落とし主が現れたらどうする気だ」

 驚いたニアベルは息を呑み、窮屈な卓の隙間でぐるりと身体を回してシンを間近に覗き込んだ。その太い犬歯に喰い付かれそうな気がしてシンは思わず顎を逸らした。

「記憶が戻ったのか?」

 背を仰け反るのも鬱陶しく、シンはニアベルの肩を掴んで席の横に押し退けた。ニアベルはくねるように身体を捩じって隣に座り込む。つくづく身体が柔らかい。

「まあ、俺が審神者でない程度にはな」

 頭を打って記憶をなくしたというのはニアベルの思い込みだが、説明が面倒で有耶無耶にしたのはシンの方だ。以来、ずっと言い出しかねている。

「でも、帰れないのだろう?」

「帰り方を探しているところだ」

 そもそもニアベルはシンを医者に診せるため、シンは汎銀河ネットワークストリームの足掛かりを探すために目的地を王里オードに定めていた。図らずも明日の昼には辿り着くことになったが。

「探しても無駄だ、ガリオンやターヴに聞いても分からないなら、誰に聞いても同じだぞ。こいつらは物知りだけが取り得だからな」

 褒めているのか貶しているのか、その言われように二人は苦笑した。

 確かに今となっては王里オードの探索も意味はない。恐らく汎銀河ネットワークストリーム自体この世界に存在しないだろう。今さら都市を目指す理由もないが、シンは逃げ出す機会を失っていた。

 少し意味は異なるが、ガリオンの言うシンの落とし主についてはとうに推測を諦めていた。何者かが実験殻に侵入していたのは確かだが、シンをゲートに突き落として利益を得る者が想像できない。そんな柵はないはずだ。

 むしろ、今さらそんなことに煩わされて思索のリソースを割きたくはなかった。

「そうだな、探すのは諦めた」

 この世界のどこにも帰還手段はない。自分で生成するよりほかにないのだ。

「シンは 宵限ヨイキリの裁定所跡で拾われたのですよね。あそこは岬だ、何処かから流れ着いたのでしょうか?」

 呟くターヴの疑問は妥当だ。地続きのインフラが主流の世界なら、見たこともない種族の出自はまず海の向こうと考えるだろう。

「さて、異人の話は聞くが、シンのような耳をしているのは審神者だけだな」

 ガリオンの言葉の通りなら、長い外耳は異種族でも共通なのだろう。

 人類版図ガラクティクスがない以上、審神者はただの伝承に格落ちする。異なる存在として角や目を加えた地球時代の民話に対し、この世界の創作は耳をなくすことで特異性を形にしたに違いない。

「違うぞ、シンは空から落ちて来たのだ」

 自分を差し置いて勝手にシンの話をするなとばかりにニアベルが割り込んだ。料理を口に頬張ったまま、もごもごと言い張る。

「飛んでいたのですか?」

 ターヴの本気具合は分からないが、さすがにシンも身ひとつでは飛べない。

「違う違う、空に黒い板があって、そこから落ちてきたのだ」

「黒い板?」

 ガリオンが興味深げに問い返した。

「そうだ。だがオレが刀を投げたら消えてしまったからな、もうないぞ」

ゲートは見なかったと言わなかったか?」

 シンがそう言って目を遣ると、ニアベルは不意に口に料理を詰めたまま固まった。鼻根に小さな皺が寄り、伏せた耳が頭に張り付いている。きゅっと丸くなったニアベルの瞳孔は、覗き込むシンの視線を避けて左右に泳いだ。

 その表情は確か、ニアベルと初めて出会った夜に見たことがあった。


 シンは板敷の床に胡坐をかき、目の前に並べた無数の紙片を眺めていた。小さな黄色の燈は床置きで、部屋の四隅には黒い影が蟠っている。

 部屋は方形の板張りでになっており、引戸も窓も木の格子で組まれていた。硝子の代わりに紙が貼られ、目隠しと明り取りを兼ねている。

 シンは宿で筆を借り、格子の紙を大量に貰い受けた。思索から漏れ出した組成式の断片を紙に書き殴り、切り取っては床に投げる。視界を割って図式を並べるより、アナログを介した方が視覚的な発想が捗るためだ。

 今のリソースでは、シンの意識に完全な思索シミュレータを立ち上げる容量が確保できない。アシスタントさえ擬似人格インターフェイスを始め機能の大半を思索補助に振り分けねば追い付かなかった。

 身体管理と緊急対応が大きく割を食うため、アシスタントは終始不機嫌だった。それでも思索補助を立ち上げればアシスタントは沈黙せざるを得ない。

 そうなればもちろん身体の痛みや吐き気はぶり返す。身体は常に蝕まれるが、シンにとっては些細なことだ。五感の入力さえ抑えてしまえば思索には集中できる。

 ゲートの組成は理屈の分からない論理式だ。理解はできないが、その全体像は知っている。それがシンの資質だからだ。ピースを組み合わせ、足りないものを創り出し、一枚の絵を完成させることが当面の目標だ。

 組成式さえできれば演算は自走させることができる。それは次の段階の課題だ。

 要は中断不能の莫大な演算が必要になる。それについては時間を掛ける以外に方法がない。補助演算野に専用回路を設ければ恐らく数年、数十年程度で済むだろう。

 抱えた紙筒に鮮血が落ちた。

〈シン、いい加減になさい〉

 不意に意識上の襟首を掴まれ、シンは現実に引き摺り出された。

 アシスタントがカエアンとヌーサイトの支配権を取り戻す数瞬の間、全身の苦痛に気が遠くなる。アシスタントの戒めか五感の回復にはちくちくとした痛みが伴った。

 シンは鼻血の落ちた紙を裂き、丸めて部屋の隅に投げ捨てた。

 気付けば部屋の向こうで何かがみゃあみゃあと鳴いている。

『ねえ、ごめんって言ってるじゃないか』

 引戸の隙間から半分だけ顔を覗かせたニアベルだった。思索にリソースを振っていたせいで翻訳も追い付いていない。どのくらいそこにいたのだろう。時間の感覚が失せている。アシスタントの溜息が聞こえた。

「何をしてる」

 そう声を掛けると不意にニアベルの目からぼろぼろと涙が溢れ出た。

「怒ってるんだな?」

 うわあ。シンは心の中で悲鳴を上げた。アシスタントが舌打ちをする。

 ニアベルが言うのは、恐らくゲートの消失についてだろう。経緯は聞き出したものの、シンは今さらどうこう言うつもりはなかった。確かニアベルにもそう言ったはずだ。

 話によると、ガリオンに唆され宵限ヨイキリの下見に来たニアベルは、空に浮かんだ黒い板を見て何事かと鉈を投げてみたらしい。その一投は辛うじて届いたが、板は鉈を飲み込むと暫くして消えてしまったのだそうだ。

 当然、ニアベルは自分が鉈を投げたせいで板が消えたのだと考えた。それがシンの帰還に必要だと知って、ずっと言い出せなかったのだ。

 実のところニアベルの鉈がゲート消失の原因かどうかは分からない。実際その可能性もあるだろう。原始的な鉄器であれ、制御卓がその一撃に耐えられるほど頑健だとも思えない。

 だがシンの抱いた感想は、そんなものか、とその程度だった。ゲート消失の原因など今さらどうでもよかった。誰のせいだろうと、何が原因だろうと、いま取り組むべきはゲートの再生成しかないのだから。

 だからニアベルにもその程度しか言わなかった。わざわざ怒っていないと伝える必要もないだろうと思っていたのだ。まさかこんなに拗らせるとは。

 生成式の構築より難題だ。ニアベルをどう扱ってよいか分からない。

「怒っていない」

 シンは辛うじて呟いた。

「本当か?」

 こんなときに限ってアシスタントは拗ねたように口を噤んでいる。

「本当に怒ってないか?」

 引戸の隙間を少し拡げて、ニアベルは何度も同じことを訊いた。問うたび少しずつにじり寄る。同じ遣り取りの繰り返しにシンは気が遠くなりそうだった。

 十一回目でニアベルは、とうとう床を横切ってシンに飛び掛かり、胸にむしゃぶりついてガーメントを手拭い代わりに顔を拭った。

「怒っていないな? 二言はないな?」

 思うさま擦り付けた顔を上げると一瞬前のぼろぼろの泣き顔は何だったのかと思うくらいの笑顔になって犬歯を剥き出した。

「だったらオレをもっと構え、ずっと無視していたんだからな」

 ニアベルはそう言ってシンの脚の上に這い上がり、座椅子のように座り込んだ。シンはただ喉の奥で呻いた。こんな時にアシスタントは助けてもくれなかった。

「何だこれは、シンの『歌留多』か?」

「仕事だ」

「変な仕事だな。どれオレが手伝ってやろう」

 無造作に紙片に手を伸ばそうとしたニアベルを慌てて抑え込む。

「大人しくしてろ」

 何もしなくてよいから、せめて邪魔をしないでくれ。喉の鳴る音を掌に感じながら、シンは手が出せないようニアベルを抱え込んだ。ニアベルは燥いだ声を上げると、何が楽しいのか陽の匂いのする髪をシンに擦り付けた。

 シンは溜息を漏らして床の上の紙片をぼんやりと眺めた。

 組成式の断片は、その個々だけを見ても意味が朧気だ。二次元的な書式ではなく立体と時系列の連なりもある。人の認識ではせいぜい四次元軸が限界だ。

 シンは無意識に思索補助を起動した。紙片は床の上だけでなく、シンの視野を併せて形を成していく。半ば五感を閉ざしたシンは、知らずニアベルを掻い繰り回していた。それは前の研究室で身に付いた思索中の手癖だ。

『あっ、なに、やめ』

 ニアベルが床を走ったせいで紙片の並びは大きく歪んでいる。キャプチャを重ねて位置を正していくうち、新たな並びが繋がって演算範囲が複層化した。

 だがこれでは時間軸と空間軸が等価になる。思索の上では可能だが、現実的には制約が出るはずだ。古典的なパラドクスが生じてしまう。

『シン、だめだ、シン』

 だが組成式は成立する。以前はともかく、このまま瑕疵が見出せないなら演算経路が作成できる。組成式を複数用意することで並列処理を行ことも可能だろう。

 その場合、個々にどこまでの精度が必要か。組成式としての再統合は可能だろうか。リソースを割いて検証を走らせる。生成式の演算に必要な時間は――。

『んな、あ、あおう』

 不意に甲高い声が胸元に響いた。ニアベルの爪がシンの手の甲を裂く。痛みに驚いて我に返ると、ニアベルは汗にまみれて涙目でシンを睨んでいた。引き攣るように身体が震え、全身が桜色に上気している。

「シンの変態、助平、馬鹿」

 ニアベルは罵倒しながら飛び退り、半泣きで犬歯を剥き出した。

「まだ駄目なんだぞ、知らないのか」

 唐突に思索補助から引き戻されたシンには、何が起きたのかもよく分からなかった。ただ地獄の窯が鳴るようなアシスタントの不気味な唸り声が響いて来る。

「馬鹿、馬鹿、馬鹿、馬鹿」

 ニアベルが叫びながら部屋から飛び出した。

「ばーかー」

 遠ざかっていく足音と一緒に、廊下の向こうから声だけが聞こえた。

 シンは呆然と戸口を見つめていた。無意識に頭を掻こうとして手の痛みにようやく気付いた。しげしげと傷を見つめるが、アシスタントは何も言わず、傷の治療もしようとしない。ただ黒々とした情動が延々と伝わって来る。

「何なんだ」

 まだ呆然としたまま引戸を閉めに戸口に出ると、隣の部屋からガリオンが何ごとかと顔を出した。シンの手の傷をしげしげと眺め、ガリオンは小さく首を振って部屋に戻った。

 いや、せめて何か言ってくれ。廊下にひとり残されたシンは、訳も分からず佇んでいた。

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