第十章 エルフの告白

#アシスタントD3342PA備忘録

 シンの食への関心は低く、シンはついぞ献立に興味を抱いたことがありません。

 シンにとって食事はあくまで補給です。余計な課題を設けないという意味では、確かに合理的な考え方といえるでしょう。

 あとは――そうですね、帝国アウターで自身の腕を食べさせられそうになって以来、しばらく食事自体が苦手になっていたようです。

 ええと、私が比喩として言いたいのは、世界の秘密と夕食の献立を同時に探るのは無理があるということです。シンはまさにその状況に直面していました。

 まずは状況を整理し、為すべきタスクを振り分ける。ええ、それ自体はいつものことです。ですがこれらの問題は、整理の棚がまるで異なっているのです。

 人類版図ガラクティクスへの帰還の足掛かりを探すのは非常に困難でした。座標として証明された地球。なのに存在するはずのない生態系。そうした根本的な矛盾の瑕疵はいまだ見出せずにいたのです。

 そんな折にも不潔な原住生物たちは自らの社会的不備にシンを搦め捕ろうとしていました。

 隙あらば逃げ道を探すものの、地球原種アースリングとの生物的差異やミドルアースの歴史的瑕疵を見出す上で、シンには最低限の社会的接触が必要でした。それらは本来まったく別のフェーズで取り上げるべき課題なのです。

 シンが見つけるべきは何よりここが地球であることの証明です。ところが、その答えは夕食の献立と共にあったのです。


 *****


「今回の襲撃で、私たちは郷都ゴートにバルターの弱みを突かれたと考えていました」

 ターヴは自らそう切り出し、自嘲するように否定した。

「私たちにとって、血縁を傍に置くのは好ましいことではありません。貴人ならばなおさらです。子らに人の在り方を教える郷都ゴートにしてみれば、そうした感覚はより強いでしょう」

 とはいえ急襲して人質に取ろうというのも強引な話だ。代闘士による決着といい、近世的な都市国家の争いとも思えない。

「乱暴なのは確かだが、物証があれば裁定は有利になるからな」

 得心のいかないシンを察したのか、ガリオンはそう解説を加えた。先のシンの言葉が効いたのか、二人は努めてシンの表情を窺っている。

 もっとも当人にしてみればそれも気まずい。口が悪かったと反省しているところだ。

「血の気の多い姫さまの話で誤解しているかも知れないが、裁定での闘議の開催はあくまで首長、臣民、代闘士の首長議論で決着がつかなければの話だ」

 一応先に話し合いの場はあるらしい。

〈最終的に殴り合いなのは変わりません〉

 アシスタントが皮肉に笑う。シンは小さく肩を竦めた。戦争決着の非効率と比べるのも条件次第だ。どこまで納得できるかの問題は、決して為政者だけのものではない。

 疑問に思うのは話し合いの決着だ。そこに本物の審神者はいない。首長議論の裁定者は誰が務め、誰がその裁定に従わせるのだろう。

「それこそ、皆の耳だ」

 シンが問うとガリオンはそう答えた。

 多数決、いや、もっと情動的な判定だ。彼らの耳は不随意だ。本心を隠すことができない。裁定はそのための首長同士の対面の場でもあるのだろう。

 だが共感性の合意にそれだけの強制力があるのは驚きだった。同調圧力の最たるものだ。

 それは同時に因習の強固さを意味している。道徳に反したことを示す決定打があれば確かに裁定は有利だ。誘拐という手段も正当化されるかも知れない。

「だがバルターは元から忌事など気にしていない。むしろ時代遅れの仕来りと、真っ向から表に立てるつもりだと思う」

「それを郷里が納得するでしょうか?」

 ガリオンの推測にターヴが口を挟んだ。

 裁定が感情的な合意に基づくなら、搾取や経済的理由で蜂起したところで合理的な賛同が得られない。実子を囲う負い目がある限りバルターに勝ち目は少ないだろう。

「バルターは裁定に拘らない。それだけの準備はしているだろう」

 フランス革命であろうと宗教改革であろうと結局は武力闘争だ。

〈私の言った通りですね〉

 手法はどうあれ闘わねば得られないものもある。それは認めるし納得もする。ただシンの肌に合わない。わざわざ闘って得たいものがないシンには共感ができないのだ。

「トロルですか。だとしたら郷都ゴートに戦力を見せ付けるために、わざと高殿を襲わせた可能性もありますね」

 ターヴの懸念はもっともだ。あの兵器がバルターの独占状態にあり、一定の数が用意できるなら一方的な兵力差が生じる。

「俺は直に見ていないが、人のように戦うトロルがいれば、恐らく裁定は茶番だ。力尽くであれ郷都ゴートの三皇を斃せば郷は混乱する」

 ガリオンの評にシンは溜息を吐いた。ここに至って事態はシンの馴染んだものになった。それは地球原種アースリングの本分であり、人類版図ガラクティクスの辿った歴史と同じだ。

 正直、そうしてまで世界を変えようとするバルターの意思には恐れ入る。シンには無理だ。善悪の判断は後世に譲るとして、英雄とはそういうものかも知れない。

 匿っていた娘を餌にするのもそうだ。彼らの因習からすれば血縁に特別な情はないが、バルター自身にとっては血を吐くような矛盾だろう。感覚に理解が及ばない。それともまだ計り知れない理由があるのだろうか。

「『アルヴィ』と呼ばれていたが、あれがバルターの娘か?」

 思い出して尋ねると、ターヴは耳を伏せた。躊躇うような目をシンに向ける。

「正確には娘ではありません。男でも女でもない。それは性的に未分化の幼名です」

 見た目にターヴの表情は大きく変わらない。だが少なくともいつもの無表情ではなかった。堪えた何かが顔にまで現れている。

「だからこそ、余計に人の目に触れないようにしていたのでしょう」

 ガリオンがターヴの耳先に目を遣り、痛々しげに頬を逸らした。どうやら嫌なところに踏み込んでしまったらしい。シンは顔を顰めた。

「私たちエルフは生涯で何度も性別を変えます。成人であれば『天露』使って任意に『転向』できるのです。多少、身体に負担は掛かりますが」

 それ以上深い話を聴くのは御免だと、止めようとしたが遅かった。

〈ええと、エルフの特性に追記シマス〉

 アシスタントはわざと機械的な音声に替えてシンに告げた。自身に結び付けられた疑似人格がどこでそんな機微を学ぶのだろうとシンは不思議に思った。

「最初はどちらでもない、成人の際に選ぶ性が最初です。ただ郷も人が少ないですから、最初に女になることを強要して子を産ませることも多い。私にも一人、郷に残した子供がいます」

 ターヴの淡々とした言葉にシンは口を噤んだ。彼らには感情が読み辛いと分かっていても、無意識にシンも表情を堪えた。

 エルフの生態や郷の慣習もさることながら、目の前のターヴからは彼の――一時は彼女の――抱えたものが想像できない。

「ただ、何らかの不都合で最初の成人を逃すと長くは生きられません。どちらでもないまま遥かに短い生涯を終えることになります」

 つまりバルターの高殿はその療養所であり、子供にとっては檻だったのだ。

「道すがら寄った村で郷を追われたエルフたちの話を聞いた」

 ガリオンが静かに口を挟んだ。例の山間の集落のことだ。

「中に酷い傷を負った女と、まだ小さな子供がいたらしい。郷に帰れない以上は正式な墓もないが、村の者はあえて彼らを死んだことにしたそうだ」

 溜息に似た吐息の後でターヴは言った。

「皆にはちゃんと言っていなかったが、その中の一人が恐らくバルターだろう」

 ターヴの頬は固く強張っている。

「郷を追われる罪はそう多くありません。恐らく子供を手放さなかったのでしょう」

 シンの気掛かりを察したのか、ターヴは静かに微笑んだ。

「ええ、私もそうでしたから」


 ニアベルたちは一夜を狩りに費やしている。今となってはそちらに付いて行った方が気が楽だったかも知れない。

 告白が重い。ミドルアースの生態や因習、石もて追われる禁忌の存在を実感するのは難しかった。外観が地球原種アースリングであればなおさらだ。

 二人が推測を重ねるに、恐らくバルターは己の血縁に固執して郷を追われた。共に郷を出た実子は適切な支援を得られず、性が未分化のまま成人したため病躯に陥っている。

 バルターの争いの目的が単に搾取構造の解消に留まらないのは明らかだ。郷里の争いとして裁定に持ち込んだバルターの真意が透けて見える。郷への復讐だ。

「いずれ裁定は荒れるだろう。決着してもバルターは強権で闘議に持ち込む」

 翌日、ガリオンは話を戻した。

「そうすればあんたたち次第だな」

 シンは話の初めから気疲れがして、つい皮肉を口にした。首長議論にも参加する以上、ガリオンやターヴのような文官も代闘士に選出される。だがニアベルはともかく二人は戦闘には不向きだ。

「そうであればまだ気が楽だ。さっさと降参するだけだからな」

「姫さまは怒るでしょうけれど」

 そのニアベルの採用も、恐らく出自が影響しているに違いない。

「バルターは討議にかこつけてトロルを動かすはずだ」

「闘議にあれが出れば圧勝でしょうね、降参の言質も取れる相手ではありませんし、暴走もあり得るでしょう」

 ターヴの言葉にガリオンは顎髭を扱いた。

「当然、使うなら仕来りの枠を越えるだろう。郷都ゴートの反撥は目に見えている。むしろ最初から兵力として動員するかも知れん。バルターの発起した裏付けがトロルなのは間違いない」

 ガリオンは言うものの、何やら自身の言葉に迷っている節があった。

「確かに理屈ではそう思うのだが」

 言葉を継いだガリオンは高殿の現場に居合わせておらず、実際にトロルによる戦闘行為を目の当たりにしていなかった。実感が乏しいのかも知れない。

「あれは本来、単純な生き物だ。力は強いが荷運びや穴掘りがせいぜいの使役でしかない。思い通りに動かすには複雑な『命じ書き』が要るはずだ」

 トロルには予め単純な動作を組み合わせた行動指示を用意する必要があるのだという。ガリオンによれば耳の動きを模した羽根を使って事前に憶え込ませるらしい。本来なら複雑な動きやその場の対応は不可能だ。

〈原始的なプログラム制御ですね、そんなものがあること自体が驚きですが〉

「屋敷で見た対応なら実戦に耐える」

 シンが言うとガリオンは呻いた。

「そうした命じ書きは気が遠くなるほど複雑なのだ、それが信じられん」

 シンが目の当たりにしたトロルのプログラムは本来のものと精度が大きく異なるらしい。

「ノームにやらせてもでも無理ですか」

 ターヴがガリオンに訊ねる。顎先の手を止め、ガリオンは口許を強張らせた。

「無理だな」

「あの白い女か」

 呟いてからシンは少女の名を知らないことに気が付いた。

「あれはノームだ、人ではない。バルターの『算術士』だ」

 平然と話を続けているように見えて、ガリオンはどこかぎこちない。

「トロルもノームも人ではないのか」

 シンにしては意地悪くガリオンに皮肉を投げた。彼らの変異がドワーフに基づいていることは知っている。

 どうにもあの少女に対してシンは感傷的になりがちだ。それはシンにも自覚があった。首飾りで胸が潰れるほど抱えた身体は柔らかく、そんな生身を実感したせいかも知れない。

〈シーンー〉

 アシスタントは毒の鍋がぐつぐつと煮えるような声で名を呼んだ。

「そうだな、俺も話そう。秘密ではないが、本来なら他では口にしない話だ」

 ガリオンが呟いた。シンには無用の前口上だが、口にするにはそれだけの踏ん切りが要るのだろう。察したターヴはガリオンの耳から目を逸らしている。

「俺たちドワーフも本来の寿命は皆と同じで二〇〇歳ほどだが――」

 二〇〇歳?

 一瞬、シンの頭が真っ白になった。言い訳のようにアシスタントが口を挟んだ。

〈シン、生体サンプルの微細解析はまだ結果が出ていません。改竄種ジノミットであれば改変の痕跡を抑えられますし、記憶が付加された可能性も零ではありません。結論はまだ――〉

「普通は一〇〇歳で死の先を選択する」

 選択的寿命だろうか。シンはぼんやりと考えた。人類版図ガラクティクスの一部にも寿命を規定した社会は存在する。汎銀河ネットワークストリームに人格を移し、物理世界と縁を切る有料サービスさえあった。

「トロルとして力仕事に従事するか、ノームとなって計算尺の如く尽くすか、あるいはそのまま壊れて死ぬかだ。いずれ意思や記憶はすべて失う。それが俺たちの寿命だ」

 シンとアシスタントは揃って混乱していた。情報の整理が追い付かない。

「郷の薬師が祭事に天露を配る。そいつで『転生』するのだ。いい歳をして人のまま生きるのは恥だ、少なくとも郷ではそう教えられる」

 ガリオンはにっと口許で笑って見せる。

「俺はまあ、その恥さらしだ」

「その顔で一〇〇歳か、若く見えるな」

 シンは混乱して自分でもよく分からない相槌を打った。どう反応したものか困っているガリオンに目を遣り、ターヴさえもが微笑んだ。

 だがガリオンの外見が地球原種アースリングの三〇代にしか見えないのも確かだ。

 人為的な人口の剪定か、種としての役割だろうか。トロルもノームもドワーフを素体に作られた使役生物だとして――人格の喪失を死と割り切るにせよ――その後の扱いは人類版図ガラクティクスにも例がない。

 いや、はるか太古のブードゥー教に似たものがあったような気もする。

 どこか肩の力が抜けたガリオンは、シンに向かって本題を告げた。

「あのノームはな、俺の姪だ」

 呆気に取られた沈黙のあとで、シンは辛うじて呟いた。

「そうか、似てないな」

 他に何と言えばよいのか分からない。こうした気まずい無言の隙間を耳の動きが埋めているのだとしたら、シンにはどうしようもない。

「俺の郷では稀に年端の行かぬ者が天露を与えられることがあってな、『巫女造り』という優秀なノームを造る禁じ手だ」

「それが、あの?」

 言葉としてそれを聞くのはターヴも初めてだったようだ。

「算術士としては群を抜く性能だが、そうそう人前には出せない。異形を使うような貴人は品位が落ちるからな」

「ノームは取り引きされるのか?」

「当然だ、ノームもトロルも人ではない。売り買いは自由だ」

 彼らの倫理に口を挟むまいとシンは口を噤んだ。少なくともアシスタントのような擬似人格を売買する人類版図ガラクティクスに彼らを責める道理がない。外から非難するのはあまりに不遜だ。

〈シン〉

「最初はバルターが品位を気にしないからだと思ったが、理由は逆だった。禁じ手を知ってバルターが強引に買い取ったらしい。もともと俺がバルターに近づいたのは、その真意が知りたかったからだ」

 とはいえバルターが優秀な算術士を欲しがったのは、件のトロルのプログラムのためではないのか。だがガリオンは否定した。

「例え優れた算術士だとしても、トロルに戦ができるような命じ書きを作るのは難しいだろう、何かよほど画期的な書き方でも見つけない限りは」

「たとえそれがノームであれ、能力だけで買い取ったのではないのでしょう。バルターは言わば良識に反した者を集めていたんです」

 ターヴは耳先を振って見せた。

「我々のようにね」


 陽はもう落ちようとしていた。

 ニアベルたちのいない静かな夜が今日も続くかと思いきや、シンは思いのほか整理を要する情報に頭を悩ませていた。

 思うにシンの出会った者は悉く例外だった。バルターが意図的に郷里の因習に外れた者を徴用していたからだ。それは傭兵ではなく、いうなれば革命の同志だ。少なくともバルターの理解者になり得る者を募った結果だろう。

「裁定の形式に倣う以上、三種族の寄り合う郷都ゴートに仕来りを破ろうとする者がいれば、互いに足を引っ張り合うでしょう」

 種族の生と死を一手に管理し、里から富を集める郷の元締めは、同時に自ら振り解けないほどこの世界の因習に強く縛られている。

「すでに高殿を襲った者には負い目がある。誘拐が成功していればともかく、こうなってはバルターの弱味を明かすことさえ自身の首を絞めるだろうな」

「それでも裁定は郷都ゴートに有利でしょう、闘議でも勝ち目がないとすれば、やはり?」

 ターヴはガリオンに向かって問い掛けた。代闘士が首長議論を重視した編成である以上、実戦に向いているのはニアベルだけだ。バルターも端からそれは計算しているに違いない。

「バルターがトロルを見せたのは、郷都ゴートが従い辛いよう仕向けたのではないかと思う。恐怖を植え付けられた側は収まるまい」

 あれはバルターの挑発とガリオンは読んでいる。仕来りを重んじる郷都ゴートが自ら道を踏み外すのを狙っているのだと。相手が先に建前を失えば実力行使にも正当性が生まれる。

「なるほど、荒れそうだな」

 シンは呟いた。例えゲートの組成式が間違っていたとしても、もっと波風のない惑星に繋がっていて欲しかった。

「だがバルターの計画になかったものがひとつある。それが問題だ」

 そら来たとばかりにシンは顔を顰めた。

「そもそも裁定が神事を倣ったものです。本物の審神者が現れてはどうしようもない。高殿の一件でシンの存在はバルターに知られたでしょうからね」

 ターヴが追い打ちを掛ける。大人げなく飛び出したばっかりに、墓穴を掘ったのはシン自身だ。それについては責める相手がいない。

 そもそも彼らに植え付けられた伝承によれば、審神者は不思議な珠を使って預言を行う耳のない異人の制定者であるという。

 耳がない、それがあまりに見え透いていた。厚顔無恥な人類版図ガラクティクスのプロデューサーが神を気取るための茶番だ。

 とはいえ、バルターがシンを審神者として利用するかも知れないという二人の懸念も理解はできた。だが一方で逆の考え方もある。バルターに相対する審神者がいれば、その思惑を挫くことも可能だ。

 いかに逃げ切るか、ここからが正念場だ。シンは身構えて二人の言葉を待った。

「シン、あんたが例え本物の審神者であったとしてもバルターに、ましてや郷都ゴートにも協力しないではくれないか」

 驚いた。ガリオンの言葉に拍子抜けして、シンはぽかんと二人を見つめた。

「本音は違うと思っているのでしょう? そうですね、確かにシンが今の私の耳を読み解けたなら、その通りです」

 ターヴはあえて頬で笑って見せた。

「正直、バルターの策で郷里が互いに引き所をなくすのは問題です。経験したことのない争いも起きるでしょう。ただ方法はどうあれ、これは一度は吐き出さねばならない我々の闇です。その機会をなくすことはできません」

 ターヴの言葉を継いでガリオンは言った。

「それを審神者の口を借りて言うのは間違いだと思うのだ。バルターも含めてこの世界は我々がどうにかするしかない」

〈正直に言って〉

 アシスタントは呆れたような溜息を吐いた。

〈彼らは馬鹿なのでは?〉

 シンも同じ意見だった。むしろ馬鹿正直と言うべきか。

「いや、こうして格好を付けてはいるがな、実はシンが寝ている間に姫さまに責められたのだ。もしもシンを巻き込む気なら、俺たちもバルターも全て敵に回すと言い切られてな」

 ガリオンはそう言って破顔した。どうやらシンは何もかも見縊っていたようだ。

「それでいいのか?」

 ようやく気を落ち着けたシンがそう訊ねると、二人は耳を振った。

「構わない」

 シンは大きく息を吐いて胸に蟠るものを追い出そうとした。

 世界の何処にも居場所がなく自分を隠して逃げ出したのがシンなら、そんな世界を壊してでも変えようとしているのがバルターなのだろう。立派だとは思うが億劫が先に立つシンには無理な話だ。決して相容れることはない。

「そうか、ならその方が有難い」

 そう呟くもシンは迷った。ガリオンの言う通り余所者が口を出す問題ではない。シンも係わるのは御免だ。ミドルアースは自分の世界ではない。だがその意味では、もとも何処の世界にもシンの居場所はなかった。

 シンがずっと閉じ籠っているのは、誰も立ち入らない偏狭な箱庭のような世界だ。誰の手も借りないかわりに誰の手を煩わせることもない。外の世界に係わるのは面倒だ。影響を与えるのも、責任を負うのも鬱陶しかった。

 それでも。せめて正直に応えねばとシンは自分の中で足掻いた。間違えていても、呆れられても、言わなければならないような気がした。

〈ちゃんと伝えます、シン〉

「その、どれだけの時間を掛けて、そんな社会ができたのかは知らない。きっとトロルの圧倒的な力でも、一夜で変わるはずがない」

 シンはゆっくりと言って息を継いだ。

「バルターが我が子のために急ぐのも分かる。だが、あんたたちの寿命は長いらしい。世界の変わり方も、きっとそうなんだろう」

 口にするうち耐えられなくなって、シンは言葉を切って頭を掻いた。

「つまりその、あれだ。世界が変わるまでの長い間、そこからはみ出した者を守ってやるのが、あんたらのやるべきことだと、俺は思う」

 シンは常々考えている。後から悔やむから後悔なのであって、そもそも後悔しないよう行動するなど因果が破綻しているではないか。

 ガリオンとターヴは目を見開いてシンを見つめていた。シンはただ、今すぐこの場から走って逃げ出したかった。

「シン」

 ターヴは名を呼び、微笑んだ。胸に手を当て深く頭を下げる。ガリオンもそれに倣ったが、シンには何の仕草かよく分からなかった。

 例えこのさき羞恥に眠れない夜があったとしても、今のこの後悔はきっと他よりましなやり方だったに違いない。

 シンはそう思いたかった。


 喧噪が宿に近づいて来る。人の声、荷車の音、聞き覚えのあるゴブリンたちの声がする。ついには衛兵と口論になり、周りの人垣も加わって大騒ぎになった。

「シン」

 呼ぶ声にアシスタントが舌打ちした。いつもなら耳を澄ませても聞こえない足音が、太鼓のように廊下を打って走って来る。

 ニアベルは部屋に飛び込むなり、シンの懐に飛び込んだ。

「逸れを仕留めたぞシン、肉だ」

 胸に突っ込まれて咽るシンに構わず、ニアベルは犬歯を剥き出して笑う。

「え、本当に狩って来たんですか?」

 ターヴが思わず呟いた。

「間違えて本物の主さまを狩って来たんじゃないだろうな?」

 ニアベルはガリオンとターヴを睨んだ。

「おまえら、オレたちが鎮守の区別もつかんと思っているのか」

「いや、滅相もない」

 ガリオンがたじろぐ。不意にターヴが身を乗り出した。

「本当に逸れだとしたら貴重な蟲が――」

「本物だと言っているだろう、もう里のエルフどもが集まってるぞ」

 ターヴが飛び上がって廊下を駆けて行った。早速外の喧噪に加わっている。

「シンも来るのだ、今から解体するぞ。一番いいところをお前にやる」

 ニアベルは否応なくシンの腕を引いて廊下を引き摺って行く。その後ろを付いて歩きながら、ガリオンはいつものシンの仕草を真似て肩を竦めて見せた。

「そうだガリオン、もし本物の審神者が出て来たらどうする」

 シンは振り返って訊ねた。

「そうだな、その時は委ねるしかない。審神者も含めて我々の世界だからな。ただ本音を言えばそれがシンであればと俺は思う」

 むしろ本物の審神者がいたのなら、それこそが人類版図ガラクティクスの直接の手掛かりになるだろう。シンとしても現れて欲しいところだ。

 ニアベルに腕を引かれて歩きながらぼんやり明り取りを見上げると、空はすでに濃い青紫色をしていた。ゲートを潜った当時はまだ見えなかった月も、今では何気に太くなっている。

〈シン――〉

 アシスタントが悲鳴のような声を上げ、喉を詰まらせるように口籠った。このところ疑似人格の情緒演出がますます人間くさくなっているようだ。

〈月に西暦時代の破壊痕がありません〉

 思わずニアベルの手を引き返して立ち止まり、シンは呆然と月を見上げた。

〈この惑星は地球です。ですが、ここは人類版図私たちの地球ではありません〉

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