第九章 エルフの救出
#アシスタントD3342PA備忘録
探査プローブのことを思い出せたのはシンにとっても僥倖でした。
ただ帰巣経路が固定されているため、比較的近距離でシンの再認証を行わなければなりません。あの草原を端から探して回る必要はありませんが、少なくとも
探査プローブとの接続が叶えば、シンがわざわざ危険を冒さずとも、この惑星の情報は収集できます。
シンにはもはや私以外の何者とも関係持つ必要がありません。いっそすべてを切り捨てて、私たち二人きりで
ですから、シンの情緒が大きく振れるのも無理のないことです。
正直、私もほんの少し浮かれていました。
シンが人嫌いで厭世的なのはその通りですが、これまでの性格形成上、適切な感情発露を習得できなかったのは大きな課題です。
高殿に隠された要人の部屋、境遇、その扱い。使役される巨人に垣間見た人外の本来の立ち位置。ニアベルという偶然に助けられた複雑な心境。それらは浮かれたシンの情緒を惑わせるのに充分でした。
シンは臆病と億劫を旨としていますが、こうした折に自身の内側が現れてしまいます。普段なら回避したはずの行為に及んだのは、そうした状況にあったからです。いちばん驚いたのは誰よりシン自身でしょう。
ええ、もちろん私はそんなシンも知っていました。文字通り一心同体なのですから。
*****
誰もが凍りついていた。御者も馬もそれを取り囲む敵兵さえもが動けなかった。空気が読めないのはトロルだけで、それがさらに最悪の結果を招いた。
建屋の一階に集まる高殿の住人たちは、みな呆然と崖の縁に揺れるコンテナ見つめていた。まるで吐息が当たるだけで転げ落ちるのではと恐れるように息を殺して。
動けたのはシンだけだった。可能性があるのもシンだけだった。だが自身がそう認識する前に、身体は勝手に手摺を越えていた。
*緊急シークエンス、全強化実行
アシスタントにそうプロントを流したとき、隣のカーミラはまだシンの行動に気付かず、崩れた塀に乗り上げた馬車を見つめていた。
〈意識拡張、身体補強、全装備展開〉
アシスタントもシンに皮肉を返す暇がない。
〈拡張限界まで二〇〇〇秒を確保〉
泥濘のように粘る空気をガーメントで抉じ開け、シンは静止した前庭を走り抜けた。
疾走するシンは誰の目にも追えない。風を孕んだフードが背中に引き剥がされ、丸く短い外耳が剥き出しになっていても、それを目にする者はいなかった。
誰かの溜息が届いたのか、馬車は崖向こうにゆっくりと傾いで行く。二頭の馬が暴れて宙を掻き、意図せず落下を早めていた。
シンは御者台とコンテナに硬糸を絡め、背後の建屋に結んで引いた。
だが係留糸を補強する前に車軸が撓み、次の瞬間には折れ飛んだ。
馬車はまだ垣根の残滓に片輪を残していたものの、コンテナの重心はすでに崖の向こうに大きく迫り出していた。
立ち竦む屋敷の衛兵、縺れた二体のトロル、使命も忘れて呆然とする
シンは折れ飛んだ御者台と宙で擦れ違った。悲鳴の形に口を開けたエルフとゴブリン、闇雲に地面を探して空を掻く二頭の馬。荷台に繋がった皮帯を切って、それらを前庭に放り込む。解き放たれたコンテナが落下した。
それを追うシンの足下からも地面が失せた。シンの直下には逆立ちしたコンテナが、その遥か先には樹々の天辺があった。
拡張された意識には間延びした世界だが、重力を無視できる訳でもない。生い茂る緑を割ってコンテナは落ちて行く。シンのガーメントは全身で硬糸を放ち、矢継ぎ早にコンテナと樹々を繋いでいった。
だが細すぎる糸は樹を削り切り飛ばす。コンテナはみるみる割れ砕け、片端から剥がれて飛んでいった。シンは飛び交う破片を他人事のように眺めた。むしろそれらは宙に取り残され、自身が止めどなく過ぎて行くようだ。
糸を手繰って跳ぶシンの身体は自由落下よりも速くコンテナの尻に落ちた。
〈シン、今後の安全のため留意すべき項目が七三件あります〉
アシスタントが呆れた調子を滲ませてぼやいた。ようやく疑似人格インターフェイスを嫌味に割く余裕ができたらしい。
*備忘録に追加
〈一度だって見たことないじゃありませんか〉
落下が止まった訳ではない。今この瞬間にも樹々に打った糸の接着部は次々と千切れ飛んでいる。コンテナはまるで淡い蜘蛛の巣に落ちた大きな木箱だ。糸が一本切れるたび容赦なく段々と宙をずり落ちる。
麓まで降下させるだけの糸はない。このまま繋ぎ止めるのも不可能だ。シンは空を向いたコンテナの後部に立ち、硬糸を突き入れて扉を切り刻んだ。
幹の折れる音、枝の削げる音。雨垂れのようにコンテナを擦る樹々の音に混じって外装が剥がれ飛んでいく。
隙間に指を掛け、扉を剥がして放り出した。投げた板が掠めたのは、木枝に引っ掛かったトロルだろうか。不意にコンテナの中から咽るような古めかしい匂いが噴き上げた。燻した香に辺りが煙る。
〈呼吸安全確保、成分を解析します〉
煙を払って暗がりを覗き込むと、奥底に頽れた人影があった。衣装も肌も髪さえも真っ白な少女だ。頭巾の縁に覗く感情のない目だけが血のように朱い。少女は助けも請わず、ただシンをぼんやりと見上げている。
〈シン、トロルと同じ亜種族です〉
一見はエルフのようだが身体つきはカーミラのように肉感的だ。むしろ
これがあの屋敷の要人だろうか。思案しつつシンはコンテナの底に飛び降りた。御者台の背には大きな木箱が積み上がっている。
「来い、落ちるぞ」
差し出したシンの手を少女の朱い瞳がぼんやりと追った。少女は打ち寄せられた長い木箱の縁に縋ったまま動かない。
残された時間は少ない。シンは少女の腕を掴んだ。少女が唐突に反応し、手を振り解こうと抗った。首に掛けた丸い飾りが跳ね上がる。
抵抗する少女の表情は仮面のように変わらない。シンはようやく少女の頭巾の下にある外耳がピクリとも動かないことに気付いた。
少女は藻掻きながら片手で胸の飾りを握る。シンに掴まれたもう片方の手を足許の木箱に伸ばそうとして身を捩じった。
いっそ麻痺させて運び出すべきか。
「『アルヴィ』」
白い少女が声を上げた。
〈シン、箱に人が入っています〉
アシスタントが囁いた。確かに木箱は棺桶ほどの大きさがある。入っているのは死体ではなさそうだが、どうやら少女はそれと一緒にいたいらしい。
木箱は外から留め具が掛けられていた。まるで吸血鬼の扱いだ。いっそ白木の杭でも用意した方がよかっただろうか。
シンは蓋に指を抉じ入れ、引き揚げた隙間に爪先を蹴り込んだ。留め具を飛ばし、蓋を引き剥がすと、コンテナに充満した香の匂いが強くなった。
木箱に入っていたのは正真正銘のエルフだ。ニアベルより少し歳上だろうか。外見だけで性別の判断はつかないが、少女のようだ。
〈分析途中ですが、睡眠薬の類かと。人為的な低代謝状態にあるようです〉
コンテナが大きく揺れた。シンは眠る少女を木箱から掬い上げて抱えた。
いったん少女の手を放し、腰を抱えようと足場を踏み変える。シンの靴底が宙を踏んだ。断続的にコンテナが滑り落ちて行く。
宙に留まる数瞬にシンは少女を抱え寄せた。
「動くな」
白い少女は反射的にシンにしがみ付いた。間近にシンの顔と耳を覗き込む。耳がないのが珍しいのだろう。そっちこそ、この世界の基準なら無表情のくせに。
刹那、足下が失せた。コンテナが軛を解かれて落下する。外の樹に繋いだ数本の硬糸が辛うじてシンを宙に留めていた。
仰げば無理やり引き剥がした後部の穴が勢い迫る。シンは二人を胸に抱え込んで背を向けた。御しきれない衝撃が来た。
瞬時に痛覚が遮断されなければ、そのまま気を失っていただろう。肩を叩かれたような感覚と一緒に左の二の腕が半分こそげ落ちた。アシスタントが我が身のように悲鳴を上げる。
「放すな」
思考プロンプトを打ち損ね、咄嗟の指示は声に出た。ガーメントから伸びた幾筋もの硬糸が二人の少女をシンに結び付ける。
胸元に白い少女の首飾りが食い込んだ。両手で包めるほどの丸い籠細工だ。互いの胸を押され肺の中の息が追い出される。
眼下の樹々にコンテナが吸い込まれていく。遠く生い茂る緑に撥ねて樹の間に割れ落ちた。硬糸に絡まったコンテナや樹々の残滓が綿毛のように舞っていた。
三人分の重さなら糸はまだ足りる。幾分か麓に寄っていたせいで、滑落しない程度の緩やかな斜面も近くにあった。
麓にどう下りるかは後で考えよう。ともあれ、しばらく宙吊りは御免だ。
糸を振って斜面に寄せると、シンは足下を確かめ樹の幹を背にしゃがみ込んだ。二人の少女を抱えたまま息を吐く。
エルフの少女の睫毛が小刻みに揺れ、夢の続きを見るような目をシンに向けた。まだ朦朧としているようだ。ひと抱えにした白い女は滑落の間もずっと間近でシンの顔を見つめていた。
「シン、シン」
気付けばニアベルの声がした。アシスタントが勢い治療にリソースを割いたせいで意識が半ば朦朧としている。
顔を上げると跳ねるように斜面を横切る姿が見えた。ニアベルはほとんど四つ足で移動していて、驚くほど速かった。
高殿の裏手を廻って来たのか屋敷を潜って来たのかは分からない。実際の経過時間は崖に飛び出してからそう経っていないはずだ。
「どうしてそんなに落ちるのだ」
ひと声余計にそう叫んでニアベルは飛び付くようにシンに身体を寄せた。
「無事か、どこか痛めていないか」
左肩の傷はすでにガーメントが固く覆っている。ただ疲労と血の匂いは隠し切れないだろう。ニアベルはシンの身体を確かめようとして、今頃二人の少女に気付いた。鼻根に皺を寄せ目を吊り上げる。
「何だこいつは、『ヌフシュ』が何でこんなところにいる」
白い少女はニアベルに朱い目を向け、顔を伏せるようにシンの胸に顔を埋めた。それが挑発的に映ったのか、ニアベルはいきりたった。
「くっつくな離れろ『ヌフシュ』のくせに」
みゃあみゃあと声を上げニアベルが掴み掛かる。少女を引き剥がそうとするものの、硬糸の自壊はもう少し先だ。簡単には外れない。
がくがくと身体が揺れるたびシンの意識は飛びそうになった。傷口に固着したガーメントで外見からはよく分からないが、思いのほか失血が多かったようだ。
「やめろ」
辛うじてニアベルに言いつつ、アシスタントの起動した神経負荷ブリットを抑え込んだ。
「上はどうなっている」
「そんなものは知らん」
「まだ混乱していますが、撤退の動きです」
追い付いたカーミラがそう言って、シンからニアベルを引き剥がした。
「ぬー」
「姫さま落ち着いて。シンさま、怪我を?」
神経の負荷は抑えても出血を回収するには至らなかった。当座の再利用だけでは損失分は賄えない。今も傷口の修復にカエアンとヌーサイトがリソースのほとんどを割いている。
二人を束ねた糸が融けた。
「おっと」
後から追い付いたルトが飛びついて二人を拾い上げる。追い掛けるルトに気付いていたのか、それとも無慈悲な優先順位か、ニアベルとカーミラは滑り落ちる二人の少女に微動だにしなかった。
ルトも白い少女を見て鼻根に小皺を寄せた。
「うえ、『ヌフシュ』だ」
カーミラがトロルに見せたのと同じ反応だ。シンは肩を竦めようとして思い止まり、小さな吐息を漏らすに留めた。
「ターヴを連れて屋敷を出られるか? 下でガリオンたちと合流しよう」
「承知しました」
言うなりカーミラの姿が失せた。斜面を渡って跳んで行く。
ニアベルとルトに少女たちを麓に下ろすよう言おうとして、シンの身体は不意に宙に吊り上げられた。ヘスに抱え上げられている。先の仕返しだとばかりに、ヘスはシンに向かって
「投げるなよ」
念のためシンはヘスにそう言った。
「ルト、そいつらを連れて来い」
一瞥もせず命じるなり、ニアベルは飛ぶように斜面を下って行った。
「うへえ」
二人の少女に目を遣ってルトは情けない声で呻く。
「ちょっと待――」
言葉の途中で景色が回った。枝葉が流れて視界が一面の緑になる。先導して樹の幹を跳んで行くニアベル姿が端の方に見えた。大柄のヘスに安定感はあるが、安心感はまるでない。
〈後で蛮人どもの排除を提案します〉
アシスタントへの同意を堪えて、シンは身体の修復と消費資材の充填を優先するように指示を出した。
〈了解です。治療を優先するにあたって身体制御を代行します〉
シンが拒む隙を与えず、アシスタントはこれ幸いと治療に専念すべくシンの意識をぷつりと落とした。
〈ご存じだと思うのですが、私にはあなた守る義務があるのです〉
アシスタントの言い訳を聞き流し、シンは人格抹消コードを視界の隅に配置した。今度勝手に意識を飛ばしたら消去してやる。不貞腐れてそう呟くと、コードのボタンをアクティブにして赤く塗った。
アシスタントが悲鳴を上げた。シンがうっかり触れようものなら自己診断どころか擬似人格そのものが消えてしまう。
〈お願いですから、そんな危ないことはしないでください〉
シンが意識を失って一昼夜。雑事の大半は片付いていたものの、シンはより面倒な思惑に絡め取られていた。
もちろん、もとはといえば後先を考えず飛び出してしまったシンの自業自得だ。少女たちを助ける義理などどこにもなかった。馬車は助からなかっただろうが、
英雄行為を見せ付けただけの間抜けだ。シンは考えるほどに気が滅入った。アシスタントへの仕打ちも八つ当たりだ。それも自分では分かっている。
ただ、意識がはっきりしていれば、自己嫌悪はもっと早くに訪れていただろう。正気に返ってあの場から逃げ出していたはずだ。
結果、シンは
板敷きの広い部屋の真ん中には脚の低い藺草の寝台があって、シンはその上に胡坐をかいて、ずっと不貞腐れていた。
目覚めた後はアシスタントを脅して半覚醒を維持しているが、治癒に多くのリソースを割いたせいでシンはしばらく動けなかった。
本来シンの身体は手荒な運動に特化しておらず、脂肪の備蓄もほとんどない。欠損した血肉やガーメントの装備の代償としてエンドルフィンでも抑えられない空腹と渇きに苛まれている。
建屋の外には警護と称して衛兵が立っており、何より目の前にはニアベルたちがずっと所在なげにうろうろしていた。
どうやらシンの扱いで
中でもニアベルが非常に面倒くさい。いちいちシンに鼻を近付けては、まだあいつらの匂いがすると歯を剥きだして睨む。嫌なら嗅がねばよいものを、勝手に嗅いでは機嫌を悪くする。
挙句はシンに服を脱げと迫るが、治療中はそうもいかない。ガーメントは筋肉の代替としてシンの身体を補完している。
左腕の治療にはもう少し時間が掛かるだろう。ガーメントに蓄えた素材を融通しても物理的に削げた血肉には足りない。
リソースに困窮すると思わぬ機能が低下する。ガーメントなど快適性や防御力が遥かに手薄だ。今なら鉄器の剣先さえ易々と通るだろう。また騒動を起こせばひとたまりもない。
「ニアベル、暇ならここを抜け出して何か狩って来たらどうだ」
鬱陶しさに耐えかねて、シンはニアベルに提案した。半ば戯れのつもりだったが、ゴブリンたちはシンに向かって耳を欹てた。
「肉が欲しいのか?」
ニアベルがシンの顔を覗き込む。まるで何千年も壺の中に閉じ込められ、ようやく望みを得た魔神のような顔をしていた。
「回復には猪肉がいいらしいぞ」
唐突に戸口からガリオンが顔を出した。
「そう言えば、ここから少し南の山に猪の『逸れ』がいるそうですよ?」
隣から言葉を継いだのはターヴだ。以前ルトの言っていた『主さま』のなり損ないかも知れない。鎮守に関する知識は得ていないが、動物を祀っていのだろう。
「よし、シンはここで大人しくしていろ。動いたらまた縛るからな」
頬に赤みが差すほど生気を取り戻し、ニアベルは犬歯を剥き出した。
「姫さま『メティス』さまによく縛られてましたもんね」
呟いたルトを蹴り上げてニアベルは部屋を飛び出した。振り返って戸口のガリオンとターヴに耳を振ると、音もなく廊下を駆け抜けた。端から階下を覗き込み、衛兵の様子を確かめる。
耳先の合図でヨアがヘスを土台に駆け上がり、天井の板を押し上げた。あれよあれよという間にゴブリンたちが天井裏に消える。衛兵との問答を避けたのだろうが、脱出経路は予め想定していたに違いない。
ともあれニアベルたちが勇んで出て行ったお陰でシンは思わぬ平穏を得た。いっそこの時間に思索プロセッサを立ち上げ、万一の作業に取り掛かろうか。
だが、ガリオンとターヴが戸口に立ったままだった。耳が下向き加減だからか、二人はどこか神妙な顔つきに見える。
そういうことか。シンは呻いた。どうやら密談の時間らしい。ガリオンとターヴは例の二人の少女のことを確かめたいのだろう。恐らくエルフの少女がバルターに絡む件の要人だ。
〈この機会に『ヌフシュ』を亜種族として登録します、種族名:ノーム〉
怪我の功名というべきか、シンは事件後に矢面にいなかった。二人の少女の去り際にも立ち会っていない。
カーミラによれば二人は高殿の関係者が人目を避けるように連れて行ったらしい。どうやら御者台にいたエルフが責任者だったようだ。
その際のガリオンとターヴは挨拶程度だ。碌に話しもしなかったという。気にしているのはその素性だけで、当人たちに興味がないのか。
かと思えば、そうでもないらしい。これもカーミラの囁くところ、ターヴはエルフの少女に、ガリオンは白いノームの少女に何やら複雑な思いがあったようだ。
だがシンはそうしたことに興味を持たないようにしていた。踏み込むのが億劫だからだ。
「シン、今後のことについて話したい」
嫌だ。係わりたくない。予想した通りのガリオンの言葉にそう思う。彼らのような不随意の耳があればはっきりと伝えられるのだが、あいにくシンにそんな便利な器官はない。
傍に来た二人はシンの沈黙を同意と捉えた。
〈意思表示についての会話パターンを――〉
*黙れ
「言わずもがな我々は
もう少し分かりやすい語彙はないものかとも思うが、ニュアンスは伝わらなくもない。迂遠な口上だがガリオンらも理由があってバルターのところにいるのだろう。ニアベルも確かに同じようなことを言っていた。
要は対等の契約関係ということだろう。
逆にバルターはどうしてこの三人なのだろう。知りたくもあったがシンは黙っていた。余計な好奇心は迷いの素だ
「思うところあってバルターの所にいますが、今の状況は想像以上にきな臭い。あなたにはそのことを知った上で立場を決めて欲しい」
巻き込まれることが前提だ。ターヴの言葉にシンは溜息を吐いた。生まれてこのかた自分の意思で立場を決められたことなどほとんどない。概ねそんなものは幻なのだ。
「俺はあんたらの言う異人で、必要以上に係わりたくない」
そう答えると、ガリオンは詰め寄った。
「だからこそバルターに利用されかねない」
「利用したいのはあんたらも同じだろう?」
ガリオンとターヴが互いに忙しなく耳を動かし合う。シンは小さく舌打ちした。
「そのでかい耳で俺を扇ぐな、何か伝えたいなら言葉を使え」
つい思ったことが口に出た。二人と同様に自分にも驚いていた。脳裏でアシスタントが歓声を上げている。
ターヴの白い肌はこれ以上ないほど血の気が失せていた。ガリオンは首を絞められたような顔をしている。そんな二人を眺めてシンは困ったように髪を掻き回した。もう少し穏便に話をしようと思い直す。
「俺も浮かれて馬鹿げた人助けをした。お陰で余計に面倒になった。これ以上は御免だ。俺は自分の世界に帰る手掛かりを探したい」
一生分かと思うほどの言葉を訥々と吐き出し、シンは疲労に顔を顰めた。
「ならば、追って我々がその手伝いをするというのではどうだ?」
確かにターヴの申し出は有難い。探査プローブを思い出すまでは。考えたくはないが、探査プローブが見つからなかったときの保険にはなるだろうか。
利益、対価、保障を秤に掛けながら、やはりシンには億劫さが勝った。何が得られたら少しは前向きになれるのだろうと自問さえする。
まずは面倒に巻き込まれない静かな環境。限られたリソースに負荷を掛けない思索に適した場所。それほど平穏な時間があれば、
生成式の演算が短縮できれば、理屈の上ではこの場所でさえ一次的な
ただしそれはどうしても
〈確かに今のシンにはコミュニケーションとコミュニティが必要です〉
アシスタントは真摯に忠告した。
〈ですが、この世界で得る助力は必然ではありません。むしろ私だけで十分です。いざとなれば原住民を排除して痕跡を探せばよい。それだけの話です〉
時々アシスタントは怖いことを言う。だがアシスタントには何においてもシンを守る義務があり、それは心理面も含まれている。シンの思考に基づくアシスタントの意見は、裏を返せばシンが他者をどう見ているのかと同じだ。
「我々ではお役に立てませんか?」
シンが長考しすぎたか、痺れを切らしたターヴが言葉を継いだ。
「気が乗らない」
また正直に答えてしまってから、それでは言葉が足りないと後悔した。さすがに二人の唖然とした顔を見れば耳を窺う必要もない。
「言った通り俺は余所者だ。危ないというなら逃げるだけだ」
あるいはアシスタントの言う通りすべてを排除するか。シンは救世主でも勇者でもなく、債務に追われる研究員でしかない。未知の惑星に独り放り出された、ただの迷子だ。
とはいえ、いまさら魔王になったところで何の違いがあるだろう。
〈私をお忘れですか?〉
「シン、あなたは我々の」
交互の声が鬱陶しく、シンが黙れと声を上げようとしたとき、ガリオンが口を挟んだ。
「いや、俺たちが交渉を間違えた」
ガリオンはターヴを押し留め、まるで自身の耳が示す感情に追い付こうとするかのように早足に言葉を紡いだ。
「耳が汚れるからと我々の慣習で言葉を濁したのが誤りだった。シン、全部話そう、災いも忌事も全部言葉で伝えよう」
「ガリオン」
唖然とターヴは連れの名を呼び、沈黙した。ガリオンは不随意の耳を抑えようと力んでいる。もちろん、ほとんど無意味だった。その顔はむしろ滑稽で、平時であれば吹き出していたかも知れない。
「シン、どうか協力して欲しい」
だがそれは、確かに彼らがシンに告げるべき最初の言葉だった。
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