第八章 エルフの探索

#アシスタントD3342PA備忘録

 実際のところ、シンは帰還を焦る必要がありませんでした。汎銀河ネットワークストリームが断線している以上、督促も催促も届くはずがなかったからです。

 日常の不便とディスコミュニケーションには直面していますが、それも大きな問題ではありません。もちろん、私がいるからです。

 多少便利で文化的な生活がシンの帰還を促す動機になり得るでしょうか。私がいるのに?(フン、と鼻息)

 プロジェクトの期限はフースークがいつ愛想を尽かすかに懸かっていますが、それは想像しても仕方のないことです。シンがいなければゲートはどうにもならないんですから。

 そもそもシンと私は望まずとも勝手にやって来る面倒で手が一杯でした。謎は追わねば答えが出ないのに、トラブルの頭上にはいつも残り少ないカウンターが点滅しています。しかも大きな音を立てながら、どんどん減っていくのです。

 世界の謎と私との対話に勤しむべきシンの目の前には、俗世界の課題が山積みでした。どうでもいい政治的な軋轢を背景に直接的な暴力が生じており、シンは常に無視、傍観、介入のいずれかを迫られていました。

 もちろん今後のメリットを考えるなら介入すべきでしょう。都市最大の有力者に恩を売ることになり、シンの活動も有利に進むはずです。

 ただし、そうなれば関係も深まってしまいます。行動も制限されるでしょう。何よりこうした柵は、シンに取ってもっとも忌避すべきものでした。私としてはできるだけ労せず利益を得る行為をお薦めしたい。そう考えるのも無理からぬことだと思いませんか?

 そう、結果の問題ではないのです。


 *****


 あとは頑張れ、で済ませようと思っていた。少なくともシンはそのつもりだった。

 アシスタントの解析によれば、三〇〇ほどの兵がバルターの高殿を襲撃しようとしていた。シンはそれをガリオンに教えることで、彼らとの係わりを最小限に、しかるべき恩恵だけを得たかった。

 騒乱が間近に迫った状況だ。バルターの配下にある境里サークなら襲撃に対応する兵力くらいはあるだろう。シンはそう高を括っていた。楽観しすぎていたのだ。

「この里だけでは如何ともし難いな」

 ガリオンはシンに向かって遠慮がちにそう言った。バルターの拠点である王里オードはともかく、境里サークには駐留する兵士がほとんどいない。

 そもそも里には軍隊がいない。官兵と民兵の区分も曖昧で、大抵の案件は民間の自警でことが足りているらしい。

 もちろん豪商や有力者は私兵を抱えている。バルターの高殿にも警備はいるらしい。とはいえ三〇〇の兵に拮抗できる人員はいない。襲撃されれば落ちるのは時間の問題だ。

 それでよく争いなど起こしたものだ。シンは呆れて言葉も出なかった。出会い頭にニアベルとウルスラの短気な争いを目の当たりにして以来、組織としてももっと戦慣れしているものだと思っていた。

 予想した以上に彼らには野蛮さが足りない。精神的に成熟しているとも――ニアベルを見る限りは思えなかった。余程の牧歌的社会、あるいは逆に強固な制度か慣習に縛られているに違いない。いずれにせよ、何かがそれを強要している。

 そもそもシンは代闘士による政争の決着など信じていなかった。その前後に必ず軍事的な衝突があるだろうと考えていた。市民の犠牲云々以前に、無血で負けを呑む為政者がいるとも思えなかったからだ。

〈確かに社会の成熟度合いに因りますが〉

 そう呟くアシスタントだが、概ねシンには同意している。それが人類版図ガラクティクスにおける地球原種アースリングの歴史的性質だからだ。その近縁である彼らも同じに違いない。

 とはいえ、シンに襲撃を告げたアシスタントはこの状況に「私はただ現状をお伝えしただけですから」などと、しれっと居直っている。

 三〇〇程度の兵士なら、確かに手持ちのリソースで対処は可能だ。生死を問わねば神経毒の散布でこと足りる。

 シンが怖気付いたのは、殺戮よりも後の係わり方だ。実力を示せば否応なく政争に組み込まれる。ともすれば英雄に祭り上げられかねない。あるいは殺戮者のどちらかだが。いずれにせよ寒気がするほど面倒だ。

 ところがニアベルたちにとってのシンの立ち位置はそれをとうに超えていた。シンは自身も知らぬ間に、彼らの指揮官になっていたのだ。

 ゴブリンたちは嬉々として、三〇〇の兵士が迫るを屋敷の麓にシンを引き摺って行った。


 ニアベルが足場に選んだのは造りの粗い農具入れだった。幸い畑の人影は遠く、辺りには誰もいない。斜面を上まで見通せる訳ではないが、平坦な道の移動を考えなければ屋敷までは最短距離だ。

 高殿に続く本道はつづら折りの坂道で、山の手の街外れから延々と崖を折り返している。切り立つ山林を縫うような一本道で、その終端に門があった。高殿のためだけに敷かれた整備路だ。荷車が通れるほどに整地されている。

「坂の上で兵隊が張ってる」

 小屋に駆け込んで来たヨアが皆に告げた。先行して周辺を探った結果、すでに郷都ゴートの兵士は退路を封鎖し始めていた。

「この上にも何人かいるみたいっス」

「まだ屋敷は気付いていないようですねえ」

 皆の意見を聞きながら、ニアベルは無意識に爪を出し入れしている。

「この分だと襲撃は夜まで待たないかも知れないな、どうする?」

 シンを見上げてニアベルが問う。聞くなとシンは無言で呻いた。あのまま眺める選択肢はなかったものかと今さら自問の真っ最中だ。

〈シン、中腹に下降する個体を感知しました〉

 顕在知覚域から零れた情報を拾ってアシスタントがシンに告げる。

〈生化学由来の嗅覚迷彩を装備しているように思えます〉

 ゴブリンどもには分からないでしょうが、とアシスタントは自慢げなニュアンスを付け加えた。ゴブリンの知覚は人より遥かに優秀だが、遠距離や風上ではアシスタントの総合的な解析力が優っている。

〈当然です。そもそもデルフィシリーズは――〉

 シンは延々と優位点を語るアシスタントを放置してニアベルに声を掛けた。

「誰か下りて来る、敵か?」

 シンの指す方に顔を向け、ニアベルは鼻根に小皺を寄せた。

「嗅ぎ難いな」

 シンを振り返って耳を立てる。

「だが居ると分かれば簡単だ」

 得意気に目を細め、止める間もなく飛び出して行った。ニアベルの合図があったのか、気づけばルトも消えている。木立を分ける音さえしない。

 しばらくして、まだ姿の見えない頃合いにカーミラがシンに囁いた。

「ターヴさまのようです」

 ニアベルたちと接触して嗅覚迷彩と思しきものを解いたのだろう。確かそうした生化学分野は『エフィル』の専門だ。

 ほどなくニアベルが駆け戻り、シンの傍に滑り込んだ。鼻面をつんと突き出して目を細める。褒めろと強要する顔だ。シンがおざなりにニアベルの髪を掻き回しているうち、人を背負ったルトが小屋に走り込んで来た。

「勘弁してください。舌を噛みそうだ」

 声の主はぼやきながらルトの背を滑り降りた。これが恐らくターヴだろう。辺りを見渡しガリオンに気付き、次いでシンに目を留めた。

〈改めて固有名:ターヴを登録します。種族名:エルフを確認。これで主要三種族を汎用語彙として置き換えました。現状までの対話によれば、さらに未確認の亜種族として――〉

 アシスタントは満足気に滔々と語っている。

 ようやく間近に見たエルフの骨格は想像通り地球原種アースリングにほど近いようだ。この世界の住人らしく外耳は大きく突き出ているが、他に比べて細く尖っている。

 バリエーションは不明だが、ターヴの肌は白く髪は黒かった。体格と輪郭の硬さで男と見たが、性別はどちらでも通用しそうな曖昧さが感じられる。

「勝手に行くなと言いたかったところだが、一足遅かった」

 ガリオンがターヴに声を掛けた。その忙しない耳の意味は分からないが、目線を辿れば誰について話しているのか察しは付いた。

 ターヴが改めてシンに名を告げる。

「ターヴです、よろしく」

 ガリオンやニアベルに比べてもターヴは顔の表情が少ない。それがエルフの特徴かターヴの個性なのかはまだよく分からなかった。

 ただ、耳はしきりに動いており、絶えず何らかの情動を表している。彼らの内では無表情という訳でもないのだろう。

「おまえら、シンはオレが拾ったんだぞ。勝手なことを決め付けるな」

 言い分は半分だけ正しいが、話をややこしくするだけだ。シンはニアベルの頭を掴んで引き戻した。ターヴがシンとニアベルを見比べる。

「よく分かりませんが気の毒に」

 表情のない顔でそう言った。

「何でだよ」

 暴れるニアベルをいなしてターヴが樹々の向こうの高殿を眺め遣る。

「屋敷の下で警備と鉢合わせしそうになりまして、身を隠して覗きに行ったのは幸いでした」

「命拾いしたな、あれは郷都ゴートの兵だ」

 ニアベルが憮然として言うと、さすがのターヴも目を剥いた。

「どうやらバルターの弱みを嗅ぎ付けたようだ。まさかここまで強引な手を使うとは思っていなかった」

 ガリオンは肩を竦めるような調子の言葉を付け加えた。

「まさか、攫いに?」

「正面切っての襲撃はまだのようだが、時間の問題だ。さてどうやって上に知らせたものか」

 ガリオンはそう言って顎先の短い髭を扱く。里のドワーフに見掛けた顎髭は胸に垂れるほど長かったが、ガリオンはその癖のせいで髭が短いのかも知れない。

「一発打ち込んでやればいい、双方おっぱじめるぞ」

「それは悪手だ、屋敷の警護はそう多くありません」

 ニアベルの乱暴な意見にターヴは慌てた。

「あれは療養所ですからね」

 似たような雰囲気だとは思ったが、やはりその類の施設だったようだ。

「そんなのは知らん、どうせ屋敷に聡い者がいればすぐに包囲に気付く」

 ニアベルはにべもない。

郷都ゴートが欲しいのは一人だけです、それさえ逃がすことができれば、あとは降伏しても無為に殺しはしないでしょう」

「街まで逃げ込めば事を構えることはないだろうが、どうする」

 ガリオンとターヴは策を論じようとするが、なかなか実際の行動に辿り着かない。今すべきことを話せとニアベルはもどかしそうな声を上げた。

「どうせ逃げ道はここしかないのだ、オレらが行って攫って来ればいい」

「この人数でやるのか?」

 シンはつい口を挟んだ。

「忍び込んで担いで帰るだけだぞ?」

 そんなの朝飯前だとニアベルが上目遣いにシンを見上げる。

〈弛緩剤を生成しましょう、双方を無力化すれば問題ありません〉

 現場が療養所であるという条件を無視してアシスタントが囁いた。どいつもこいつも乱暴だ。ニアベルとアシスタントの発言にシンは頭を抱えた。知らずすっかり巻き込まれている。

「待てニアベル、シンは異人だ。無闇に関わらせる訳にはいかん」

 シンにも分かるようガリオンは口でそう告げ、一歩引いて皆に耳先を忙しなく動かして見せた。シンの視界からは外したつもりなのだろう。もちろんシンが覗いたところで意味が分かる訳でもない。

 ただ、目の前で密談をされるのはあまり気分の良いものではなかった。

「そうだが、ガリオン、そうなのだが」

 ニアベルは地団太を踏んでガリオンとターヴを睨んだ。

「オレはシンの面倒を見ると約束した。シンが良しと言わねば何処にも行かないぞ」

 偉そうに胸を張るニアベルにシンは呻いた。ニアベルの庇護は裏目にしかならない。悪気がないのがなお酷かった。

 決断の理由がシンである以上、否応なしに事態に巻き込まれている。シンはニアベルの小生意気な鼻を掴んで引っ張り回したいのを辛うじて堪えた。

 案の定、ガリオンとターヴの目線はシンに向けられていた。

〈シン、上にいるゴブリンか目の前のゴブリンか、どちらを先に殲滅しますか?〉

「屋敷の裏手にも衛兵がいるぞ」

 シンは呻くようにニアベルに言った。

「先にそいつらを片付けてから忍び込む」

「何人いるか分からないぞ」

「こんな崖で徒党を組むのは無理だ、一対一ならオレが負ける訳がない」

 勘弁してくれ。シンは心の中でアシスタントが耳を塞ぐほどの悪態を吐いた。

「いいよ、分かった、了解した」

 シンはむしろ自身に向かってそう言った。

「だったら約束しろ。おまえたちは傷ひとつ負うな。会ったこともない王なんかよりおまえたちの方が大事だ。駄目だと思ったら諦めて撤退するんだ、分かったか」

〈シン〉

 怪我でもしようものなら寝覚めが悪い。シンはそう思ったに過ぎないが、アシスタントにはシンの言葉の選び方が熱すぎたようだ。

「お、おう」

 ニアベルやゴブリンたちも呆気に取られたように目を丸くした。

 シンにとってゴブリンたちは替えがない。ここまで来て伝手と情報源を手放すことになったら悔み切れないだろう。また一から他人と関係を築くなど考えただけでもぞっとする。

 ふと見ると、ガリオンやターヴの耳先は横に張ったまま動かなかった。それがどういう感情かは不明だが、彼らにしてみればシンの都合より高殿の要人の方が重要なはずだ。呆れていたとしても不思議ではなだろう。

「ほら、さっさと始めよう」

 自分都合で悪いかと、シンは腹立ちまぎれにニアベルたちを急かした。


 皆に崖に廻り込んだ衛兵の配置を伝えると、ニアベルとルトは競うように跳んで行った。アシスタントは情報を渋ったが、解析精度についてはシンにアピールを忘れなかった。

 現状で敵兵を完全に排除する必要ない。経路が確保できればそれでよかった。シンとしては二人が調子に乗って隠密行動を忘れないよう願うしかない。

 一方でヨアとガリオンは陽動の荷車を手配するため街に戻った。道を塞いだ衛兵は街からの横槍を警戒しているはずだ。高殿への道は山上から見通しがよく、つづら折りの坂道に荷車を並べれば少しは兵を分けられるだろう。

 カーミラとヘスは樹の根を渡り、頭上の屋敷を真っ直ぐに目指している。シンとターヴはそれを追っていた。

 ゴブリンは速い。重量級のヘスさえ相当だ。二人は四つ足が本来の姿だとばかりに斜面を駆け登って行く。

 高殿の裏手は里の方に面しており、建屋の一部は斜面に張り出していた。石垣の土台に塀が立ち、返しの小屋根が巡っている。裏手に面した出入り口はなく、直下は一面に高木が根を張っていた。当然の如く道はない。

 ガーメント任せのシンはゴブリンと変わらず高殿の裏手に辿り着いたが、ターヴはカーミラが辺りを警戒しながら道行を補助している。

 シンは石垣の前に佇んで、頸が空を向くほどの塀をぼんやりと見上げた。真上にあるのは屋敷の二階に張り出した露台の底だ。

 ドローンのひとつもあれば。そう嘆息する。シンはふと頭を殴られたような衝撃を覚えた。唐突に探査プローブの存在を思い出したのだ。

 シンがゲートを潜る寸前まで、あれは確かに足許にあった。シンと一緒にあの草原のどこかに落ちた可能性は高い。にわかに胸がざわついた。

 探査プローブは頑健で高性能、ある意味シン自身より遥かに高価な代物だ。あれが一機あれば調査範囲は一気に拡がる。こうした生臭い面倒に係わる必要もなくなるはずだった。

 マスターコードを発信すれば、いつでも探査プローブの方からシンを見つけられるだろう。とはいえ、さすがに宵限ヨイキリまではコードのピンも届かない。

 今からとって返そうか。シンは頭に血が上るほど気が急いた。

「シンさま?」

 不意にそわそわし始めたシンを見て、カーミラが怪訝そうに声を掛けできた。振り返れば皆が集まっている。ヘスは鉤縄と大弓を用意しているところだ。

 シンはいつになく高揚していた。こんな面倒はさっさと終わらせ、どこか静かな所に隠遁しよう。探査プローブにこの世界の調査を任せれば自ら動く必要はない。

「ヘス」

 シンはヘスを呼び寄せ、唐突に腰帯を掴んだ。シンの意図がアシスタントを飛び越え、カエアンがガーメントを強化する。

〈シン?〉

 ヘスの巨躯に身を屈めると、無造作に真上に放り投げた。まん丸く見開いたヘスの目が遥か露台の上まで遠ざかる。ヘスは溺れるようにもがいて露台の縁にしがみ付いた。

 さすがゴブリンだ。一回投げただけでちゃんと届いた。

 次いでターヴに目を遣ると、シンを見て竦み上がった。耳を伏せて後退る。詰め寄ろうとした目の前に綱が降って来た。見上げれば綱の端を握ったヘスが露台から身を乗り出している。

「シン」

 ニアベルとルトが駆けて来た。ニアベルは耳先を真っ赤にしてシンに飛び付くと、露台のヘスを指して声を上げた。

「飛んだ、飛んだぞ。シン、オレにもあれをやるのだ、早く、早く」

 キラキラとした目で訴える。

 その鼻息にシンはようやく我に返った。浮かれた自身の醜態に気付き、思わず掌で顔を覆って呻いた。


 綱を渡した露台に登ると、不意にきな臭い風が吹き付けた。閉じた窓の向こうは見渡せないが、物々しい音がする。明らかに建屋の向こうで何かが始まっていた。

「少し遅かったかもしれませんね」

 ヘスに引き上げられたターヴが囁く。だとしても今起きたかりだ。

「始まったか」

 シンに放り投げて貰えず不機嫌だったニアベルが不意に覇気を取り戻した。

 ヘスが眼前の戸板を剥ぎ取り、露台の窓を開け放った。続く室内は無人だったが、屋敷に籠る音は格段に大きくなった。響く喧噪は木を打つ音と悲鳴混じりの声だ。だがまだ遠い。それらは恐らく屋敷の前庭だ。

 シンはニアベルとヘスに退路の確保、カーミラとルトに対象の確保、ターヴに交渉役を振った。不服そうなニアベルが口を開く前に、おまえがいちばん速くて強く、ヘスは矢が上手いからだと適当に言い聞かせた。

 合戦に興奮したニアベルが勝手に暴れては困るというのが正直なところだ。

「さっさと話をつけて来てくれ」

 シンはターヴたちを屋敷の中に促した。

〈シン、建物前面に大型対人兵器が展開しているようです〉

 アシスタントが囁いた。その大仰な表現は何だと思いつつ、付近の会話を漉し取って情報を拾い出させる。

 シンは語彙をひとつ拾って、鼻息荒く綱を下りようとするニアベルを振り返った。

「ニアベル、『ドゥラル』を知っているか?」

 シンの問いにニアベルがきょとんとする。

「ドワーフの人足のことか? ヘスよりでかくて無口でのろまな奴らだ」

 引き合いに出された当人は無表情のままシンに耳先を振って見せる。

 さっぱり分からない。シンはニアベルに行くよう促して屋敷を振り返った。建屋を挟んだ喧騒は今や耳を弄するほどに膨れ上がっている。

 シンは屋敷に踏み入った。

 屋敷は母家の右手が水屋や別棟、左手に車舎、倉庫の類があるらしい。敷地は山手に広く、門と屋敷の間には車寄せを兼ねた前庭がある。恐らくそこが騒動の中心だ。

 シンは部屋を通り抜けようとして、ふと立ち止まった。

 小さな明り取りだけが頼りの広い部屋だった。窓は閉め切られているが、つい先程まで人がいたようだ。小綺麗に整っているが生活の匂いもする。

 まるでホテルの一室のように、この部屋の中だけで生活が完結しているように思えた。目に付いたのは壁の一面を埋めた書架だ。

 ニアベルも地図などの印刷物は持っていたが、これほど紙と活字が流布しているとは思わなかった。もちろん、こうした物理媒体に情報を定着させる以外、情報を頒布する術がないのも承知している。

 シンは書架に近付いた。並んだ冊子は飾りではないようだ。どれも丁寧に、そして幾度も読まれた形跡があった。

 耳で情動を共有する彼らは、どんなふうに文字で世界を描写するのだろう。

〈シン〉

 アシスタントが注意を促した。混乱と震慄の声が外から流れ込んで来た。我に返ったシンが顔を顰めて廊下に出る。原始的な集団戦はこうも生々しい声が飛び交うのか。たいして勇ましくもない怒号と悲鳴と悪態だ。

 幾つかの扉を潜り、二階の部屋を横切った。場合によっては騒動も覚悟したが、辺りに人の気配はない。どうやら屋敷の者はひと所に集まっているようだ。

 前庭に面した廊下に出て、シンは眼下の光景に目を剥いた。

 三体の巨人が無数のゴブリン兵を蹂躙していた。群がる兵士を玩具のように薙ぎ倒し、枯れ枝のように放り捨てる。それはアシスタントさえ嘆息するほどの、悪夢のような光景だった。

 あれが『ドゥラル』なのだろう。巨人は灰色の人型だ。ニアベルの言った通り体高はヘスの二倍ほど、だがその身体の厚みは巨象ほどの圧がある。

 一方、ニアベルの言葉に反して巨躯から想像するような鈍重さは欠片もなかった。脇を擦り抜けようとするゴブリンを目敏く掴んでは投げ捨てている。反応が早く、行動も柔軟だ。

 硬い皮膚には槍も剣もゴブリンの爪も通らない。痛みも疲れも感じていない。ただ機械のように兵士を撥ね、押し戻して行く。

 見れば巨人の間隙には長槍を構えた屋敷の衛兵が数名おり、攻め入る敵兵が多々良を踏んだところを確実に排除している。

 巨人は素手だが、その身体に見合った得物があれば状況はさらに圧倒的だったに違いない。

 郷都ゴートの兵士はその数にも拘わらず攻めあぐねていた。怪我人ばかりが悪戯に増え、その対応に前線の数は減っていく。

 もはやシンは静観するほかなかった。下手に手を出せばこちらが危ない。

「シンさま」

 カーミラがシンの姿を見付けて駆けて来た。

「まさかあんなものを用意していたなんて」

 喧騒に消されないよう身を寄せて囁く。予想もしなかったのはカーミラも同じ様子だ。無意識に声を抑えている。

「『ドゥラル』は人足と聞いたが?」

 巨人がそうした役職だとしても、目の前の三体は重機というより戦車だ。

「ええ、あれはドワーフの近縁の人足です。大きな治水の際には呼ばれますけれど、ターヴさまもこんな風に動く『ドゥラル』を見たのは初めてだそうです」

 カーミラの口調はどこか抑え気味で、本来なら口にするのが憚られるように思えた。

「ドワーフの近縁?」

 シンが目を遣るとカーミラは怯えたように身を竦めて見せた。

〈骨格的にドワーフの近似種である可能性はあります、人為操作による変異体と推測されます〉

 とはいえ整体改変フォームチェンジでさえ、ここまで派手な極地用改変はそう多くない。

〈自意識も見られませんし、使役動物に相当するのでは?〉

 確かに巨人の長い外耳は萎れた葉の様に垂れ下がったままだ。耳を使って屋敷の衛兵と遣り取りをしている風にも見えない。

〈亜種族として登録します、種族名:トロル〉

 アシスタントの命名宣言を聞いて、シンはようやく自分を取り戻した。

 カーミラはあれを人とは別のものとして割り切っている。むしろ忌んでさえいるようだ。この世界の常識はそういうものなのだろう。耳の動かないシンを最初から人として扱ったニアベルの方が例外なのだ。

〈いずれ郷都ゴートによる襲撃の成功は望めませんね、撤退もしくは遠戦に切り替えるでしょう〉

「誘拐どころじゃないな」

 シンが呟くとカーミラは思い出したように手を打った。

「シンさま、あちらを」

 袖を引くカーミラに視線を促される。敵兵を押しやるトロルに隠れるように、二頭立ての荷馬車がじりじりと進んでいた。

 御者台にはエルフとゴブリン、荷台には大きなコンテナが載っていた。どうやらトロルが兵を押し出す隙に門を抜ける算段のようだ。

「屋敷の者の話だと、あの中に」

 窓のないコンテナは客車に見えず、かといって御者台の二人も件の要人には見えない。カーミラにそれを確認しようとして、シンは要人、病人を例外として馬車に人を乗せる慣習がないことを思い出した。

 病人か。療養所ならばあり得るだろう。とはいえ窓のないコンテナとは。むしろ隠そうとしているようだ。この療養所の要人とは、つまりそういう扱いなのだろう。

 焦りがあったとはいえ、この状況で籠城ではなく脱出を選んだのは悪手だった。却って襲撃者の機会を与えているようなものだ。

 もちろん屋敷側にしてみれば敵の総数も見えない。トロルの優勢が脱出を急いだ要因だとすれば、余計な事をと一方的にも断じ難い。

「逃げられるか?」

「あのトロルが一緒なら大丈夫だとは思うのですが。いずれにせよ、この状況では止めようもありません」

 意表を突いた隠し球のおかげで双方の要人誘拐は失敗だ。

「無駄足だったな」

 思わず呟く。シンはカーミラの艶のある笑みに気付いて目を逸らした。

「バルターさまに恩を売る機会でしたのに」

 知ったことか。

「ニアベルの不利になるなら動いていいぞ」

 不貞腐れたように言い捨てると、カーミラはシンにも情動が分かるよう微笑んで見せた。顔を作るほどカーミラは聡い。

「私たち姫さま従うと決めて郷を出たんです。姫さまが納得されているなら主を戴いたって構いやしません」

 カーミラは澄まして応えると、上目遣いにシンに身を擦り寄せた。

「私は姫さまのお目付役ですし、この際お毒見役も兼ねるのも吝かではありません」

〈よし、殺す〉

 アシスタントが神経負荷ブリットを装填した。シンが双方に呆れて声を掛けようとした刹那、屋敷の階下に喧騒を掻き消すほどの悲鳴が上がった。

 前庭を指した声だ。トロルと馬車は門を越えたばかりだった。すべてのことが立て続けに起こっていた。

 道を塞ぐ敵を排除しようと前に出たトロルの一体が、逃げ惑う兵に足を取られた。その際に、腰の引けた郷都ゴートの兵と剝き出しの馬車が向かい合い、狼狽した御者が操作を誤った。

 馬車を護る、身を躱す、その指示が混線したかのように二体のトロルが縺れてもんどりうち、身体ごと石塀を突き崩した。

 そのどれもが最悪の間だった。

 急な制動に馬が暴れ、荷馬車は尻を振って崩れた塀に乗り上げた。その先には何もない。突き立つ樹々の頂が遥か下まで鋭角の傾斜を描いているだけだ。

 馬車はそのままの格好で、真下の虚空を覗き込んでいた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る