第七章 ドワーフの憂鬱
#アシスタントD3342PA備忘録
絶望的な事態に際して最も有効な手段は、後ろを向いて耳を塞ぐことです。
落としたカップを追い掛けるより、割れたカップを片付けるほうが被害が少ない場合もあるのですから。
これまでのシンの仮説には予断もありましたが、それらは作り物じみたこの世界と住人に惑わされたのが要因です。
もっとも、本来なら落第点です。このままではミドルアースに留年してしまいます。シンと私は今一度、前提条件を立て直す必要がありました。
ひとつ、この惑星は地球である。
これは難しくありません。
ふたつ、ミドルアースの住人は近年入植した
これがシンの仮説を崩した最大の要因です。ゲノム解析によれば、彼らが
ただ、それでは人類史も覆ってしまいます。前者と矛盾が生じるのです。それゆえ反証可能性がありました。彼らの歴史と同様、捏造されたに違いありません。
これに対しては引き続き解析精度を上げて改造痕を探すことが必要です。併せて歴史資料の蒐集を重ねることも、異なるアプローチとして重要でしょう。
これらが明確に真であれば、矛盾は解消されます。もっとも、万が一後者が証明できなかった場合、状況は振り出しに戻ってしまいますが。
それでもシンが真っ先に目を逸らした第三の可能性よりはましでしょう。
即ち
ですので、この時点で私にできるのは、ただ粛々と生体サンプルの解析精度を高めることだけでした。
そしてシンにできることも、ただ後ろを向いて耳を塞ぐことだけだったのです。
*****
「何だか風が煩いな」
宙に鼻面を突き出して、ニアベルは少し不機嫌そうな顔をした。
ニアベルに限って詩的な物言いなどあるはずもなく、単にその鋭敏な知覚に障るものがあったのだろう。
「何でしょう、街が近いからっスかね?」
音か匂いかその両方か、ルトも同じものを感じ取っているようだ。
それを聞いてガリオンはゴブリンたちに耳を振って見せた。念のため警戒を促したのだろう。言葉もなしに段取りが進んでいくのは気楽な反面、シンには微妙な疎外感もあった。
わざわざ言葉を捻り出す必要がないのは羨ましい。とはいえ互いの心情が筒抜けというのも居心地が悪い。
〈私たちも索敵しますか?〉
わざと「私たち」を強調しながらアシスタントがシンに問う。シンは提案を否定した。どうしてそこまで張り合うのか。
何もせず恩恵だけを得られる状況ならば話は別だが。
樹々の隙間を見下ろせば、辺りは一面の田畑だった。細い畦道に沿って粗い格子の小屋が点々と建っている。このまま平地が続くのかと思えば唐突にこんもりした樹々の塊が突き出したりもしていた。
そうこうするうち平地に出た。このまま畑を横切れば湾岸沿いの街道だ。警戒はどうやら杞憂だったようだ。里のゴブリンが狩りをしていただけなのかも知れない。
道々には畜舎も見掛けたが、平地は耕作が主流のようだ。働いているのはやはりゴブリンが多い。それは種族の人口比にも等しいが、職の向き不向きもあるのだという。遠目に畑を眺めるシンにガリオンが説明した。
「鎮守や動植物の管理はゴブリンの得手だ。目に見えない『蟲』の扱いは『エフィル』の専門、治山治水は俺たちドワーフ。里はそうしたものの寄り合いだ。得手不得手は色々だが、おおよその専任職は種族ごとに違う」
「『蟲』?」
鎮守も以前に聞いた言葉だが、正確な意味は不明のままだ。他にかまけて放り出していた。使用頻度で優先順位を付けたが、どうやらそれでは社会基盤の語彙が後回しになるようだ。
「ほら、ゴブリンほど鼻が利かなくても分かるだろう」
ガリオンはそう言って匂いを嗅ぐ仕草をして見せた。辺りにあるのは土と草、乾いた木と炭、そして恐らく発酵物の匂いだ。
〈蟲は菌類を指すようですね。まあ食の幅が増えるのは好ましいことです〉
アシスタントは呑気に評したが、ガリオンによれば『エフィル』の蟲は生化学製品全般に及ぶらしい。単に大規模な工業化を欠いているだけで、案外この世界の科学技術は高水準かも知れない。
しばらく歩いて里の中心に入ると、シンは図らずも規模感を欠いた発展を目の当たりにした。想像していた建屋の集まりや人通りといったものはほとんどない。周辺が何となく混み合い、道が次第に広くなって行く。それだけだ。
〈付近の昼間人口は推定で五〇〇〇人ほどですね〉
シンの知覚と類推から、アシスタントはそう口を挟んだ。
ガリオンによれば
今では交易の中心も北の
一行が向かったのは山の手に近い通りだった。ガリオンはそこで再びひとり道を分かれた。『ターヴ』を呼びに宿に寄るという。ゴブリンたちとは道沿いの茶屋で合流する段取りになった。最近何かと茶ばかり飲んでいる気がする。
もちろん誰彼と話し掛けて来る訳でなく、耳だけが忙しなく動いている。
フードを被ったシンに気付いて、ぎこちなく視線を逸らすのも見えた。居心地は最悪だが、恐らく街なかで耳を隠した者の扱いはこれが当たり前なのだろう。
ニアベルが歯を剥き出して人通りを払った。茶店を見つけるとシンの手を引いて乗り込み、有無を言わさず軒を貸し切りにしてしまった。
〈近世といったところでしょうか、電気電信の類は見当たりませんね〉
通りをぼんやり眺めるシンに、アシスタントは初めて訪れた街をそう評した。
シンが驚いていたのは別の物だった。通りの荷車だ。牛、馬、驢馬を動力として箱状のコンテナを牽いている。ああいうのに乗れば楽だった。恐らくもっと早く着いただろう。今までの山歩きは何だったのだ。
「車があるのに、どうして歩きだったんだ」
思わずニアベルにそう訊ねた。追われる可能性があったとはいえ、これなら街道で馬車を捕まえた方がずっと速くて安全だったのではないだろうか。
「シン、よく聞け」
ニアベルは薄い胸をつんと張り、餌の取れない半端者を見るような目でシンを見上げた。
「歩ける者が馬に乗ったら、足が馬とくっついてしまうのだ」
シンは思わず小生意気な鼻を掴んで引っ張った。ニアベルがあ、あ、あ、と悲鳴を上げて涙目になる。
「はなへ、はなすふのふぁ」
鼻を押さえたままニアベルが抗議する。ふみゃふみゃと鳴くニアベルの声を律儀に翻訳したアシスタントは、鼻で笑うようなニュアンスを付け加えた。
近頃デルフィシリーズの売り込みが減ったかと思えば、アシスタントは妙ところでニアベルと張り合っている。やはりローカルで起動し続けていると人格が補正できないのかも知れない。自己診断タスクも効きが悪かった。
ゴブリンの皆はシンとニアベルを生温かく眺めている。遠慮のない互いの扱いに微妙に慄きながら。こと彼らにとってはニアベルの懐きっぷりが新鮮な様子だ。
カーミラやルトはもちろん、ヨアとヘスさえニアベルがそう扱って貰えるならと相乗りを図るきらいがある。鬱陶しい限りだ。
「それはまあ、その迷信なのですが」
カーミラが苦笑しながらシンに言った。
要人、病人は別として、人を荷として扱うのは当人を卑しめることになるらしい。因習とはいえ乗車を忌避するのはあまりに非効率だが、山歩きが主のニアベルたちには、確かに馬車も馬も必要がない。
荷車の利用も場所が限られており、車輪の使用に耐えるインフラはこうした大きな街の中や整備の行き届いた街道くらいだ。長距離、大量輸送の他には用途がない。確かに急ぎの伝達は馬も使うのだが、それはそれで別の役職があるのだという。
備蓄の件と同様に、彼らには高速化や効率化といった生き急ぐための意欲が希薄だ。生物時間が
環境がずっと潤沢だったとすれば、発達を急かす要因はない。せっかちな
「アニさん、何なら里を案内しましょうか?」
鼻を押さえたニアベルに笑いを堪えながらルトが声を掛けた。
「目立つなって言ってんだろう、本当におまえは考えなしだね」
「ルト、
すぐさまカーミラとヨアにやり込められ、ルトは下顎を突き出して拗ねる。
「
その言葉は無意識にシンの口をついて出た。大柄な美丈夫が耳をバタバタさせながら照れるのは微妙な光景だった。
「まて、まて、まて、それは駄目だ、オレの方が
「いやいや、アニさんは俺をご指名なので」
ニアベルがルトに噛み付いて、にゃあにゃあと言い合いを始めた。
そのさまを眺めながら、シンは自身の言動に呆然としていた。共感性に欠けている分、彼らとの遣り取りは意識的に言葉にしている。それは確かだが、誰かにあんな労いをするなど今まで終ぞ憶えがない。
自己診断タスクが必要なのは自分の方かも知れなかった。
「シン、オレだからな、オレが案内してやるから」
〈麻痺させますか?〉
アシスタントが舌打ちしながら神経負荷ブリットを装填する。
ともあれ今は何者にも煩わされない思索環境が欲しかった。
「姫さまはちゃんと面倒をみて貰っているようだな」
茶店の軒を覗いたガリオンが呆れたような声を掛けた。
「馬鹿を言うなガリオン、シンはオレが面倒をみてやってあ、あ、あ、あ」
「ターヴさまはご一緒では?」
シンに鼻を掴まれて喘ぐニアベルを横目にカーミラは笑いを堪えて訊ねる。
「待ち合わせの宿におらなんだ。痺れを切らして一人で調査に出たらしい」
ガリオンは困ったように言って軒先に腰掛けた。
「この時期にターヴさままで
いつもの調子で顎先を擦りながらも、ガリオンはルトの問いを否定した。
「むしろ逆だな」
心持ち声を顰めて皆に言う。
「おまえさんたちだから言うが、俺とターヴはバルターについて調べている」
わざわざ言葉で心情を前置きするからには、伝える相手にはシンも含まれているのだろう。
できれば除外して欲しかった。こと政治絡みの面倒に係わるのは御免だ。
「これはまた、里ノ王を相手に豪気だな」
ニアベルが犬歯を剥いて笑う。
「しかし今更だぞガリオン、オレはずっと気になっていた」
ニアベルは単に格好を付けただけのような気もする。ガリオンは耳を振ってそれをいなした。
「さっき立ち寄った集落な、あれもバルターが
ガリオンが明かした。所用はその調査だったのだろう。
「あら、バルターさまはずっとこの里で暮らしていたと伺いましたけれど」
カーミラが目を細くする。バルターが自身の身元を偽ることに何か意味があるのかと問うているようだ。恐らく耳先はその不審を示しているのだろう。
「取り巻き共々
シンは聞き流しながら顔を顰めた。どうにも深入りしそうな気配が濃厚だ。
「生まれに何の関係があるのだ、まどろっこしいなガリオン」
ニアベルが痺れを切らして唸る。ガリオンは肩を竦めるように耳を振った。
「これも保身の為だ姫さま。俺もターヴもお前さんのように強くない。万一バルターに隙があれば、こちらも身の振り方を考えねばならんからな」
「あら、バルターさまはめっぽう強かに見えましたけれど」
カーミラがバルターを評して口を挟む。そうして言葉にすることでシンに向けて情報を補完してくれている。
「だがどうやら隙がある。その、後はあまり往来でする話ではない」
ガリオンは言い淀んだ。色事か何かかと思いきやニアベルが吐き捨てる。
「何だ、バルターの身内の話か」
ガリオンの耳に表れていたのだろう、つまらなさそうに鼻を鳴らした。
「詳しくはターヴと落ち合ってから話そう」
遠慮のないニアベルに気負けしたのか、ガリオンはそこで話を切ろうとした。言葉は淡々としているが、厚手の耳はどことなく委縮して見える。
その手の話は表立ってしないものだとガリオン自身が教えてくれた。気後れしているのだろう。視線に気付いたガリオンは、シンに向かって話を振った。
「悪いがシンも付き合って貰えると有難い。事と次第では身の振り方にも関わるからな」
本音では遠慮したかった。じめじめとしたものに絡め捕られていく気がする。そうした気拙い話はこの世界の住人でなくとも聞くのが憚られた。
〈フィールドワークの一環として捉えてはいかがでしょう? 所詮、彼らはあなたと係わりのない現地人です、民俗学的サンプルのひとつにすぎません〉
アシスタントの乾いたアドバイスは慰めにもならない。
ガリオンは異人としてのシンの立ち位置をバルターに利用させまいとしている。一方でガリオン自身もまたシンを何かの駒として関わらせようという腹が透けて見えた。いっそ何も考えていないゴブリンたちの方が気が楽だ。
「どうしたシン、腹が減ったのか」
ニアベルが脚の上に身を乗り出してシンの顔を覗き込んだ。気付けばニアベルはいつの間にかシンの耳を見なくなっている。どうせ動かないならばと諦めたのだろう。頷く、肩を竦める、頭を掻くといった仕草や癖はもう覚えているようだ。
他のゴブリンたちもニアベルに倣ってシンの表情を見るようになり始めている。
シンは何も言わずにニアベルの髪を掻き回した。ニアベルは目を細めて掌に頭を擦り付ける。ひとしきり撫でられて満足したのか、ニアベルはシンに寄り掛かると不意に大人びた目をガリオンに向けた。
「決めたぞ、今聞かせるがいいガリオン。身内が絡んでいるのだろう?」
ニアベルは言葉を選ばなかった。軸足を
「身内と言うことは血縁か、おまえはそんなことでバルターに遠慮しているのか」
ガリオンの耳は圧倒されたように萎れ、脂汗をかいている。いつもの天然ならではの追及かと思いきや、ニアベルの目には知性と皮肉めいたものが窺えた。
「血縁だと拙いのか?」
シンは口を挟んだ。ガリオンが言い淀む理由とも思えなかったからだ。
「オレは違うぞ、だからシンに言った。だがこいつらは誰の腹から生まれたなどという話を人前ではしないのだ。明かされるのを恥だと思っているからな」
人の姓には郷の名が付くが、自分には親の名が付いている。ニアベルはそう言っていた。そしてこの世界では、それがおかしなことなのだとも。
郷里の明確な役割分担の中で、血縁関係はむしろ忌むべきものへと行き過ぎた。実子に固執するのは異端であり罪という感覚だ。
それはシンが思うより遥かに強固な因習だったらしい。この世界を斜めに見るガリオンでさえ言葉を選んでしまうほどの。
自然分娩のほとんどない
シンには親族そのものが存在しない。そんな関係性は代替可能だ。肉親の情や本能的な愛など根拠のない美談程度にしか考えたことがなかった。
自身という例外、ニアベルという例外からこの世界の常識に触れたシンには、そもそもことの深刻さが上手く共有できていなかった。
「
ガリオンは呻くように言った。世界を俯瞰したと気取りながら因習に口籠もる。そんな自己矛盾に歯噛みしているようだ。
シンはガリオンを達観した人物だと思っていたが、案外まだそうあろうと足掻いている途上なのかも知れない。
だがシンはそんなガリオンに歪んだ好感を覚えた。そうした前向きの感情が羨ましくもある。シン自身の行動など、ただ追い詰められた結果でしかないからだ。
「バルターが、何だと?」
ニアベルがガリオンを追い詰める。
一方でニアベルもまた自身の血筋を卑下しない。それが天然の故であれ、この社会に反するはずのものを堂々と認めている。それもまた前向きの感情だ。
シンは世間に歯向かうこと自体を煩わしく思っていた。説明と特別視が億劫で、あえて向かい風に立つような真似はしてこなかった。
「どうやら身内の隠し事が
ガリオンは顔を上げ、店の軒から山の方を覗き見た。
「ほら、あそこだ」
樹々に埋もれた山手の丘に大きな建屋があった。山肌を削って建てられており、崖先を縁取るように石垣が巡っている。
富豪の権威、あるいは城塞といった類の建築物とはどこか趣が違う。意匠は繊細だが漠然とした拒絶感があった。病院あるいは療養施設のような雰囲気だ。
「あそこにターヴさまが?」
ルトが問う。ガリオンの指すそれを皆が首を伸ばして眺めた。
「あれはバルターの高殿だ。
「あそこで何をお調べに?」
カーミラは嗜虐的な目で追求する。
「バルターの実子が匿われている」
その言葉の意味が皆の間に浸透する前に、アシスタントが口を挟んだ。
〈シン、よろしいですか?〉
単なる報告に過ぎませんが、とアシスタントはわざわざ前置きをした。それ自体がすでに意図的だ。嫌な予感しかしなかった。
〈推定三〇〇人ほどがあの建物に接近中です。恐らく先だって遭遇した武装ゴブリンだと思われます〉
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