第一章 魔術師の招来
#アシスタントD3342PA備忘録
シンと私の運命の出会いはフースークのプロジェクトが切っ掛けでした。
フースークはただの酔狂な資産家ですが、シンの資質を見出したその一点だけは将来の蜘蛛の糸に値する高評価と言えるでしょう。
シンの資質は先天性、コミュニケーション不全は後天性のものです。
シンは発掘媒体の遺伝情報を基に造られた
本来ならシンはそのまま破棄されるはずでした。シンが止む無く出生に至ったのは、
しかし結局、
以来、シンはマイナス投機の愛玩品として、あちこちに転売されています。幼少期は債権が本体でシンは付属品でした。
その後に技能適性が認められ、運よく著名な研究施設に拾われたのですが、当時のシンは猫としか喋れないのコミュニケーション不全の最盛期でした。
責任者の不興を買ったシンは、その研究施設からも放逐されてしまいます。
途方に暮れているところに現れたのがフースークです。
彼は
シンには特異な資質がありました。それこそが
シンに提示されたのは生涯債務の返済でしたが、そこには報酬に余りある危険もありました。唯一にして最大の幸運は、こうして私がインプラントされたことに他なりません。
さて――こうしたわずか二〇余年のシンの半生は、
そうですね、私も走馬灯を見たのは初めです。
*****
瞼をこじ開けるほどの強い自然光、濃い草いきれと土の匂い。感度を下げねばならないほどのそれは、明らかにシンのいた研究施設にないものだった。
突き抜けるような青い空が揺れる緑に縁取られていた。草先が頬を擦りながら、ずるり、ずるりと下方に流れていく。誰かの歩調に合わせて動いているようだ。
どうやらシンは身体を曳かれている。襟首を掴まれた状態で叢の中を棒切れのように引き摺られていた。
飛び起きようとして思い留まった。ガーメントが拘束具のように全身を固定している。しかも身体のあちこちの感覚が欠け落ちていた。
*バイタル確認
〈情報集約、表示します〉
一拍を置いてアシスタントが応えた。口数こそ少ないが人格の演出は我に返った感を醸し出している。
不意にシンの視界に身体の損傷個所が表示された。止めどなくテキストが流れていく。目で追えないほど量が多い。
視界を埋めるカルテを払い落とそうと身動ぐも、ガーメントに首が固定されて動かない。シンは慌てて視線を振って表示を追い払った。
〈周囲の敵性要素をすべて排除し治癒態勢を確保します〉
アシスタントの狼狽も相当だ。
*治癒以外の行動を凍結
命じて小さく息を漏らした。溜息ぐらいは吐けるようだ。
*自己診断開始
強制力の強いタスクを走らせ、一旦アシスタントの人格を封じた。
シンの身体は今なお何者かに引き摺られている。アシスタントを放って置けば有無を言わさず排除しかねない。それはもう少し状況を見てからだ。
急ぎ医療ボットを統括するヌーサイトを確認した。案の定、腰椎、頚椎の過負荷、全身数カ所の打撲といった損傷にリソースを総動員している。
控えめに言って満身創痍だ。どうやら
身体の治療はともかく、精神安定プログラムなどといった無駄話にリソースを割かれないうちにアシスタントに課題を与えた。
*
〈六七〇二秒前に消失しました〉
消えた?
〈落下の際に蒸発を確認しました。現在は痕跡も確認できません〉
安定器を介した特異点は蒸発しないはずだ。
消失には恐らく別の原因がある。生成自体は成功したのだ。シンは束の間の満足感に浸るも、すぐに腹の底が冷えるような不安に駆られた。
なら、ここは何処だ。
予定していたのは無人の惑星だった。こうしてシンを引き摺る者がいる時点で
完全な成功なら問題はない。完全な失敗も同様だ。だが不完全な成功は理屈を突き止めようがない。
もしもこれが
〈カウントを開始しますか?〉
*自己診断開始
半ば腹いせに強制タスクを走らせた。悲鳴のようなアシスタントの抗議はとりあえず無視する。やさぐれるくらいの自由は欲しかった。
アシスタントが混乱しているのは
シンのインプラントのほとんどがリンク運用だ。この身体を含めオフラインの維持にどれほどのリソースが必要なのだろう。補助演算野は機能しているがアシスタントの知能は明らかに低下している。
〈聞き捨てなりませんね〉
アシスタントが反論した。
〈
*自己診断継続
シンは思案を目の前の問題に戻した。
その上で
〈念のために報告しますが私は正常です〉
アシスタントの報告を聞き流し、シンは小さく息を吐いた。
〈ひとつ提案が――〉
アシスタントの言いたいことは分かっていた。自分もそうだ。馬鹿々々しくも単純な実証方法を先延ばしにしている。
情報源は最初からシンの襟首を掴んで引き摺っているのだから。
「これは、どういう状況だ?」
意を決して声を掛ける。動きが止まった。不意に襟首を放り出され、シンの頭は叢に落ちた。天然の草と土の匂いに思わず咽る。
ふわりと香草の匂いがした。目に入る空が陰って人影がシンを逆さまに覗き込む。シルエットを見る限りは
『おかしいな、生きているのか?』
言葉がまるで解らない。訛りにしても酷すぎる。辞書を繰る音が聞こえそうなほどアシスタントが狼狽していた。
『カチカチで息もしていなかったのに』
ブーツだろうか、獣毛のようなもので包まれた足がシンの視界を横切った。人影が向きを変えて見おろしてくる。
『生憎ここに医者の当てはないぞ。何なら楽にしてやるが、どうする?』
「ここは何処だ?」
シンは相手を見ようと目を眇め、逆光を補正した。十四、五歳、あるいはもう少し幼いだろう小柄な少女だ。明らかに
「どうして
語彙を集めるべく重ねて問い掛けてみる。
少女は鼻根に小皺を寄せた。猫の目のように瞳孔が収縮する。食肉類に寄せた目鼻立ちだ。横に突き出た大きな外耳が異様に長く尖っている。しかも鳥の羽根のように器用に動いた。
『おまえは何を言ってる? どうして耳を隠しているのだ?』
少女はみゃあみゃあと一方的に捲し立て、しきりに耳を動かして見せた。
入植環境に応じた調整は一般的だが、この外見の意図がよく分からない。装飾にしても機能を作り込み過ぎている。ァッションで
『耳を隠すな、ちゃんと喋れ』
少女は焦ったようにシンの頭の前にしゃがみ込み、顔に手を伸ばした。
少女の手がシンの側頭部を探る。二の腕から手の甲までが赤い柔毛に覆われており、太い指には猛禽のような黒く強靭な爪があった。目を抉るのも容易なそれに、シンは思わず首を強張らせた。
少女は怒ったような拗ねたような気難しい表情で口を尖らせ、それでもおずおずとシンの耳の上の髪を梳く。不意にその瞳孔が収縮し、声を上げて跳び退いた。
『おまえ、耳をどうした』
少女が上擦った声を上げる。何がそこまで怯えさせたのか、まるで分からない。
*動作介助
〈あと六〇〇秒は安静にしてください〉
ガーメントの介助があれば死体でも身体は動くはずだ。
〈困った人ですね〉
アシスタントは人間のような嘆息を洩らした。
シンは慎重に半身を起こすと、少女の方に目を向けた。少女は叢に尻を突いて座り込んでいる。ブーツかと思ったのは腕と同様に脛から先を覆う柔毛だ。それ以外の場所はつるんと張った滑らかな薄小麦色の肌だった。
『空から落ちて耳が取れたのか? それとも元からそうなのか?』
少女はあたふたと手を振りながらシンに何か言っている。
「まるで分らん」
シンは憮然とアシスタントに向かって呟いた。
所在なげな少女の指先で爪が伸びたり縮んだりしている。耳の先が萎れるように垂れたかと思えば、小さく上下に振って見せる。
この耳は勝手に動いているのか。それとも随意に動かしているのか。そこに意味はあるのだろうか。
*
〈ネットワーク不全のため
そんな面倒な改変が必要な場所なのか。それともここは何かのテーマパークか。
『あの有り様で起きられるなんて驚きだな』
少女はシンを眺めてみゃあみゃあと声を上げる。身を起こしてシンに這い寄ると、不意にシンの胸元に鼻先を突き付けた。匂いを嗅いで上目遣いに睨む。
『やっぱり変な匂いがする、でも悪くない』
少女は立ち上がり、シンを見おろした。
『休める所を探して来てやるから、動くんじゃないぞ。それとオレは――』
自分を指してにゃぶる、にゃぶると繰り返す。
そうして少女は唐突に踵を返した。ついて来いと言われたのかと、シンが立ち上がろうと膝を立てる。気付いて少女が声を上げた。
『動くなと言っただろう』
シンに飛び掛かって肩を突き、草の上に転がした。腹の上に跨って押さえ付け、太い犬歯を剥き出して唸る。
〈排除しても構いませんよね?〉
*待機
アシスタントを制止するうち、少女はシンの腕を掴んでひとつに束ね、腰から引き出した紐で手首を縛った。身体を返して尻を向けるや、あっという間に両足も括る。恐ろしく手際がよかった。
〈あなたの嗜好にこのような状況を加えるべきでしょうか。でもご安心ください、世間の評価が下降しても私の対応は変わりませんよ?〉
アシスタントは不貞腐れた声でシンに言った。ローカルの情報しかない癖にどこからそんな皮肉を学んで来るのだろう。
シンにインプラントされたアシスタントは確かに優秀だ。それはシンも認めている。問題は疑似人格を備えていることだ。そのせいで本来は対話を必要としないはずの思考分析型インターフェイスがほとんど意味を成していない。
〈私たちデルフィシリーズに搭載されているのは、
*黙れ
隙を見ては自分の人格をアピールしようとするのも煩わしい。しかも過保護で過激だ。
とはいえ個人用アシスタントは使用者のブレインマッピングで育成された唯一無二の存在だった。つまりその人格も使用者に対応している。アシスタントの性格はシン自身が要因とも言えるのだ。こればかりはどうしようもない。
『手負いはすぐに暴れる。動くと治りが遅いのだ。オレも姉上によく縛られた』
シンを跨いで仁王立ちになると、少女はふんすと鼻息を荒くした。
『いいか、動くなよ』
身を屈め、シンの鼻先に顔を寄せて低く唸ると、再び踵を返して歩いて行った。
「何だ、この状況は」
草を踏む足音が遠ざかっていくのを聞きながらシンは呆然と呟いた。
ここはとち狂った未開人のテーマパークか。手脚を縛って薪にくべ、大串で炙ってどんちゃん騒ぎでもするつもりか。
〈シン?〉
シンは呼吸を整えつつ自身の醜態にげんなりした。有り得ないにも程がある。
改めてこの状況を考える。
少女の造形が作り物なら、思いのほか手が込んでいる。反射反応が驚くほど自然なうえ、筋力も相当に強化されている。
ならばなおさら
シンは草の間から空を見上げた。あまりにも真っ青で作り物のようだ。剥き出しの自然は情報量が圧倒的で、呼吸のたびに草いきれに咽る。制御不在の気温と湿気、情報過多の音と匂い。絵に描いたような地球的環境だ。
先ほど覗いた草原の向こうは海と山に縁取られていた。建造物も衛星の光輝も見当たらない。ゴルディロックスとしては出来過ぎだが、ここが
いずれにせよ優先すべきは治癒と身体保護、状況分析のためのリソース確保だ。
〈彼らの管理はお任せください、もちろん私は会話を通じてシンの孤独感を癒やすことも――〉
*カエアンとヌーサイトを制御下に統合、全機能を連携
アシスタントの言葉を遮って思考プロンプトを打った。
〈連携、管理を承りました〉
わざとらしい無機質な声が拗ねたように返って来る。
*緊急時の生命維持を継続、言語の解析を優先
補助演算野に残していた言語解析ロジックを稼働させる。
〈対話用言語を構築。順次、固有名を登録します、人名:ニアベル〉
先に聞いた語感と似ていた。あれは「ついて来い」ではなく少女の名前だったのか。シンは少女の容姿を視界にフィードバックした。
長い耳、猫のような目、つんと突き出た鼻と太い犬歯。あの獣じみた造形に対して身形は異様に人に寄っていた。肘から先、脛から下は柔毛に覆われ、太い指には猛禽の爪。どうにも出来過ぎている。
紅く染めた髪の一房、布地のタンクトップに革の胸当て、股上の浅いパンツと短いパレオに革のハーネス。手には甲、足はサンダル。まるで古典歌劇の舞台衣装だ。ますますこの世界そのものが作り物めいて見える。
〈おほん〉
注意を促すためとはいえ、言語化された咳払いは初めて聞いた。アシスタントは少し苛立ったようなニュアンスを語尾に滲ませている。
〈文化ライブラリの書籍データより呼称を補完してよろしいですか?〉
確か
*承認
〈呼称を登録します〉
アシスタントが宣言した。
〈地名:ミドルアース〉
溜息とも呻きともつかないものを吐いて、シンは草場に頭を押し付けた。むっとする濃い緑と湿った土の匂いに酔いそうだ。あまりに自然が強すぎる。突き抜けた空をぼんやり眺めた。
得意気なアシスタントの命名宣言はともかく、そんな所から始めるほどここは未知の世界なのかとうんざりする。だが
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