第二章 ゴブリンの獲物

#アシスタントD3342PA備忘録

 人類版図ガラクティクスは銀河の三割に点在する広大な文明圏です。

 その多彩な生態と社会はすべて、たったひとつの惑星から発祥しました。水棲人類も思索聖態も、元来は共通の素体を有する地球原種アースリングに他なりません。

 私はあくまで人類の創造した疑似人格にすぎませんが、地球原種アースリングに準ずる知性群であり、他の知性化生物など私の足元にも及びません。

 地球ですか? 地球は現在、オリオン椀の片隅にひっそりと放置されています。疲弊した環境の回復を第一義に百年来の厳格な保護下にあり、その衛星も含めて一切の立ち入りを禁じられています。

 そんな場所をゲートの座標に指定したのはフースークです。シンの雇用主ではありますが、まったくもって信用のならない人物です。

 確かに地球は地形が明確で生存圏も広い、しかも無人の荒野です。誰にも邪魔されずゲートの実験ができるというフースークの理屈にも一理ありました。

 ゲートの組成は一方向から行えますから、地球圏外に設置された監視網を気にする必要もない訳です。むしろ邪魔も入りませんしね。

 ただゲートの前で踊る猿の姿が見たかったというフースークの世迷言はいまだ理解できません。死滅した類人猿の原種が復活しているかどうかは別にして、シンも私もその矛盾した要望は一旦無視しました。

 こうしてゲートは開通したものの、(猿より少しばかり知能の高い)原住民が確認されたことで、この惑星が地球である可能性は極めて低くなってしまいました。

 誰であれ星系規模の隔離措置を掻い潜れるはずはありません。もちろん残留人類や文明の再興などといった風説はそれ以上に考え難い戯言です。

 人に最適化した生存圏に地球原種アースリングが入植している。この事実ひとつを取っても、この惑星は人類版図ガラクティクスの何処かです。突拍子もない仮説は幾つも考えられますが、それらは単純に検討に値しません。

 そうなると、ますます汎銀河ネットワークストリームの断線が謎です。文明の臍の緒なしに生存できるほど人類は強靭ではありません。

 たとえそれが言葉も通じない(あるいは猿ほどの知能しかない)野生化した入植者であったとしてもです。


 *****


 人の姿をしていながら――少々耳が大きくて、大きな牙や爪はあったとしても――まるで言葉が通じないのは予想外だった。汎銀河ネットワークストリームが断線していることにも係わりがある。

 およその人類版図ガラクティクスなら表意言語が一般的だ。ひとつの語彙が複数の意味を持つため汎銀河ネットワークストリームによる補完が会話の前提になっている。日常会話からしてそこに依存しているのだ。

 もちろん言葉をひとつの意味に解くこともできるが、会話は長く面倒になる。いちいち複数の語意を説明しなければならないからだ。

 汎銀河ネットワークストリームが繋がらない以上、ニアベルとの会話は必然的にそうなるだろう。長話はシンがもっとも忌避するところだ。

 シンがアシスタントに命じたのは、人類版図ガラクティクスの言語を基準にするのではなく、コミュニケーションの全方位から言語を推測する根本的な解析手段だった。作業的には限られた語彙から言語をまるまる構築するに等しい。

 これは元来、帝国アウターで使用した言語解析パッケージだ。相手が地球原種アースリングなら多少は早く進むだろう。組成も体形も発声器官の違いも帝国アウターの連中に比べれば誤差のようなものだからだ。

*固有名は発声を平易化、語源が想起できる場合は表示

 語意を視界に表示させる字幕付きの会話だ。それで多少の情報は補完できる。

 そのときシンが失念していたのは、なまじ行動様式の同じ地球原種アースリングだからこそ、言語は最初の障害に過ぎないという事実だった。


「しつこいぞおまえら『裁定場』にまで追い掛けてきやがって」

 膝丈に茂る草原の向こうに、みゃあみゃあと鳴く声がした。重なってシンに聞こえるのは、声質やニュアンスを再現したアシスタントの同時翻訳だ。

 初出の固有名と思しきものは字幕で強調されている。アシスタントの推論や演出も多分に混じっているだろうが、今はまだ仕方がない。

〈称賛には及びません、お望みのサービスを提供するのが私の使命です〉

 シンはこの上なく自慢げなアシスタントの言葉をとりあえず聞き流した。

「わざわざ逃してやったのに、少しは弁えろ」

 ニアベルの声が聞こえてくる。あの獣じみた少女は存外口が悪いらしい。それともアシスタントの勝手な性格付けだろうか。

 ただ、どうにも状況が読み取れない。

「『王里』の『代闘士』さまが『宵限』くんだりで独りとは、とうとう身内にも捨てられたのかい?」

 別の声がした。どうやらニアベルだけではなかったらしい。これは会話の一端だ。アシスタントの演出が正しいとすれば、二者は口論になっている。

 シンは小さく舌打ちした。今でも問題は山ほどあるのに早くも新たな面倒の予感がする。いっそ穴を掘って首を突っ込み、すべてを見なかったことにしたかった。だが容赦なく声は近づいて来る。

*拘束を排除

 裾から伸びた極細の硬糸が手足の紐に絡んで呆気なく切り落とした。

 半生体のガーメントには極細の製造プラントや熱制御素子が織り込まれている。今はオプション装備こそないが帝国アウター用に誂えた機能服たる所以だ。

〈治癒継続、動作を補助します〉

 シンの行動原理は本来なら面倒の回避を至上としている。そもそもシンが拘束を解かなかったのは、ニアベルに見つかったときの過剰反応が億劫だったからだ。だが、どうやらその段階も通り過ぎてしまった。

 不明の環境で不明の住民が不明の関係性をもって目の前で争っている。

「オレに勝てもしない癖に煩いぞ、もう一度見逃してやるからあっちに行け」

 まるで子供の喧嘩だ。どうあれ決着がつくまで退避すべきだとシンは考えた。状況はできるだけ単純化したい。背景も分からない現地の争いに巻き込まれるのは御免だった。

*索敵

〈左手、殲滅範囲内に個体数六。ニアベル一に対し五体を識別〉

 アシスタントはさり気に物騒な語句を織り込んでくる。

〈現状もっとも効率的な措置は個体の殲滅ですからね〉

*却下

 血生臭い解決が嫌なのではなく事後に派生する問題が面倒なのだ。ニアベル以外の情報源を探す手間も抑えたい。放置して口論が収まるなら、それに越したことはなかった。

「よく言った、その生意気な耳をちょん切ってやるから覚悟しな」

 勘弁してくれ。

 シンは溜息混じりに半身を起こし、腰丈ほどの草から辺りを覗いた。声の方に目を遣ると、ニアベルの背中と対峙する集団が見て取れた。

 向かい合っているのはニアベルより少し年嵩の女だ。その後ろには原始的なレベルで屈強な男が四人ほど控えている。

 いずれも外耳が長く四肢の先は柔毛に覆われている。ニアベルと同じ造形だ。衣装もいずれ似通っており、手脚や腹が剥き出しだった。今のところ、環境や生態、社会性のいずれにも露出の高さを説明できる情報はない。

〈彼らを同一の形態、言語、社会性と仮定し、種族と定義します〉

 AIとしての性格だろうか、アシスタントはラベリングに執心している。

「やってみろ『万年発情期』の『おっぱい女』」

 揶揄された語意の候補を眺めてシンは頭痛を堪えた。

 確かに女はニアベルに比べて体格がよく二次性徴の成果にも大きな差がある。どうやら言葉は違ってもセクシュアリティは人類版図ガラクティクスの一般的な嗜好に沿っているようだ。

〈なるほど、シンの嗜好の閾値を明確にしていただけますか?〉

 不意に目の前に湧きだした身体計測データがシンの視界を埋めた。アシスタントの声が冷えている。

〈今後の参考に、ぜひ〉

 シンが表示を振り払う。今回はガーメントの補助で首も動いた。だがその拍子に草叢の動きに気付いた女と目が合った。

「誰だ」

 女が叫んでニアベル越しにシンを睨む。

「おまえ『ガバル』じゃないね」

 ニアベルがシンを振り返って慌てる。

「こら、出てくんな」

 出て行くつもりも関わるつもりも毛頭なかった。こんな茶番に興味があると思われるのも心外だ。見なかったことにして欲しい。

「『エフィル』、にしちゃ変だね、何だかおかしな感じがする」

「あっちへ行け、手を出すな。そいつはオレんだ、オレが拾ったんだからな」

 ニアベルが女の視線を遮る覆ようにシンの前に割り込んだ。女ははたと意地悪く笑い、頸を傾けてシンのいる方を覗き込む。

「何だい、おまえのアレかい? まだ『小娘』のくせに」

「ふ、ふざけんな、さっき拾ったって言っただろう」

 猫めいた女二人がみゃあみゃあと鳴き合う中、後ろに控えた男連中はただオロオロと突っ立っているだけだった。体格は厳ついが立場は弱いらしい。どうやら女の従属的な立ち位置にあるようだ。

〈呼称を登録します、種族名:ガバルゴブリン

 空気を読まないアシスタントが得意気に割り込んだ。

 どうやら片端から命名するつもりのようだが、確かそれは妖精だか小鬼だかの名称だった気がする。見目か仕草に似た特徴でもあるのか、シンにはその辺りの判断基準は不明だ。

 いや、名称などどうでもよかった。ひたすらこの場の面倒を避けたいだけだ。

「よりによって『黒顎』の郷長さまが『種族跨ぎ』かい? 将来有望だねえ」

 そう言って口許を吊り上げた女は、シンに目を遣ったままふと口籠った。顔の横に張り出した長い耳は小刻みに揺れているものの、じっとシンを凝視している。

「おまえ、その耳」

 思えばニアベルもシンの耳を見て驚いていた。確かに彼らのものとは形状が違う。だが拘る理由が分からなかった。余所者というなら耳に限らず外見の違いは明確だ。

 呟いた女の瞳孔が収縮した。四肢の柔毛も逆立っている。

〈シン、敵対行為が予想されます〉

 彼らがシンのような短い耳を見たことがないとしたら、人類版図ガラクティクスから隔離された入植者という可能性もある。それはそれで厄介な問題だ。

*翻訳発声

〈準備します〉

 シンはゆっくり立ち上がり、空の両手を開いて見せた。対峙するゴブリンたちに向かって敵意はないと手を上げる。地球原種アースリングなら通じる。はずだ。

「発声待機」

 シンの襟元から声が流れた。

 *翻訳「君たちの争いに手を出すつもりはない」

 アシスタントがゴブリン(仮称)の言葉に換えて声を出した。

『勝手にやってろ』

 女もニアベルもシンの襟元から出る声にギョッとした様子だった。

*翻訳「どちらでも構わない、後で話を聴いて欲しい」

『生き残った方の相手をしてやる』

 ちゃんと通じているだろうか。気のせいか女の表情がますます剣呑に見える。

「殺す」

 通じていなかった。

〈平和的解決の意思はないようですね〉

 アシスタントの声が妙に空々しかった。

 女は尻の上から大ぶりの山刀を抜き放った。大時代的な鉄器の刃物だ。殺傷能力はともかく物理的な威圧感が高い。シンの危機感は薄かったが、直面する面倒に気が遠くなった。

「ふざけんな」

 ニアベルが刃先に身を割り込ませた。女の微かな合図が飛んで、四人の男衆が前に出る。彼らは一斉にニアベルに襲い掛かった。

 ニアベルは跳んで身を躱し、腰に矧いだ鉈を抜いた。四人の男に対峙するも何やら空の手の遣り所に迷っている。見れば腰の鞘は二つある。だが鉈は一振りだけだ。それが関係しているのかも知れない。

 ニアベルの戸惑う隙を突いて、女はシンに向かって飛ぶように駆けた。

 ニアベルが声を上げる。翻訳は保留した。どうせ警告か何かだろう。こうなってはどうしようもない。

〈友好的対応に切り替えますか?〉

 シンが呻いた。やっぱりおまえのせいか。何故デフォルトを友好的にしない。

*意識拡張、身体機能補強

〈レベルを設定してください、敵性の排除を提案します〉

*危険回避

 アシスタントの応答は舌打ちのように聞こえた。性格が危うさを増している。

 シンの主観時間が引き伸ばされ、女の速度が微動に落ちた。纏わり付くような風の抵抗感はその代償だ。この状態で動くのは必要以上に体力を使う。手短に済ませたいところだ。

 女は山刀の切っ先を背に隠していた。至近距離まで刃の軌跡を見せないためだろう。斬り上げ始めた山刀を眺め、シンは女の背中に廻った。

 ここまで身体に手を入れるなら尻尾くらい生えていてもよさそうなものを。容姿に拘りが足りないのでは? 引き延ばされた時間の中でそんなことをぼんやり思う。

〈憂慮すべき事態です。デルフィシリーズの義体には尻尾のオプションがありません。今すぐ改善提案を――〉

 女は山刀を薙ぐ反動でシンを振り返った。反応は速いが目許に焦りがある。

 刃の軌道を避けて死角に入ると、シンは女の手首を取って指を食い込ませた。どうせ腱の位置は同じだろうと力を籠める。

 女が悲鳴を上げて竦んだ。手から山刀が落ち、女の髪がシンの頬に被った。人の匂いを間近に感じたのも久しいが、鼻先を擦る長い耳がむず痒い。シンは思わず咽た息を吹いた。

 女が喉を絞められたような声を上げ、弓のように身を逸らせた。まるで嬌声だ。

 予想もしない声に驚いて手を放すと、脚の萎えた女はシンの身体を滑って草場に崩れ落ちた。圧迫した腕の腱よりも耳を押さえて蹲る。

〈シン、何をしたんですか?〉

 アシスタントが食い縛った歯の隙間から絞り出すような恐い声で問う。女は鼻根を真っ赤にして小刻みに震えていた。

 当面の反撃はなさそうだ。念のために山刀を拾うと、シンは女の傍を離れた。

 何が起きたのか今ひとつ理解できない。個体の問題か身体の構造によるものか、いずれにせよ今後は彼らの耳に触れない方がよさそうだ。

 シンがニアベルを振り返ると、事態はすでに収拾していた。皆きょとんと立ち竦んでいる。

 いずれも戦意は残っていない様子だ。ニアベルを含め全員が同じような耳の動きをしているのがどこか滑稽だった。

「おまえ、容赦ないな」

 ニアベルが唸るようにシンに呟いた。呆れているような、怯えたような、気後れしたその声に翻訳のニュアンスが安定しない。

 我に返った男連中が女に向かって走って来る。何処へ行くのかと思うほどシンを遠巻きに回り込んでから、女に駆け寄って抱え起こした。連呼しているのは彼女の名だろうか。

〈固有名を登録します、人名:ウルスラ〉

「お、お、お、おまえ、何者だ。王里オードの新しい代闘士か」

 ウルスラは耳を押さえたまま上擦った声でシンに叫んだ。

 シンは声を掛けようとして、先にアシスタントにプロンプトを打った。

*翻訳を友好的に

〈威圧的演出で今後の交渉を有利に進められますが〉

*友好的に

 大丈夫か、と声を掛けようとしてシンはその形相に口を噤んだ。ウルスラは男に抱えられて立ち上がり、ふらつきながらもその手を乱暴に振り払う。

「許さん」

 シンをもうひと睨みして呟くも、不意に踵を返して何ごとか叫びながら走って行く。不明瞭でよく聞き取れなかったが、恐らく覚えていろといったところだろう。四人の取り巻きが大慌てで追い掛けて行った。

「おっぱい女のあんな声、初めて聞いた」

 シンが遠くなる後ろ姿を呆然と見送っていると、ニアベルが近づいて話し掛けた。

「凄いな、ウルスラおっぱい女より速い奴なんてオレ以外にそういないぞ」

*固有名の紐付けを解除

 何をもって疑似人格の正気を判断すればよいのかとシンは呻いた。

〈私の翻訳が不満ですか?〉

 危うく殺されそうになったのは誰のせいだ。

「だけどあいつも『婿取り』前だからな、あんなことをしては駄目だ」

 ニアベルは何やら口の中でもごもごと呟いている。

〈デルフィシリーズのスタンドアロンにおける信頼性について、まずは基本コンセプトからご説明いたしましょう、第一にあなたの安全を――〉

*自己診断開始

 アシスタントの口を閉じさせると、シンは振り返ってニアベルを眺めた。どうやら怪我はしていないようだ。初めて立って間近に見るが、背丈は思ったより小さい。頭の先が胸元に届くかどうかだ。

「それよりおまえは大丈夫か? どこも痛くないのか?」

 ニアベルは耳の先を伏せ、爪先立ってシンの顔を覗き込んだ。

*発声翻訳「ここがどこか知りたい」

『ここがどこか知りたい』

「うわ、やっぱり服が喋った」

 ニアベルが叫んで瞳孔を丸くする。糸で吊ったように耳がぴんと真横に張った。シンの周りをぐるぐると廻りながら身体のあちこちを爪の先でつつく。

 ニアベルの挙動がよく分からない。本当に言葉は通じているのだろうか。

「おまえは服か? その口は飾りか? おまえはいったい何だ」

 ニアベルは恐る恐るシンに手を伸ばし、黒く太い爪の先で襟元を引っ掻いた。

『ここが――』

「おーう」

 話し掛けるとまた声を上げて飛び退り、シンの顔と襟を交互に見ている。なるほど、ぜんぜん話を聞いていない。

 シンは諦めて襟を留め、アシスタントに咽頭発声の制御を委ねた。

〈ガーメントの制御を分割します。介助率が低下しますがよろしいですか?〉

*承認

「ここがどこか知りたい」

 喉の力を抜くのは意外と難しかった。慣れるまで意識的な呼吸が必要だ。そのうちナノボットに喉を改修させた方がよいだろう。

「何だ、今度はおまえが喋るのか。オレが引っ掻いたから服が黙ったのか?」

 なるほど、耳だ。

 呼吸に気を取られてニアベルをぼんやり眺めるうち、シンはようやく気が付いた。顔の表情よりもむしろ大きな外耳の動きがニアベルの情動を担っている。

〈あれを情動交換と仮定すると、この状況では精密な言語化が困難ですね〉

 耳を使った共感が成り立っているのだとすれば、耳の動かないシンはニアベルたちにとって無表情に等しいだろう。情動言語グリフがコミュニケーションの主流なら前途多難だ。

 いや、むしろ機械的な会話と割り切れるならシンにとっては好都合だろうか。感情を無視すれば、いつものように他人との距離感に迷う必要もない。

「ここがどこか知りたい」

 シンはニアベルに繰り返した。

「知らないのに何故ここにいるのだ。ここは宵限ヨイキリ、大昔の裁定場だ」

〈呼称を登録します、地名:宵限ヨイキリ。語意の組み合わせのようですね〉

「裁定場?」

「もう、まるで帳面と話しているみたいだな、おまえは」

 ニアベルは声を上げてシンの周囲を跳ね回った。怒っているのか面白がっているのかまるで分からない。

「それよりおまえは? おまえは何なのだ? どこから来た?」

 シュッシュと何度も突つくように指先を向ける。黒く太い爪が随意に伸縮していた。ニアベルを意思疎通の対象に絞ったのは本当に正しい選択だったのだろうか。今さら不安になる。

「シンだ。アナベルの企業自治州から来た」

 ニアベルがきょとんとする。まるで見当が付いていない様子だ。

「なんだ、それ?」

 何となくそんな気がした。恣意的かどうかは不明だが、ニアベルは情報的にも物理的にも人類版図ガラクティクスと断絶しているように思える。

 アナベル自体は辺境に近い星系だが、企業自治州としてはそれなりに有名な場所だ。だが、あるべき前提の知識がないとしたら、どこから話せばよいのだろう。

 オリオン腕か、銀河系か、それとも当たり前すぎて名も付いていない宇宙そのものからか。アシスタントの大仰な命名宣言にシンは初めて納得した。

〈些か遅いくらいですが、まあよしとしましょう。デルフィシリーズがとても優秀だということをご理解いただけたのなら、これを機に――〉

「まあ、いいや」

 ニアベルが無意識にアシスタントの話を切り捨てた。

〈黙れ猫〉

「おまえ、空から落ちて頭を打ったんだろう。なに心配するな、これも何かの縁だ。オレが面倒を見てやる」

 フンフンとニアベルはひとり頷いた。薄い胸を張って踏ん反り返るニアベルの納得の仕方がどうにも納得いかない。

「シン、シンか。オレはニアベルだ」

 ニアベルはそう言って笑った。それが笑顔か威嚇かはよく分からないが、大ぶりの犬歯を剥き出し、耳の先を持ち上げて見せる。

 シンの想像もその成否はまるで不明だ。コミュニケーションが成立しているのかもよく分からない。こちらも耳を摘まんで持ち上げて見せるべきだろうか。

 身形も言葉も常識も違うこのふざけた世界はいったい誰の冗談だろう。シンは途方に暮れて溜息を吐いた。

「どうした、どこか痛いのか? それとも腹が減ったのか?」

 ニアベルが爪先立って大きな瞳でシンの顔を覗き込んだ。動かない耳の代わりに表情を読み取ろうとしているのかも知れない。

「いいや、平気だ」

 表情が読めない、感情が伝わらないのはお互い様だ。シンにしてみれば生まれた時からそうだった。ならばこの世界も帝国アウターと同じだ。言葉に合わせて無理にシンが表情を作る必要はないだろう。

「よろしく頼む、ニアベル」

 シンはニアベルにそう言った。

 その言葉がどんなに憮然と響いても、その笑みがどうしようもなくぎこちなくても、目の前の悪戯な目をしたゴブリンは気にしたそぶりを見せなかった。

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