愚者の箱庭

marvin

序章 異世界転落

 流れる街並みをぼんやり眺めて、シンは停車場をひとつ乗り過ごした。

 視界の端で経路図が更新される。遅延時間が強調されているものの、シンの意識は表示の上を滑った。気にした風もなく払い退ける。

〈三回、警告しました。降車を強制した方がよかったですか?〉 

 アシスタントの声は聞き流した。

 折り返すのは数ブロックほどだ。今なら機密区画の人通りも少ない。どうせ実験殻に入ってしまえばひとりきりだ。他人に煩わされるようなこともない。

 インプラントされたアシスタントを除いて。

 アナベルの企業自治州は全般的に陽の昇る環境に造られている。今はまだ夜明け前だ。研究区画にしては健全な生活サイクルが運用されており、こんな時間に勤務先に向かうシンの方が珍しい。

 ただ当人にしてみれば、職務に従順なわけでも期限に追われているのでもない。単に人通りに出会すのが億劫なだけだ。

 シンの勤める区画はスタッフのコミュニケーションが奨励されている。相互干渉が新しい発想を生むなどという、古くからの悪習が罷り通っていた。おかげでほとんどの施設が開放的だ。カートも既定の停車場までしか走らない。

 コミュニケーションなど個人プロジェクトのシンには関係がない。そもそも会話さえ規制される機密区画の住人だ。世間話や無駄話が苦にならないなら、こんな所には勤めていない。

 例えシンにしか適性のないプロジェクトを任されていたとしてもだ。

 もちろん機密区画の強固な規制は皆も知るところだ。そのためにわざわざ高価なアシスタントが個々にインプラントされている。それは補佐と同時に枷となり、記憶領域の管理と情報開示に繋がる行動を抑制している。

 シンもセキュリティとしてのアシスタントに忌避感はない。自身の記憶と自由にも執着はなかった。ただアシスタントに疑似人格が搭載されていることだけが煩わしい。

〈気分が冴えないようですね、モチベーションを高める対話はいかがですか?〉 

 それが嫌だ。鬱陶しいことこの上ない。この一点だけで職場環境は最悪だった。

 常々シンは擬似人格抹消の誘惑に苛まれている。とはいえ申請、面談、定期カウンセリングの煩わしさに比べれば他に選択肢もない。

 好んで流れ着いた訳ではないが、今のプロジェクトはこの身に課せられた終生債務が解消できる唯一の機会だ。諦めるのは惜しい。

 シンはカートを降りて自走路に乗った。辺りはまだ薄ぼんやりとした藍色だ。色のない壁、抑えた照明、乾いた匂い。視界の表示設定はすべてデフォルトのままだ。景色なんて何でもよかった。どうせ現実は変わらない。

 不意に手前に白い人影が割り込んだ。まだ先の方だが方向が同じだ。こんな朝早くから仕事熱心なことだ。自分を棚に上げて呻きながら、シンは歩調を変えて距離を取った。

 背中に何となく見憶えはあるが、情報タグを覗き見なければ名を思い出せない。思い出せないなら無視してよい相手だろう。追い付いて挨拶するなど以ての外だ。

 こちらを振り向くなよと念じながら、シンは所在なく視線を彷徨わせる。

「シン」

 背中に掛けられた声に飛び上がった。油断した。どうして今朝に限って人が多いのか。

 お願いだから世間話など望んでくれるなと、言葉を探して逡巡するうち、相手は痺れを切らしてシンの背中を小突いた。

「シン、にいる?」

 ゲームに夢中だとでも思ったのか、わざわざ回り込んでシンの顔を覗き込む。

 シンはぎこちなく視線を落とした。縁取りの濃い青い目がすぐ間近にある。彼女の名は………何だっただろう。思い出せない。

 シンは記憶の隙間を探りつつ、情報タグからは意識して目を逸らした。うっかり覗けば相手にもそれが伝わってしまう。

〈イスズ・フラットロウはデルタ区の俯瞰次元エンジニアです。差し障りのない会話であれば回答パターンを提示しますが?〉

 気を利かせたアシスタントに舌打ちし、シンは思考プロンプトを打ち返した。

*黙れ

 うっかりコミュニティチャットを覗かれでもしたら目も当てられない。

「これって噂のガーメントよね? 特注の機能服なんでしょう?」

 イスズはシンの二の腕を摘まんで指先で生地を擦った。対人距離が異様に近い。シンは撥ね退けそうになるのを懸命に堪えた。生まれてこの方シンが自分から触れた生物は猫だけだ。

 返答に迷ってシンはただ頷いた。

 確かにシンのガーメントは「出張」の備品だ。研究職に伝統の白衣と長さは近いが、対照的に色は黒い。丈夫なうえに汚れも解れも自己修復する程度には高性能だ。

「実験用? 格好つけてるんだと思ってた」

 シンが目立とうとするはずがない。単に白衣を誂えるのが面倒だっただけだ。

〈忠告したじゃありませんか、身形には気を遣うべきです〉

 アシスタントはそれ見たことかと嘆息の響きを滲ませる。

「これを着てるってことはシンのプロジェクトって危険なの? もしかして異星人の所に行ったっていうのは本当?」

 イスズは爪先立って顔を寄せ、シンに囁くように訊ねた。

〈情報リンク閉鎖、アクセス警戒レベル五に設定します〉

 単に噂話の範疇だ。シンは内心アシスタントの過剰な警戒に呆れた。

「言えない」

 シンは辛うじてそう返した。プロジェクトについてはもちろん、帝国アウターについても決して口外することはできない。幾重もの制裁条項が付いた秘情報だ。

「いじわる」

 そんな問題ではない。イスズの対人距離に三桁の違いを感じながらシンは呻いた。相手の吐息が毒霧のように身体を強張らせる。

〈この女は早々に排除すべきです〉

*黙れ

 すぐさま汎銀河ネットワークストリームの補正が入り、アシスタントの過激な反応は標準人格プロトコルに引き戻された。

 帝国アウターのことが知りたければ所長から権限を得てレポートを読めばよい。頭に黴を載せた蟹が挨拶代わりに首を切ろうとしたとか、羽根の生えたウミユリに解剖されかけたとか、そんな愉快な話が知りたいのなら。

「あ」

 不意に鳴ったアラームにイスズが身を引いた。区画権限のセキュリティチェックだ。彼女の足下のステップサインがシンから大きく逸れていく。

「残念、また今度ね」

 上目遣いの拗ねた目から目を逸らし、離れていく彼女にシンはようやく詰めていた息を吐き出した。

 これなら帝国アウターの方がまだましだった。あそこなら世間話などというあやふやなものもない。喰われかけたり卵を植え付けられそうになったりはしたが、コミュニケーションに余計な気を回す必要もなかった。

 シンは目前に迫る黒々とした実験殻を見上げた。気付けば目の前にいた人影も消えている。ようやく一人だ。やはり意識のリソースは独りの方が遥かに有効に使える気がする。

〈このままではあなたの将来が心配です。私たちデルフィシリーズの擬似人格なら、七二二通りの対話スキル向上シミュレーションが――〉

 人格補正が初期化に近いせいか矯正が入ると広告が増える面倒な仕様だ。

*実験殻認証

 タスクを与えて無駄口を封じる。

 今までシンの人付き合いが上手くいった試しはない。シンの表情筋は反射に乏しく、感情を表現するのが絶望的に下手だ。一般的なコミュニケーションは身に付ける前に性格が捻くれてしまった。

 今さらそれをどうこうするつもりもない。ただ人を避けて暮らしたいだけだ。自身に情報タグの編集権があるなら名前の横に大きく「不愛想」と記載しただろう。「近づくな」とも書き添えたはずだ。

〈不明のアクセスが一件あります〉

 アシスタントが警告した。怪訝そうなニュアンスが込められている。不明と記されているなら所長の可能性が高い。この施設で身元を隠せるのは彼だけだ。

*入室後に施錠

 念のためシンはそう指示して実験殻のハッチを潜った。

 この実験を仕切る所長のフースークは酔狂な資産家だ。シンがここに留まっているのは、彼がシンの莫大な債務を肩代わりする条件だからだ。おかげで何度も死ぬような目には遭ったが大勢の人に混じって働くよりはましだった。

 折り重なる溝と歯が縞になった厚いハッチの断面を越えると、黒い半球の縁に出た。実験殻は巨大な円蓋だ。卵の半分を掘り抜いたような造りになっている。壁が異様に厚いのは万一の隔壁を兼ねているからだ。

 それほどの危険に備えていても、この実験殻で何が行われているかを知る者は少ない。細分化されたプロジェクトは互いの関連を不明確にしている。先の彼女(もう名前を忘れてしまった)も全容は決して知り得ないだろう。

 実験殻の円蓋の底は浅い擂鉢状になっている。シンはその中央に降りて行った。

 そこには真っ黒な一枚の板、手前には衝立のようなものが並んでいる。全景は暗く見通しも悪いが、他に目立ったものはない。実際、この実験殻にはちょっとした安定器と独立した情報系のほかに大した機能はなかった。最も重要な部品はシン自身だからだ。

*状況報告

 中央にある黒い板は、扉より一回りほど大きかった。目を凝らしても焦点の合わないベンタブラックで、可視光をまったく反射しない。眼前を四角く切り欠くそれは、何の比喩でもなく空間を切り欠いていた。

 それはゲートと呼ばれている。この黒の向こうには連続しない空間がある。帝国アウターの主要なインフラであり人類版図ガラクティクスが初めて独自構築した唯一の特異点だ。

〈生成式の正常な展開を確認しました〉

 アシスタントが報告を寄越した。シンにインプラントされた補助演算野が実験殻にリンクして状況を読み解いている。

*バックアップを取得

〈ダウンロードを開始します〉

 アシスタントは素直に与えられたタスクを遂行した。さすがにこの状況では情緒過多の人間性アピールも弁えている。

 ゲート自体に不備はないはずだ。論理記述にも不安はない。シンは短く息を吐いた。

 だがこれまでの検証では、座標の調整だけが儘ならなかった。しかもそれを確認するには物理的な観測しか手段がない。

 このゲートの向こうに投げ込んだ探査プローブは一〇機に登る。いずれも直後に信号が消失し、一機の帰還も果たせなかった。原因は不明だ。

 探査プローブは掌に収まるほどの銀色の球体で、強固な帰還命令と過剰な耐久性を持った自律機だ。例えこのゲートの向こうが恒星の表面であっても自壊までに十分な情報が発信できる。はずだった。

 当然ながら非常に高価で、ともすれシンの論理記述だけで生成されるこのゲートよりも遥かに値打ちがある。それも今ではストックが半分を切っていた。

 シンはコンソールから十一機目の探査プローブを取り、広間のゲートに近づいた。マーカーの前に屈んで探査プローブを床に置く。

 ベンタブラックの特異点は前髪が触れるほど近くにあった。物理的な厚みがなく、光を反射するものもない。そのため覗き込んでも距離感が掴めない。

 ゲートを生成するたびシンは直接頭を突っ込んで覗き見たい衝動に駆られた。万一途中でゲートが蒸発すれば頭と胴は泣き別れになるが。

 明確な不備の見当たらない生成式を頭の中で反芻しつつ、シンはふと自分のものでない緊張した息遣いに気付いた。

 驚いて立ち上がり、辺りを見渡した。誰もいない。ハッチは閉じた。所長以外に誰も入って来られるはずもない。

*全館点灯、対人走査

〈シン、侵入者が――〉

 灯る照明の眩しさに手を翳した瞬間、ゲートを回り込んで来た白い人影がシンを突き飛ばした。つんのめるまま身体を捩じって振り返ると、ありえない陽射しがシンの目を焼いた。

 空だ。目の前にあるのは遠ざかる黒い板と真っ青な空だった。

 足下の感覚が喪失していた。自由落下の浮遊感に背筋が震えた。耳にごうごうと風の音が鳴る。眇めた瞼の隙間に緑の草原を眺めたのも束の間、シンの意識は墜落の衝撃に飛び散った。

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