第35話 同じ鍵 でも 分からない だからこそ 分かり合いたい①

 翌日。午後。


 一泊旅行を、思いっきりらぶらぶで満喫したさくらと類は、明るい元気な顔でマンションに帰った。


 表情やことばには出さなかったけれど、内心では、あおいのことがひどく心配だったようで、類はいそいそと車を停め、あおいが待っているはずの両親の部屋に、そわそわしながら直行した。


「あおいーっ! ぱぱだよ、ただいまー」


 鍵を開けたけれど、誰の返事もない。室内は、しーんと静まり返っている。


「なに。どういうこと? 反応がない」


 異変を察知した類は、荷物を玄関に置き捨てて急いで靴を脱ぎ、揃えもしないでリビングにつながっている廊下を走り出した。

 仕方なく、さくらが乱れた靴を直してやった。


「あおい。あおい、あお……ひーっ!」


 声の最後は悲鳴に変わり、むなしく途切れた。


目の前のリビングには、ソファに座った玲がいる。


 あおいが玲の胸の上で、ぎゅっとだっこされながらうつぶせの姿勢で寝ていた。ブランケットにくるまれて、すやすやと。


「おう、帰ったか。ちょっと静かにしてくれ」

「ああああああああああああああああおい? ぼくのあおい? なんで、むさ苦しい職人男の胸に抱かれているんだい? 守銭奴がうつったらどうする!」


「むさ苦しいって……守銭奴って」


 ここぞとばかりに、類は暴言の連続。


「あおおおおおおおおおおおおおおおおおおいいいいいいいいいいいいいいいいい!」

「……静かにしろって、類」

「これが黙っていられるもんか。どうしてここに、玲がいるの?」


「母さんたち、三人で昼寝中」


 玲は寝室を指差した。


「そういうことじゃなくて、お前がなんで東京にいるんだよってこと!」

「母さんから、あおいの相手をしてくれって。助っ人を頼まれて、呼び出されたんだ」


「玲が、助っ人だったんだ?」

「ああ。昨日、一緒に寝た」


「ねんんんんんんんんねねね、寝ただとぉ? あおいは、嫁入り前の身体なのに!」

「類くん、言っていることめちゃくちゃ。玲、あおいをありがとう。やんちゃで、大変だったでしょ」


「そうでもなかった。とてもいいこだよ。今日もふたりで出かけたけど、とてもかわいかった」

「清らかなあおいを返せ! あおいは、ぼくのあおいだ! うあああああん」


 類は発狂寸前だった。元アイドルモデルとはいえ、ゆがんだ顔は、ひどく見苦しい。


「落ち着こうよ、類くん。あおいが起きちゃう」

「これが、落ち着いていられるの? あおいが、毒牙にぃ!」


「うううーん。おはなし、こえおおきいー」


 とうとう、あおいが起きてしまった。目をこすっている。


「あおい、あおい! パパだよ、あおいのパパだよ、ただいま。そんなところにいないで、ぼくの胸においで? 貧乏がうつるよ?」

「んー……あいすぅ……」


 まだ寝ぼけているらしい。類が、あおいの肩をそっと揺らした。


「あーおーい!」


 もう一度、撫でた。しつこく。


「や。れいおじちゃのとこがいい」


「……は? ぼく、耳が遠くなった? ほら、おいで」


 あおいが、類の手を、ぱしっと音がするほど勢いよく、はたき落とした。


「ぱぱ、いや。れ・い・お・じ・ちゃが、い・い!」


「おおおおおおおおおおお……あおい?」


 玲の首に、ちいさな手を回してぎゅっとするあおいの姿に、類はまっしろになった。


「あおい、玲が重いって。そろそろ下りようか。ぱぱがいやなら、ままのところへおいで」

「れーいおじちゃー!」


 四人でどたばたしていたせいで、寝室から涼一と聡子も出てきた。眠っているのは皆だけになった。


「なに、どうしたの」

「さくら。帰ったのか」


「ただいま。いろいろとありがとう。とっても楽しい旅行で……」


 類が、さくらの身体を押しのけて叫んだ。


「か……母さん、オトーサン! ぼくのあおいが、玲にしがみついて離れないんだよ! さては、変な薬を盛った?」

「ばかねえ、類は。妄想が激しすぎるのよ。冷静に観察してみれば、すぐに分かることじゃない」


「冷静に、観察……? いや、分からない」


「類くんもようやく、この私の、父親の気持ちが分かるときになったようだ。娘を奪われる、喪・失・感! ははhはhっはっはhはっははhh!」


(ざまあ見ろと)冷ややかに盛り上がる涼一に、玲は釘を差した。


「いや、奪ってないって。姪っ子だって、血縁」


***


 ……つまり。


 ぱぱとままの不在時に、玲があおいをあやしてくれて、あおいはすっかり玲が気に入ってしまったらしい。


「まま。あおいね、おさかなさん、みたの! ぺんぎんさんもいた! たくさん!」


 今日、あおいは玲と水族館へ行ったらしい。くしくも、類が連れて行きたかった、スカイツリー下の水族館へ。


「動物園には行ったばかりだというし、雨が心配だったから屋内の」


 というわりとよくある理由で水族館になったようだが、類は激しく嫉妬した。


「それ、ぼくがあおいと行くはずだったのにぃ! 玲のくせに、なんて余計なことを!」


 江戸前の金魚の展示があって、あおいは色鮮やかな魚たちに心を奪われたらしい。

 帰りがけに、書店で『日本古来の色事典』を買ってもらい、今も玲とふたりで顔をくっつけ合うようにして、ずっと本を眺めている。


「すおういろ? あさぎいろ? もえぎ?」

「あおいは、とてもいいこだね。すぐに覚える。将来が楽しみだ。おじさんのところに、大きくなったら手伝いに来てもらおうかな」

「うん、いく。あおい、いいこ!」


 色のことに関しては、職人の玲と張り合える者はいなかった。


「第一印象は『ヒゲのおっさん』で最悪だったのに、仲よくなったらとことん……さくらと類くんのなれそめと一緒じゃないか。ぶつぶつ」

「かつての類は、さくらちゃんに初対面で襲いかかろうとしたんだもんね。最悪のはじまりだったなあ」

「初恋確定だなぁ、これは」

「私、言っちゃったもんね。『あおいちゃんは、ぱぱと結婚できないのよ』って」

「母さん、ひどい。それで、玲に? 玲だって、無理じゃん! おじさんなんだから」


 あおいは、玲のそばから離れない。


 いつも、さくらが類にするように、『きょうは、ごはんにしましゅ? おふろ?』と、かわいい夫婦ごっこをはじめた。『そうきかれたらね、あおいがほしいってゆうの』、などと夫婦ごっこを楽しんでいる。

 玲も玲で、素直に『あおいがほしい』などと笑顔で言って、あおいを喜ばせている。


 涼一と聡子、それにさくらは、ただただ苦笑。

 類は、燃え尽きかけている。


「ぼくがいないとき、あおいに変なことをたくさん吹き込んだでしょ! さくらに浮気されるより、娘の裏切りは精神的にきっついんだけど! ねえ、結婚できないのほかに、なんて言ったのさ!」

「被害妄想だよ類くん、頭を冷やそう。私、浮気してないし、あおいだって玲が気に入ったっていうだけで、特に悪いことはしていない」


 娘はいつか、結婚するものなのに……なんて言ったら、昏倒してしまうかもしれない。


「あおいの恋人はぼくなんだから。玲なんて、ただのおじさんじゃないか! おじさんおじさんおじさんっ! あー、もうっ。騙された! 軽井沢なんて行くんじゃなかった!」


 ええ? 娘にちょっと冷たくされたぐらいで、そこまで断言する?


「ぱぱ、しーっ。ね、れいおじちゃ?」

「そうだな。類は少し黙っていろ」


 ちゅっと、あおいが玲の頬にキスをした。玲は、あおいの頭をよしよしと撫でている。


「あおい、れいおじちゃとけっこんする」

「な……、なに、それ……!」


 因果応報。


 あわれ、類の肩をたたくのは、涼一だった。


「類くん。あっちで、静かにビールでも飲もう、な。今日はもう、出かけないだろう?」


 涼一は、がっくりとうなだれた類をサンルームに連れ出した。

 さくらを奪った類を、涼一がなぐさめる日が来るなんて、誰が想像しただろうか。


 背中をまるめてのっそりと歩く類の姿が、痛々しくてならない。アイドルモデルのなれの果ては、無残にも愛の敗者だった。

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