第33話 6月のチャペルは雨に濡れて①
旅行の予定が決まったのは六月中旬の、金曜と土曜日の日程。お客さんが多い日曜日は、類がお店を休めない。
当日は、あいにくの雨だった。梅雨だし、仕方がない。
「類くん、新幹線で行ってもいいんだよ?」
車で行こうと言う類に、さくらは提案した。長時間の運転は大変。ましてや、雨の中では。
「車がいい。乗り換え、めんどうだし。人に見られたくないし、ふたりっきりがいいし。車内なら、いつでもさくらを襲えるし。軽井沢での移動にも、車がないとね」
「えーと。途中、論調が一部、おかしかったよ?」
夫婦ふたり旅行ということを、あおいには言っていない。旅行の荷物は、見つからないようクロゼットの奥に隠していた。
それでも朝から、ぱぱとままの様子がいつもと違う、ということにも気がついていたようで、家を出るまで類の周りにずっとまとわりついていた。
どう説明しようか、それとも、なにも言わないほうがいいのか迷った挙句、黙って出かけることにした。たった一日とはいえ、さくらもあおいと離れるのははじめてだったので、とても不安で心配。
今朝、あおいは聡子が保育園に連れて行ってくれた。
急いでいないので、保育園ぐらいは一緒にと思ったけれど、聡子の車が大好きなあおいは、さっさと出かけてしまった。夕方、さくらは迎えに来ないとも知らずに。
「ごめんね、あおい……」
車に乗り込む前、さくらは保育園の方向に向かって謝った。
「だいじょうぶだよ。母さんもオトーサンも、皆もいるし。お手伝いの人も、頼んであるんでしょ」
「うん。でも」
「今日と明日は、ぼくとらぶらぶな恋人どうし、あるいは新婚さんに戻る!」
「……ん」
「よく似合っているよ、服」
今日のさくらは、若い子が着るようなミニ丈の、真っ白いワンピースだった。類が選んでくれた服だが、恥ずかしい。
「照れるよ、こういうの。久しぶりで。一児のママが着てもいいのかなって」
「かわいいよ、とっても。きゅんきゅんくる。今日は何回、さくらを食べちゃうかなあ? 前人未到の新記録樹立かも」
雨は、やみそうにない。
類は安全運転で、最寄りのインターチェンジから高速道路へと入った。
***
途中、休憩を挟みつつ、ゆっくりと進んだけれど、それでも約二時間後には到着できた。
「軽井沢、ほんとうに久しぶり。ブライダルフェアの撮影以来」
大学一年の夏。家族の避暑旅行がてら『いいアルバイトがある』と類に誘われて行ったら、北澤ルイの新婦役モデルをさせられたのだ。その後、CMやらパンフレットなどの宣伝にがんがん使用され、さくらの周辺は一時、騒ぎになった。
あのときの類は、まだ『義弟』だった。
「ああ、京都の最初の夏だね。さくらに逃げ帰られて、ほんと痛い思いをしたよ」
「ごめん……当時を思い出すと、情けない」
「類くんへの気持ちに、気がつくのが遅かったんだよ、さくらは。模擬結婚式を挙げたあの夜に、結ばれていたら……あ、いいや。今の、なし」
「どうして、途中でやめちゃうの。類くんらしくない」
「だって、そうしたら、あおいが生まれなかったかも。かわいいかわいい、あおいがいない人生なんて無意味。想像ができないよ!」
親ばかだなあと思いつつも、さくらも笑って同意した。
「同じ。あおいがいて、よかった」
ブライダルフェアのあとも、類は撮影で何度も軽井沢を訪れている。地理にも詳しい。
「今日、泊まるホテルは、今まで北野リゾートが手がけていた業態とは、ちょっと違うんだって」
父が勤めている北野リゾートは、リノベーション事業を含め、わりと大きい規模のホテルを作ってきた。けれど、父が立ち上げに加わった新しいホテルは、部屋数が全部で十室もない、離れの宿。
従来の、北野リゾートのホテルが建っている隣の敷地を買収し、森のリゾートをコンセプトに作られた和洋折衷仕立て。正式なオープン日は今月の終わりらしいが、内覧を兼ねて関係者や特別招待客は泊まれるようになっているし、予約も絶賛受付中。
入口の門を過ぎても、建造物は木々に隠れていて、なかなか見えてこない。
案内図に沿って数分走ったところで、ようやく、さくらの正面に宿の一部らしき平屋の棟が目に入ってきた。
車を停めると、さっそくスタッフが笑顔で出迎えてくれて、ふたりの荷物を預かってくれた。
空を見上げると、東京にいたよりも、雨が小降りになっている。空の色も、少しだけ明るい。このぶんだと、もうじき止むかもしれない。
類は、ごく自然にさくらと手をつないで歩き出した。
ふだんはあおいとつないだり、だっこしてしまう手を、今はさくらだけに向けてくれている。うれしい。けれど、ここにあおいがいたら、やっぱりかわいい娘が優先なのかなとも考えてしまう。類の、娘溺愛っぷりは半端ない。
「さくら。ぼくのことだけ、考えて」
そして、また見透かされてしまう、さくらの心。
エントランス棟でチェックイン。お茶とお菓子をいただく。水ようかんだった。
今回の旅行費用は、すべて涼一持ちだ。遠慮なく、使い倒せと言われている。
つるりとしたのどごしの水ようかんのおいしさに、さくらはいちいち感動しながら食べているけれど、類は早く部屋にひきこもってふたりきりになりたいようだ。顔に不機嫌を浮かべている。
さくらは、肘で類の脇腹を軽くつついた。涼一のために、辛口採点しなければならないことを忘れているようだ。
『分かっているって』
唇をとがらせながら、類は小声で答えた。
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