第29話 お見舞いという名の敵陣潜入④
五時近く。
夕食と作り置きできる料理を完成させたさくらは、帰り支度にかかった。
さくらは、一度も座らなかった。
明るくて華やかな類と楽しく話ができて、叶恵は気分転換できただろうが、さくらは大切な夫をレンタルした気分になってしまった。
本音を吐き出したあと、叶恵は一度もさくらと話をしなかったばかりではなく、視線を合わせようともしなかった。徹底無視だった。
けれど、なにも知らないさくらに真実を暴露し、動揺させたかったのだと思う。叶恵の告白は、さくらの心深くに楔を打った。
「もう、帰っちゃうの?」
さくらがいるのに、叶恵は類に媚びた。いきなり、全力で来た!
演技なのか、本心なのか分かりづらかったけれど、今では確信に変わっている。叶恵は、類が好きだ。その目は、恋する乙女そのものだった。
「娘を親に預けているので、早く戻らないと娘に怒られしまいます。壮馬さんにも、五時ごろまでと指示されました」
笑顔で拒否する類に、それでも叶恵は類の袖を引っ張った。甘く。
さくらの感情が揺れる。この人が頼りたいのは、類なのだ。『全力でぶつかってこい』と宣言しておきながらも、さくらの心はざわざわしている。自分は弱い。
「類くん、夕食まで店長さんと一緒にいたらどう? あおいには、私がいるし。電車で帰るよ」
しかも、どこまでいいこちゃんなのか。心にもないことが、よく言えるものだ。あきれてしまう。
「ほら、まだいいでしょルイさん? お許しが出た」
自分の前で、人の夫にべたべたするなと言いたいが……言えない。
しかし、類は叶恵の手をちゃんと押し返した。
「ごめん叶恵さん、もう帰ります。さくらにずっと仕事を押しつけちゃったし、このあとの時間はさくらの夫として過ごしたいんです」
信じていても、行動に移さなければ他人には伝わらないのに、さくらはもやもやするだけで、それがまだうまくできない。類は、はっきりと自分の気持ちを訴えた。
「じゃあ、今日はこのへんで。おやすみなさい」
「し、失礼します」
ぎゅっとさくらの手を引っ張って、類は叶恵の部屋を出た。
「行こう、早く。さくら」
車が停めてある駐車場まで、振り返らずに走った。叶恵が追いかけてきたらどうしよう、ふたりとも同じことを考えていた。
急いで乗り込んでドアを閉め、ようやくひと息つけた。
「る、い、くん……」
息が上がってしまった。いろんな意味で胸がどきどきしている。
「ごめん、さくら。ほんとにごめん。今日、連れてくるんじゃなかった。ぼくも行くんじゃなかった。次は、ほかの人に頼む。もう、だめだね。叶恵さんが望んでいる関係は、上司と部下じゃない」
黙って、さくらも頷く。つらかった。でも、叶恵と話せてよかったと思う自分もいる。さくらはとても恵まれた環境にいる。だけど、できていないこともたくさんある。
「母さんに、すぐ報告しよう。あんな感じの人じゃなかったのに」
「事件のせいで、気が弱くなっているんだよ、きっと。類くんにまとわりつくのは許せないけれど、かわいそうな人」
「ずいぶん、叶恵さんに同情的なんだね。ぼくが、奪われちゃってもいいの?」
「いやだよ!」
「じゃあ、毅然とした態度を取ろう。このままじゃ、偽善者になっちゃうよ。自分に嘘をつくのはやめよう。ぼく、ピーマンは食べられないし! 部屋じゅう、ピーマンのにおいが充満していて、耐えられなかった……ああ、しんどかった……!」
……え、ええ? 類のポイントは、そこ? メニューにピーマンが入っていなかったら、まさか食べて帰った?
ときどき、ズレているなあって思う。でも、重苦しい空気を変えるための軽い冗談だよね……真顔だけど。
叶恵と話していて、分かったこともある。
自分は類がとても大切だ。誰にも渡せない。類と一緒にいたい。となりを歩きたい。すれ違ってしまうこともあるけれど、類との時間はなにものにも代えられない。
夕方の帰宅渋滞に少し巻き込まれたものの、ふたりは無事に帰宅した。
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