第22話 深夜の呼び出し①

 これからのことを夫婦でよく話し合う必要があるのに、時間が取れないまま、過ぎてしまっている。


 類の帰宅は遅いし、休みも合わない。

 さくらも仕事と育児と家事に追われ、考えたくないことは後回しにしてしまう。

 夫婦で、子どももいるのに、相手の気持ちが分からない。分かってもらえない。分かってほしい。分かりたいのに。


 今夜も、類が帰ってきたのは深夜だった。本社では残業禁止なのに、店舗勤務の社員は激務だった。

 この生活が続くかと思うとぞっとするけれど、いずれ上に立つ人間として、類は今の仕事を通過しなければならない。


 そして困ったことに、どんなに遅くても、疲れていても、ほぼ毎晩、類はさくらを執拗に求めてくる。

 愛されていることはうれしい。だけど、よく休んでほしい。

 若いからだいじょうぶと言われるけれど、類はモデル時代に過労で倒れたこともあるし、とにかく心配だった。


「じゃあ、さくら。そろそろ寝よっか。今夜は、どんなふうに愛してあげようか」


 類がそう言いかけたとき、類の電話が鳴った。けれど、無視してさくらにキスをする類だったが、何度も鳴る。

 さくらといよいよこれから甘い濃密な時間を、というときにじゃまされた類は、不機嫌になって電話に出た。画面に表示された字が、ちょっと見えてしまった。発信者は、叶恵店長だった。


「……ええ……はい」


 同じ部屋にあおいが寝ているので、類はベッドから離れて立ち上がった。あわてて、さくらは全裸の類を追いかけてガウンを着せかける。類はそのまま、寝室を出ていった。


 最近、店長からよく連絡が入るけれど、こんな遅い時間にかかってくるのは、はじめてだった。なにか、あったのだろうか。さくらの胸に、不安が走る。


 類はすぐに戻ってきた。


「店に行く」


 さくらは耳を疑った。すでに、一時近い。


「これから店に行く。吉祥寺店に、強盗が入ったらしいんだ」


 そして、また着信。


「ああ、母さん。うん、今から見てくるよ。あとで報告する。母さんは休んでいて」


 今度は聡子からだった。


「……ということで、悪いねさくら。途中というか、愛撫をはじめたばかりだったけど」

「ううん。気をつけて」

「様子を見たら、すぐに帰って来る。あーもう類くん、不完全燃焼。絶対に、続きをしよ☆」


「強盗って、やっぱりお金を?」

「だろうね。詳しいことは、まだ分からない。でも、商品もなくなっているかも。そのへんは、保険に入っているからいいんだけど……」


 類は少し考え込んだ。


「けど?」


「ん。なんでもない。とにかく、行ってくる。さくらは寝ていてね。だいすき」


 甘いキスで、ごまかされてしまった。こういうときの類は、なにも語ってくれない。


 さくらは類の着替えを手伝い、送り出した。

 すごく、ざわざわする。とてもいやな感じだった。


***


 さくらは、類からの連絡があるかもしれないと思い、待っていた。

 気になって、眠れなかった。類は疲れていたのに、車の運転はだいじょうぶだっただろうか。お店はどうなっていたのだろうか。


 しかし、自分の仕事もあるので、とりあえずベッドに入った。飲み会だった類を待っていて叱られたという同じ失敗をしたくない。

 ようやくうとうとしかけたのは、外が明るくなりかけたころだった。


 それでも、類は帰って来ないし、連絡もなかった。


***


 六時半。

 目覚まし時計が鳴った。強制起床の時刻。

 あおいはまだぐっすりと寝ているので、起こさないようにそっとベッドを抜けて、とりあえずリビングへ移動。


 身体が重い。寝た気がまるでしない。大きく、伸びをする。


 強盗事件が、インターネットでニュースになっているかもしれないと思い、検索してみる。が、出てこない。聡子に連絡してみようかとも考えたが、たぶん忙しいだろう。今のさくらなんて、下っ端の社員でしかない。


 でも、類は必ず帰ってきてくれる。戻る場所はここしかない。

 いつものように、さくらはお弁当をふたつ作る。自分のと、類の分。

 七時ごろ、あおいが起きてきた。類がいないことを除けば、いつもの朝だった。

 出勤と保育園の準備を再確認し、部屋のドアを開ける、そして施錠。あおいが小さな手でエレベーターの下ボタンを押した。


 ドアが開くと、そこにはまさかの類の姿があった。


「ぱっぱ!」

「ああ、おはようあおい。これから保育園だね」


 そう言いながらあおいを抱き締める類の目は、充血していて赤かった。ずっと、強盗対応していたのだろうか。


「おかえりなさい、類くん」


 聞きたいことは山ほどあるけれど、さくらはそう言うのがやっとだった。


「うん、ただいま。今日、ぼくはお休みになった。このあと、少し寝るよ」

「おつかれさまでした。類くんの分のお弁当、ダイニングのテーブルの上にあるから、よかったら食べて?」

「ありがとう、助かる。お昼にいただくよ。さすが、ぼくの奥さんだね。夜ごはんは、ぼくがなにか用意しておくね」


 ちゅっと、類はさくらにキスを仕掛けてきた。


 いつもなら、甘いはずのそれが、今朝はやけに苦かった。なんだろう、焼けたような、焦げたような匂い……煙くさい……もしかしてこれは、たばこ?

 類はたばこを吸わない。なのに、類からその匂いがするなんて、異常事態だった。


 驚いて、さくらは類の身体を突き飛ばした。ちょっと力が入ってしまったので、強かったかもしれない。


「ごめん。もう、しごと……いくね……?」

「ん。がんばって」


 どうやら類は、さくらが照れて、しかも急いでいると勘違いしたらしかった。一度も振り返らないまま、ドアの鍵を開けて室内へと消えていった。


 さくらは、ドアが最後まで閉まるのを見守っていた。内側から鍵のかかる音も聞こえた。

 ぎゅっと強くあおいの手をつなぎ、さくらも待機中のエレベーターに乗り込む。


「ぱぱ、へんなにおいした。におい」


 ひやっとした。どきりとした。

 あおいも、唇をとがらせて不満そうにしている。いつも身ぎれいで、さわやかな香りなので、よけいに違和感があった。


「なんだろうね。ぱぱ、くたびれていたのかも」


 連絡なし→朝帰り→たばこ……? 胸騒ぎが、ひどくなった。

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