第16話 シバサキファニチャー吉祥寺店オープンです③

 さすが、というべきか、聡子社長は『ルイとの握手を求める長蛇の列』という、イレギュラーな事態にも笑顔で手早く対応し、類の『握手会』は二十分で終わった。

 さくらのすることは、ほとんどなかった。



 説教する時間はないのだが、店長と類は従業員の休憩室に呼び出された。


 話の概要は、以下の通り。

 開店当日、つまり今朝早く、SNSで『シバサキの吉祥寺新店でお買い物をすると、この春から社員になったモデルの北澤ルイが接客してくれる』というデマが拡散したのだという。『先着百人』と、制限もついていたので、従業員が出勤したころには噂を信じたお客さんで、すでに行列だった。


「もちろん店長は、列を解散させようとしました。ぼくが、売り上げも上がるし、おもしろいからやっちゃえって後押ししたんです。百人のお客さんに接すればいいだけですし。千人だったらやめたけど、百人ぐらいなら、サイン会とかでも軽くこなししていた数。余裕だねって」


 ああ……と、うなったあと、聡子は頭をかかえた。


「類、あなたって子は……並んでいる人の話だと、ひとり十万円のお買い物をしたら、ルイくんと握手できるってことになっていたわよ」


「ええ? 十万!」

「知りませんでした」


 そこまでは知らなかったらしい。類も店長も驚いている。


「でも、今年の話題ナンバーワンの函館店に負けたくなかった。せめて、売り上げの数字だけでも」

「デマって、怖いの。よく、心して。今後、北澤ルイを利用するスタンドプレーは、一切禁止」

「どうりで、列が進むにつれて、レシートの金額を確認するたびに高くなっているなって感じてはいました。社長、このたびはお騒がせして申し訳ありませんでした」


 店長が頭を下げたので、類もそれに従った。


「社長。申し訳、ありませんでした!」

「あなたたちは処分対象。じゃあ、私はもう少し叶恵店長に話があるので、類は持ち場に戻って。さくらちゃんも、席を外してくれる? 店内を見学していてね」

「はい」


 さくらと類は、今日はじめて、視線を絡めた。


***


 休憩室の外。売り場に続く、長い廊下。両脇の棚には、お店の備品や商品が積み上げられている。


「さくらもいたんだね、気がつかなった。変なとこ、見られちゃったかも」

「……うん。いろいろ、驚いた」

「あおいも、お店まで連れてくればよかったのに」

「父さまと皆くんとで、井の頭公園で待機しているの。動物園、行くんだって。このあと、合流するつもり」


「ふうん、動物園かぁ。ま、母さんに怒鳴られているパパの情けない姿なんて、見られないほうがよかったか、結果的には。オトーサンが、ふたりも面倒を見ているんだ? 大変だ、早く行ってあげなきゃね」

「ん」


「あおいは、動物がすごく好きだから、はしゃいでいるだろうなあ。ぼくも行きたかった」

「……ん」


「今度、三人で水族館へ行こうよ。動物の次は、水の生きもの」

「そうだね。行こう」


「なんか、さっきから反応薄くない? どうしたの、さくら」


 類が、さくらの両肩を、ぐっとつかんで強引に身体の向きを変えさせた。


「や……ここ、仕事場」


 逃げたくても、通路は幅が広くない。無駄に動いたら、棚の商品にぶつかってしまいそうだった。


「さくら。こっち、見る。もしかして……ぼくのこと、避けている? 態度が変」

「そんなことない! 類くんが心配で、見に来たんだけど……じゃま、したかなって、思って」


「じゃま? なんで」

「だって……」


 言い淀むさくらの唇を、類は塞いだ。


「逢えてうれしいよ。だいすきな、ぼくのさくら。不意打ちのキスもいいね」

「こんなところで。誰かに見つかったらどうするの」


 さくらは懸命に類の唇から離れようと、左右に首を振ってがんばるけれど、やっぱり類のほうが何枚も上手。


「来てくれてありがとうのしるし。見られても構わない。夫婦なんだ」

「でも仕事中でしょ、類くんは」

「ま、これぐらいいいでしょ。このあとの活力補充? 売り場を案内しようか」


 笑顔の類はとてもかわいくて、痛いほど心にしみてくる。キライになんてなれない。


「いえ、いい。私が類くんを独占したら、みんなの仕事に差し支えがあるよ」

「えー。さくらのくせに、控えめだね。つまんない」


「遠くから、類くんががんばって働いている様子を見させてもらう」

「遠くから見ても、近くから見ても、かっこいいだけだよ?」

「うん、そう思う」


「仕方のない子だね。類くんにベタぼれで。じゃあ、ここで。あおいのこと、よろしくね。なるべく早く帰れるようにする」


 店内の混雑を見れば、早くになんか帰宅できないだろうと思う。けれど、さくらには類の気持ちがうれしかった。


「待っているよ」

「がんばる。今夜は、さくらがほしい。すごく」


 そう言いながら、類はもう一度さくらにキスをした。


 今度は、先ほどよりも長く甘く、深いキスだった。

 つい、さくらも我を忘れて類の首筋に腕を回して応える。離れたく、ない。身体がじわじわと熱くなる。


 だからって、キスなんかで許せない。だまされない。

 なのに、類との思い出が頭の中を駆けめぐる。はじめて逢ったときのこと、朝帰りしたこと、ホテルに一泊した黒歴史。京都まで追いかけてきてくれたこと。模擬結婚式。結ばれた夜。婚約。あおいを身ごもったとき。入籍。

 類も、人気絶頂の清純派アイドルモデルの地位を捨て、さくらとシバサキを選んだ。


 ほしい。もっと、類くんがほしい。満たされたい。大切にされたい。私だけを見て、笑いかけてほしい。すきって言ってほしい。かわいいって思ってほしい。いつも一緒にいたい。誰にも渡したくない、あおいにさえも。

 どうしよう、やっぱり……どうしようもなく、類くんがすきなんだ。

 類くんを選んだのは、私。しっかりしなきゃ。これぐらいで、へこたれてどうする?



 しかし、至福のときは長く続かない。


 休憩室のドアが急に開き、聡子と店長にばっちり見られてしまった。


「相変わらず、熱烈ね。母としてはうれしいけれど、ここは職場。しょ・く・ば!」

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