第13話 心に響く声
夫の、類に言われた。兄の、玲にも言われた。
「だからってわけじゃないけれど」
土曜日の午後。さくらはあおいのお世話を類にお願いして、産婦人科へ来ていた。
『KATAKURAレディースクリニック』。
片倉史人(かたくらふみひと)医師の病院である。
伝説のアイドルモデル『北澤ルイ』のマネージャーだった片倉は、医師免許を持っていた。ルイのでき婚の責任を取って事務所を退職し、京都で父母が開いている片倉医院を本拠に、さくらの出産も助けてもらった。
その後、片倉は東京の品川にもクリニックを開設。平日は他スタッフが診察を行っているけれど、土曜日ならば片倉本人が対応してくれる。ただし、お産は受け付けていない。
「こんにちは、さくらさん。お元気でしたか」
「お久しぶりです」
片倉は、変わらない笑顔をさくらに向けてくれた。営業用の顔だと分かっていても、うれしい。ありがたい。
「当院の検査結果によりますと、さくらさんは妊娠しておられないようですね」
「そう、ですよね……やっぱり」
「確信でもありましたか」
「はい。でも、類くんが一度診てもらって来なさいと言うので。で、実はその……」
さくらは、年の離れた弟・皆に授乳していることを告白した。
皆は、聡子たっての希望で、京都の片倉医院で生まれている。生後ひと月は、さくらと類のマンションで静養した。
片倉は、ややこしい柴崎家の血縁関係や経緯も旧知で、相談しやすい。
「皆くんに、授乳ですか! んー……類は、第二子以降を絶賛熱烈希望ですよね、早いうちに。ご存知かと思いますが、授乳中は体内で妊娠しづらいホルモンが生成されるので、好ましくありません」
「皆くんが泣いていると、胸がぎゅーっとなってしまって、母乳がにじみ出てくるんです」
「子どもが泣いていると、女性の身体は自然と反応してしまうようにできています。さくらさんは、母性が強いのでしょう」
「でも、私は仕事をしたくて。もちろん、類くんを支えたい。仕事が終わったら、早く帰りたくなるような家庭を作りたい。日々、成長するあおいを見守るのは楽しみです。きょうだいがいたほうが、あおいのためにもなるだろうとは思うんですが……これは、単なるわがままでしょうか」
片倉は頷いてさくらの話を聞いてくれた。
「そういう方は多いですよ、家庭と仕事に挟まれてしまう女性。類の言い分もよく分かります。さくらさんの意見ももっともです。まだ若いのですから、焦らずによく話し合ってください」
さくらの耳に、胸の奥に、片倉の声は心地よく響いて届く。
素直に聞けた。
「私は、さくらさんの心を尊重します。一回だけのあなたの身体、あなたの人生です。類を選んで結婚したときのように、もっと貪欲になりましょう。類が言ったから、あおいちゃんのために、皆くんがかわいそう……ではなく、まずはさくらさんが、あなた自身を大切にしてください。そうでなければ、なにを選んでも後悔しますよ」
類とぶつかりたくない。あおいに嫌われたくない。皆を泣かせたくない。
このところずっと、そんな思いに縛られていた。
「ありがとうございます。そんなふうに、私を肯定してくださって」
「いつでも相談に来てください。私は、さくらさんの味方ですよ。類は、あなたを深く愛しています。きっと、分かり合えます」
今の気持ちを、類に正直に話してみたい。
ふたりきりで、どこかへ行きたい。
片倉のことばは、凝り固まっていたさくらの心を少し、融かしてくれた。
***
その夜。
妊娠ではなかった、身体に異常もなかったと類に報告すると、残念そうな顔をしていたけれど、そっと頭を撫でてくれた。
「おつかれさまでした。身体、大切にしてね」
「うん……類くんも」
類の仕事がとても忙しい今は、まだ言えない。もう少ししたら、自分の気持ちを話したい。
さくらは類の頬に、そっとキスをした。
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