第9話 気持ちは同じはずなのに②
さくらは泣き腫らした目のまま、保育園にあおいを預けて出社すると、総務部は異様な雰囲気に包まれていた。さくらのことを、みんながじろじろと見てくる。
自分の机に向かうと、その意味が理解できた。
写真。写真写真写真写真。空中庭園の、ランチ写真。さくらと高尾壮馬。
「え……」
昨日、類が見せてきた画像と同じものが大きく引き伸ばされ、さくらの机に置いてある。同じものが、十枚ぐらいあるだろうか。楽しそうに、ランチを食べている自分と上司。
ただ、それだけなのに。
同じ部の先輩や同期は、遠巻きにさくらの様子を眺めていた。誰も、助けてくれない。助けようがない。対応に困っている。さくらも、どうしていいか分からない。
ああ、こういうことなんだ、類がおそれていたことは。
「さくらさん」
不意に声をかけられ、はっと振り返ると壮馬マネージャーがそばに立っていた。
「お、はよう、ございます……」
「おはようございます。社長の呼び出しがかかっています。ここはいいですから、行きましょう。誰か、これ片づけておいて!」
壮馬はエレベーターホールへ向かって歩きはじめたので、あわててさくらもあとを追った。
視線が痛い。
社員たちが、遠慮なくさくらを見てくる。うつむきがちに歩いていたが、社長室直通のエレベーター内はふたりきり。
重苦しい雰囲気を断つように、壮馬のほうから話しかけてくれた。
「気にしないで。やましいことは、なにもありません。私も、堂々としていることに決めました。この件は、出社して知りましたか?」
「……写真を撮られていたことは、昨日のうちに。類くんが、転送されてきたという画像を見せてくれて、少し……揉めました」
「それで、今朝は目が真っ赤なんですね。面会が終わったら、医務室へ行って目薬をもらってくるといいでしょう」
「はい……」
社長室フロアには、すぐ到着した。壮馬が社長秘書に用件を伝えると、すぐに通された。
室内には先客がいた。壮馬の上司、布田大吾(ふだだいご)。シバサキの内務を取り仕切る、ゼネラルマネージャー(統括部長)略してGM、である。つまり、社内ではけっこうえらい。
「ですから社長……っ!」
唾を飛ばさんばかりの勢いで、向かい側に座っている聡子に、なにごとかを訴えている。
聡子は腕を組んだまま、布田の言い分をじっと聞いていた様子だったが、さくらと壮馬の入室に気がつくと、笑顔になって立ち上がった。
「おはよう、壮馬くん。さくらさん」
壮馬が一歩前に出て、聡子に最敬礼。
「聡子社長、おはようございます」
「おはようございます」
さくらも続けてあいさつした。
聡子に抱きついて泣きたいけれど、ここは会社。今は勤務中なのだ。
「朝から悪いわね、来てもらって。私が下りていければいいんだけど」
「社長が、そんなことをする必要はありません! さあ、お前たちも社長に謝れ! 社内を騒がせた、張本人どもよ」
……布田GMは、保身に走っている。
そんなことばが、さくらの頭の中をよぎった。部下の不倫騒ぎに迷惑極まりないといった顔つきで、さくらたちを厳しくにらんでくる。
「私たちは、昼食を一緒に食べていただけです。それ以上でも、それ以下でもありません。それに、新しい環境に慣れていない部下に気をかけるのは、上司として当然の振る舞いだと思います」
「高尾、お前……社長のお気に入りだからって……!」
「まあまあ、ふたりとも。今回のことは、いい勉強になった。社内で、類とさくらちゃん……いえ、類さんとさくらさんが、とても注目されているのよ。うれしい誤算」
「しかし、こんな浮ついたことが、また起こったら」
「それは言える。さくらさん、常に誰かに見張られていると思って、日々行動してね。傷つくのは、類とあなた。壮馬くん、さくらさんを心配してくれてありがとう。どちらかを配置換えになんてしないから、今後もよろしく。犯人も捕まえてあるし、反省しているようなので、この件はこれでおしまい。はい、仕事に戻って!」
聡子は数回、手をたたいて退室をうながした。布田と壮馬は下がったが、さくらは食い下がった。
「社長、少しだけお話があります。お時間、取れませんか?」
次の仕事にかかろうとしていた聡子は一瞬考えたが、そばに控えていた秘書に予定の変更指示を出した。
「十五分、今日のスケジュールを繰り下げて」
「しかし社長、それでは昼食時間がなくなります」
「いいわよそんなの、移動中にでも適当に済ませれば。じゃ、さくらちゃんとふたりきりにしてちょうだい」
人払いをすると、社長室にはさくらと聡子だけになった。
「どうぞ、あまり時間がなくてごめんね。もし、長くなりそうなら今夜にでも」
用件を、すぐに言わなければ。聡子は忙しい。でも、焦るとうまくことばが出てこない。
「……わ、たし。みんなの、じゃま……ですよね。類くん、ほんとうは函館店へ行きたかったそうです。布田GMも壮馬さんも、みんな被害者です。私が会社を辞めて専業主婦になれば、いいんだなって思います。社長の娘で類くんの配偶者だから、許してもらえているけれど、仲よくしてくれる人はいません、ひとりも」
聡子は、さくらの肩をたたいた。ぽんっと。
「さくらちゃん。気持ちは分かるけれど、弱音は吐かないで。さくらちゃんに働いてほしいと思ったから、うちに入社させたのよ。あなた自身が、壁を作っていることに気がついて。思い切って、社員の中に飛び込んでみなさい」
「でも、私がいることで、多くの人が傷ついています。もう、いやです。こんなの。くるしい」
思い切って心の内を吐露したけれど、聡子はなぐさめてくれなかった。
「……そう。いやなら、辞めてもらってかまわない。暗い顔のさくらちゃんは、うちにはいらない。今のさくらちゃんの代わりなら、いくらでもいるし。ま、急ぐことではないから、よく考えて。そんな考えで専業主婦になっても、きっとうまくいかない。ママ友とのお付き合い、学校の委員、子どもの習いごと、類のサポート……大変なことは、たくさんある。苦しいからって、簡単に逃げないで」
冷たいのではない。企業人として、母として、当然のことばだった。
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