第7話 その未来設計図、困ります

 社内がざわついていた。

 営業部で研修していた新入社員に、一斉辞令が出た。さくらも、人事発令の行われている会議室を、つい覗いてしまった。


「類くんは、予定通り吉祥寺の新店に配属」


 人事部の総括部長(ゼネラルマネージャー)から、辞令をもらった類。

 その横顔は、引き締まっていて凛々しくて端正で涼やかで、以下略。


 モデルもよかったけれど、普通のサラリーマン姿も、まじ似合うんですけど!


***


 辞令発令の日の、夜。

 類は、同期のお宅におじゃまして家飲みして帰る、とのことだったので、さくらはあおいのお世話と家事をしながら夜が更けた。


「ただいまー」


 時刻は、十一時を過ぎている。


「おかえりなさい、類くん」

「ふたりとも、いいこにしてた?」

「うん。おつかれさまでした」


 ぎゅっと抱き締めて、キス。吐息がちょっとお酒くさい。でも、我慢。


「あおいはもう寝ちゃったよね。残念」


 ジャケットを脱ぎ、ネクタイを外してソファの上に投げる。


「さくら、おふろまだなんだ?」


 パジャマではなく、部屋着のままのさくらに向かって類がほほ笑んだ。


「うん。あおいを寝かせるのに、手間取っちゃって」

「じゃあ、久しぶりに一緒に入ろうよ。さくらのいい声、聴きたいし、ね?」


 それって、普通の会話の声を指しているいるんじゃないよね? しかし、類はさくらの思惑などお構いなしに服をどんどん脱いでゆく。


 そっと、さくらは寝室に戻ってあおいの様子を見た。ぐっすりと眠っている。しばらくは、だいじょうぶそうだ。たまには、思いっきり夫婦の時間がほしい。


***


「久しぶりだね。こうやってふたりで入るの。いつもは、あおいと一緒だから。あとで、よーく洗ってあげる」


 バスルームに類の声が響く。さくらは類の胸に顔を乗せた。


「うん……あったかい」

「なんで入浴剤を入れるかな。お湯が濁って、さくらの肌がよく見えないじゃん」


 ばちゃばちゃと、類が不満そうにお湯をたたいた。


「だって、明るいし、恥ずかしい」

「たまには、よーくよーく見せてよ。うふふ、胸が大きいね。さくらの胸じゃないみたい」

「それは……皆くんに授乳しているからだよ。あおいのときもそうだったでしょ?」


「まあ、ぼくの努力も大きいけどね! ぼくと結婚できなかったら、ずっとチ美乳のまんまだったよ」


 チビ乳……うう。反論できず、さくらは湯に沈んだ。類好みの、今の胸の大きさは、期間限定。皆への授乳をやめたら、次第にもとに戻るだろう。


「……辞令発令、見ていたよ」

「うん。気がついていた、さくらのこと。仕事中に、覗きはだめだよ」


「ごめんなさい。でも、予定通りだね。社内でも注目の、吉祥寺店。これから、忙しそう」

「そうだね。楽しみだけど、ちょっと残念」


「ざんねん? 吉祥寺店が? 関東圏では、今年最大規模の出店計画なのに?」

「ほんとうは……函館、行きたかった。こいつ、ちょっとデキるなって思っていた同期に、函館店への辞令が出たんだ。こんなことなら、母さんに言って下工作をしておけばよかった」

「北海道だよ。遠いよ? 行き……たかったの?」


 函館赴任を潰した張本人であるさくらは、心を痛めた。


「だって、おもしろそうじゃん。観光地で家具が売れるのか。おみやげ+家具の融合。地方勤務、ぼくには無理だけどね。同期のあいつ、独身だし。ぼくには、さくらとあおいがいる。東京へ帰ってきたばかりだし、単身赴任なんて、もってのほか。でも、ほんとうは……」

「ほんとうは?」


「こういうこと、言ったら失礼なのかもしれないけど、ぼくの希望として伝えておく。さくらには専業主婦になって、家事と育児でぼくを支えてほしい。ずっとじゃなくていい。子どもが大きく、そうだなあ、小学校を卒業するぐらいまでかな。あと何人か生むとしても……十五年?」


「あと、じゅうごねん? 家にいろと?」


 意外な提案だった。


「母親が仕事仕事じゃ、子どもがさみしいって。幼いころ、ぼくもそうだったし、さくらもそうだったでしょ」

「それは、そうだったけど、でも類くん、私は」

「分かっている。さくらも夢を追いかけたいって。スタートは遅くなっちゃうけど、もともとさくらは勉強ができるし、がんばり屋さんだし、いずれ追いつくよ」


「あのね。悪いんだけど、あおいを生んだときに大学を一年休んだから、私はすでに社会人デビューが遅れているんだよ? 大学に一緒に入学した同級生は、この春で社会人二年目。大きなプロジェクトに就いている子もいるし、海外勤務になった子とか、後輩を指導している子もいて」


「さくらは焦らない。四十歳ごろに社会復帰して、そのあと二十年、働けばいいんじゃないかな。六十で、会社は弟の皆に任せて引退して、残りの人生は、ぼくと過ごす」

「話が、違う。私、たくさん働きたい。あおいを、いい加減な気持ちで育てるつもりはないけど、でも」


「じゃあ。なおさら、早めにぽんぽん生んで育てちゃおう、ね?」


 類は、さくらの身体の上に、おおいかぶさって肌を重ねてきた。


「だ、だめ。待って。困る」

「解禁したでしょ、子作り」


 一緒に、さくらの夢を追いかけようって、言ってくれたのに。

 さくらが家を建てて、類が家具を選ぶって。


 さくらの思いとはうらはらに、ちゃぷんちゃぷんと湯が跳ねる。


***


 類は、店舗への辞令が出てからは本社へは出社せず、オープンまで半月ほどの吉祥寺新店へ通勤するようになった。『店長補佐』とかいう微妙な肩書きなのは、短期間しかいない、ということを暗示しているらしい。



 しばらくの間、さくらはあおいとバス通勤をすることにした。


「あおい、あっふしゅき!」

「んー。『あっふ』? あっふじゃなくて、バスだよ。バ・ス」


「あしゅ……?」


 さらに、遠ざかってしまった。

 しゃべり出すのは早かったが、あおいの発音はまだまだあいまいだ。


 類の運転する車も喜ぶが、公共の乗り物はまた別らしい。外ではぐずることがない『外面姫』なので、さくらとしても安心だった。家の中や知っている場所では、まあアレですけど。類、そっくり……。


 いちばん前の席が空いていたので、あおいと一緒に座る。


「でもね、ぱぱとは、のりたくないの」


 あおいは、急に語りはじめた。さくらはあおいの小さな手を握ったまま、じっと聞いている。


「ぱぱのこと、みーんな、じっとみるの。いやなの。あおいのぱぱなのに!」


 類が超有名芸能人だったということを、あおいは理解できていない。


「うーん、類くんはかっこいいからね。普通、見るよね。みんな」

「でも、ぱぱは、あおいのぱぱだもん。かいしゃいんだもん」


「類くんはね、モデルさんだったんだよ。本に載ったり、テレビに出たり」

「ぱっぱは、あおいのぱぱなの! るいくんじゃない!」


 ……娘、強し。



 なのに、自分はとても弱い。

 類に、『あと十五年は主婦で家に固定』と言われても、反論できない。

 母の聡子も最後にもうひとり、がんばって生みたいらしい。皆はかわいいけれど、女の子もやっぱりほしいそうだ。


 そうしたら、自分は主婦で乳母? 自分で蒔いた種とはいえ、どうしよう?

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