第6話 両親の部屋・団欒
問題の『仕分け』は後回しにするとして、まずは荷物を置き、着替える。
あおいは駄々をこねて、父の部屋に入り浸るだろう。娘の着替えを持ち、さくらはさらに上階を目指した。
柴崎涼一・聡子夫妻の部屋は、マンションの最上階にある。眺めのよさと、広いサンルームが目玉。室内の家具は、全部シバサキ製品。
家事が苦手な聡子のために、ほとんど毎日業者さんが来ているらしいので、モデルルームみたいにいつもきれいだ。以前は、さくらが多少手伝っていたけれど、会社へ行くようになってからは、自分の家のことだけでせいいっぱいの状態。
インターホンを押す前から、きゃっきゃとはしゃぐあおいの声と、赤ちゃんの泣き声とが、かすかに漏れ聞こえている。声、大きいよ……。
「おかえり、さくらー! 待っていたぞ」
エプロン姿の父が出てきた。このまま、主夫になれそう。
「ただいま、父さま」
「皆くん、泣いちゃって。なんとかしてくれー!」
育児から遠ざかっていた父にしてみれば、皆は未知なるモンスターである。
「おむつじゃないの?」
「類くんが取り替えてくれたんだけど、だめなんだよ」
「じゃあ、おなかが空いて……」
「そうなんだ。よろしく頼む。偉大なる、乳母よ!」
「おおげさ」
リビングに足を踏み入れてみれば、スーツのジャケットを脱いだシャツ姿の類が、困った顔で皆をだっこしてなだめている。あおいも大声でだっこを所望しており、ちょっとしたカオスだった。
「類くん、代わるよ。あおいの着替え、お願いできるかな?」
「ん。お願い、さくら」
類があおいの手を引いて、ソファ横に移動。さくらは皆をだっこして、別室へ。
「ごめんね、泣かないで皆くん」
そう呼びかけて、さくらは自分の上着を半分ほど、たくしあげた。
皆は、さくらの乳房にむしゃぶりつく。ごくごくと、吸われる感覚がある。ほっとした。さくらの胸も、だいぶ張りはじめていたところだ。
だめだなあと思いつつも、さくらは、弟の皆に授乳している。
皆が泣きやまなかったとき、どうしようもなくて、ためしに一度、吸わせてみたら吸ってくれたのだ。しかも、涸れていたはずの母乳が出てきた。
あおいの授乳はわりと長かったけれど、それでも一年前までだった。とうに、卒乳していたというのに。人間の本能って、母性ってこわい。
懸命に乳を吸う、皆はかわいい。自分で生んだかのような錯覚におそわれる。いろいろな表情が出てきて、人間の赤ちゃんらしくなってくる時期だ。
左右五分ずつ、きっちり頬張った皆は、縦だっこをして背中をとんとんすると、満足そうにげっぷをした。
リビングに戻ると、あおいが駆けてきた。
「ままー。かいくん、おなかいっぱい?」
「うん。ごきげん。にこにこしているよ」
あおいは着替えさせてもらったようで、部屋着だった。類もラフなチノパン姿だった。いったん、部屋に戻ったらしい。
「さくらはみんなのママだね……妬けるし」
恨めしそうにさくらを見てくる、類。
「ぱぱも、ままのおっぱい、ちゅっちゅ、きのうもしてた。ぱぱも、あかちゃん!」
「な、なに言うんだよ! あおいだって、この前までちゅっちゅしていたじゃん!」
涼一が聞いているので、類はむきになって反論した。
「……そうか……類くんは、赤ちゃんプレイを……」
「ち、ちがうってば。さくらが、おっぱい張って痛いっていうから、吸ってあげたの。オトーサンも、たまには抜かないと、もやもやするでしょ? ほら、動物的生理的なアレだよ」
「ちょっとやめて、夜の会話は!」
「そ、そうだ。子どもの前で! さくら。類くん。夫婦の夜活は、くれぐれも子どもの目に触れないところで頼むよ! さあ、お父さん渾身の『塩』焼きそばで、いただきますを『しお』う?」
あ……雰囲気を変えようとして涼一は、塩焼きそばの『塩』と、いただきますを『しよ』うをひっかけたようだが、反応は薄かった。
***
皆をベビーベッドにそっと寝かせ、席につく。
「え、あおいも焼きそば?」
さくらは面食らった。
「あおい、じいじのやきちょば、ちゅき」
そりゃあ、味濃いから。ん?
「え、食べたことあるの? ちょっと待って。キャベツ、まだある?」
主婦・さくらは、冷蔵庫の野菜室からキャベツを取り出し、適当な大きさにちぎってレンジで一分間チン。それを、あおいのお皿に載っている焼きそばと合流させる。くるっとかき混ぜれば、野菜多めの焼きそばに変身。
あおいの分だけ、麺を短く切ってくれて、食べやすくしてあるところは、よかった。
「はい、どうぞ」
「いただきまーしゅ」
「おつかれさまー」
「かんぱーい」
さくらとあおいは、焼きそばとお味噌汁。
類と涼一は、缶ビールをぷしゅっと空けた。
「かーっ、いいねえ。仕事終わりに、家ビール」
「だろう?」
「なんであんな苦そうな匂いのする飲み物を、おとなは好んで飲むのかって不思議だったけど、ハマるね! 炭酸が、きゅーって喉にしみるの」
「だろう、そうだろう? うん、うん」
涼一は枝豆に手を伸ばす。
あの北澤ルイだった過去を持つ類はどこに行っても目立ってしまうので、普通に飲み歩けない。いつになったら、外食が気楽にできるのだろうか。
個室のあるような格の高いレストランはおいしいけれど、緊張してしまうし、幼児連れではそうそう何回も行けない。
あおいはお箸がまだ上手に使えないので、フォークを使って焼きそばと格闘している。三歳なりたてにしてはがんばっているけれど、たまに手づかみになってしまう。
さくらは自分の分を食べ進めつつも、あおいの食事のフォローが中心になる。
そんなさくらを見て、類はいつも助けてくれる。
「あおい、ぼくの膝の上においで。食べさせてあげる、ね?」
さくらに目配せをする類は、いつでもかっこいい。自分はあほかと思いつつ、でもやっぱりどきどきしてしまう。
あおいは喜んで類の席に移動する。ふたりには申し訳ないけれど、ようやくほっとしてごはんを食べはじめることができた。
「父さまは、午後休だったの?」
会話する余裕も出てくる。
「ああ。ゴールデンウィークに、だいぶ休日出勤したんでね。軽井沢への出張もあったし」
連休中、皆はほとんどさくらの家にいた。聡子も仕事が多く、これといって出かける予定もなかったさくらが、積極的に引き受けた。
お弁当を持って、近所の公園で一日過ごすだけで、あおいは大満足だった。もう少し大きくなったら、旅行にも行きたい。たくさん。たくさん。
あと五年もすれば、世間様もさすがに、北澤ルイの記憶は薄くなるだろう、きっと。だから、焦らない。
***
「ただいまー。あらまあ、みんな揃って」
そのタイミングで、聡子が帰宅した。
「おかえり、聡子」
「おかえりー」
「お帰りなさい、お母さん」
「おばーちゃん、おかえりなちゃい! ごはん、たべてたよー」
「やっぱり、人が多い家って、にぎやかでいいわね。皆は?」
「かいくん、ねてる!」
「今、おなかいっぱいで」
「んー。さっすがさくらちゃんよね。私なんて、母乳涸れ涸れで、全然出なかったのに。あおいちゃんの卒乳から時間が空いていたのに、皆にちょっと吸わせただけで、びゅーびゅー飛ぶぐらいに出たんでしょ? 若いっていいなあ」
「いや、若いっていうより、毎晩類くんが赤ちゃんプレイでぶつぶつ……」
「うわあ! 母さんも、ごはんにしようよ! 座って! ビール?」
「うん。手洗いして、皆の様子をみたら、そうする」
聡子が洗面所に消えてゆく姿を眺めながら、つくづく思う。家族って、いいなあ。母乳の話は、そろそろやめてほしいけれど。
類はあおいを猫かわいがりだし、父も母も楽しそう。新しい弟もいる。
「あっ!」
さくらは聡子を追いかけた。
「お母さん、じゃない。聡子社長!」
「なあに? 急に、かしこまって」
聡子は鏡越しに答えてくれた。
「昼間の話の続きです。類くんは、地方に飛ばさないでください。これまで類くん、ずっと忙しくて、団欒に飢えていたと思うんです。今、ようやく落ち着いてきて、家族の時間を過ごせているのに、取り上げないでほしいんです」
「そう言ってくれるだろうと思っていたわ、さくらちゃんなら。了解。でも、類には内緒よ。家族の女に人事権を握られていたなんて知ったら、怒る」
「それも、そうですね」
うふふと、顔を見合わせて笑った。家族って、やっぱりいいなあ。
……ひとり、足りないけれども。兄の、玲(れい)が。
あのあと、玲は京都で修業を重ね、さらに知識を深めるべく、芸術系大学の聴講生になった。現在は、海外の染色技術を学ぶために、アジアやヨーロッパを歴訪している。今は、インドにいると聞いた。
目標は、自分の工場を持つこと。帰国後は、京都の郊外、大原か美山に染色の実験工房を構える計画らしい。
そして、独身。恋人もいない。
いとこの祥子(しょうこ)は大学院を卒業し、北海道内の女子大に教員として採用された。京都に、玲に未練はなかった。源氏物語の若手研究者として、研鑽を積んでいる。
浮いた噂はいくつかあるものの、決まった相手はいないらしい。
***
毎日が、とても忙しい。充実している。
娘はかわいいし、だんなさまもステキ。仕事も持っているし、住んでいるのは高級マンション。お金にも困っていない。
なのに、満たされない。
「私って、贅沢なのかな……」
もっと、働きたい。このままでは、『あおいちゃんのママ』『類くんのお嫁さん』で、終わってしまう。
さくらは、さくらでいたいと思う。
自分の夢を叶えたいと願うのは、わがままですか?
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