第12話(最終話)

 仕事終わりはいつも遅い。その分、凪と薫の朝も遅い。眠りに就く時間も遅いので、凪の仕事終わりにセックスをした後は、大抵夜の二時を回っている事が当たり前だった。

 そんな夏の、特に寝付けない夜。凪はソファの上で薫に後ろから抱きかかえられて、扇風機の風を受けながら、薫の持つ万華鏡に目を凝らしていた。晴天の窓から差し込む明々とした光を受ける万華鏡のオブジェクトは、幻想的に鏡面の虚像と実像とを交差させ、幾何学的に姿をゆっくり変えていく。

「おおー」

 凪はこの日、何度目かの「おおー」を口にした。全てが新鮮な刺激であった。

「楽しい?」

 不思議そうに薫が訊く。うん、と凪は十分前と同じ答えを口にした。

 十分? と凪は自分で気付き、ハッとした。薫は二十分近く、自分を後ろから抱きかかえながら、自分の胸のあたりに頭を置いて密着している凪の為に、ずっと万華鏡を回し続けているのだ。

 慌てて謝り、凪は体を起こす。下着姿だったお互いの体が離れ、扇風機の風が汗を冷やした。何を言っているんだと笑いながら凪の体を引き寄せた、ソファに寝転がったままの薫の上に再び、今度はうつぶせで倒れ込む。その感触が心地よくて、もう一言謝ってから凪は、ゆっくりと薫の体にキスを始めた。

 明日は休みだ。先月からフリーランスになった薫も、明日は凪に付き合って起床を遅くする。それでなくても、深夜を回って帰宅する凪の迎えで必然的に夜が遅くなる薫だったが、明日は特に遅く寝ていてくれる。大体、十一時くらいまでだろうか。それまでいつも二人は、下着姿か全裸のまま、寄り添って寝る。

 うっすら浮いた汗を舐め始めた凪に、薫がからかう様に訊いた。

「足りない?」

 答える代わりに、薫の腹筋を舐めながら頷いた。

 ……自分が薫に対してここまで性に開放的になるとは、付き合う前からは想像出来なかった。だが、自分がしたいという欲求以上に、してあげたいという献身の思いが強くなるのだ。

 薫はいつも、凪の為に時間と力を費やしてくれる。化粧、着替え、入浴、荷物持ち。泥酔して酷く足元のおぼつかない時は、一度だけだがトイレの世話もしてもらった。あまりにも恥ずかしくて、もうお酒は飲み過ぎないと誓った日の事である。

 薫は、それ程までに自分に身を費やしてくれる。彼が望む事を、自分の出来る限りの範囲で返すのは、凪にとって当たり前の事だった。セックスは、特にそれが顕著だと考えている。

 ただ、こうして薫の顔を見ずにペニスを咥えている時、不安になる。セックスが愛の最上級の形であるとして、しかしそれを最たる献身として薫に貢ぐ事は、『普通の事』なのだろうか、と。

 凪には、『普通』が出来ない。凪が薫の為に出来る事は、『普通のカノジョ』が出来る事の一部分にしかならない。もっと薫は、自分に望む事があるんじゃないだろうか。彼が与えてくれる愛の対価が、セックス。恋人なら、もっと捧げなければならないものがあるんじゃないか。

 仕事からの帰りにバーで軽く飲んだテキーラがいけなかったのだろうか。まだアルコールが、頭の中に悪い状態で残っている様な気がした。徐々に、気分が悪くなっていく。

「凪、どうした?」

 急に動きの止まった凪に不安を感じたのだろう薫が、体を起こしてそっと凪の肩に触れる。ああ、なんて優しいのだろう。なんて素晴らしいのだろう。相手を抱きしめるという事は。

 私は。私は。私は。

 気付けば凪は、半身を起こしたままソファの上で、ボロボロと涙を流していた。茫然自失とした表情で、ただ困惑した顔の薫を見つめて。

 自分より十も離れた歳上の彼の、困惑した顔が可愛らしくて、自分には勿体無いとしか思えなくて。

 堪え切れずに、凪は薫の腕の中で泣いた。泣いて、泣いて、えづきながら問うのである。

「私、生きてていいんだよね?」

「当たり前だろ、何を馬鹿な事言ってんだ」

「もう、後ろ指さされて笑われなくていいんだよね? 出会って二言目が可哀想なんて言われなくていいんだよね? すれ違う子供に怖いなんて言われなくていいんだよね?」

 不安が、不満が、押し寄せて、どうしようもなくて。

 ボロボロに泣きながら、自分の体を抱き締めてくれる薫の胸に頭を押し当てながら、ただ一つだけを、強く口にしたかった。


「私、井森さんと会ってから、薫君と出会ってから、不幸な事なんて一個も無いんだよ」


 それまで堆積した不幸という土砂が、凪の心と体を押し潰し、殺そうとしていた。それまでの過去から救ってくれた二人の存在が、あまりにも尊く、そして計り知れない程に大切な存在だったから。

 誰も聞いていなくとも、拡声器を使って、世界中の誰もにそう叫んでやりたかった。私は今、幸福なのだと。

 その幸福を与えてくれた井森と、そして何より薫に心からの感謝をしているから、自分がしてあげたいと思い実行した全ての行動は、全て愛故なのだと。

 それだけは、知って欲しくて。

「知ってるよ」

 薫は凪を抱き締めたまま、再びゆっくりとソファに横に横になる。「ありがとう」



 そうして時々泣いて、抱き締められる事を繰り返して。

 凪は、今日もバーでピアノを弾く。自分の出来る事、自分のやりたい事をして、誰かを笑顔にする為に。元気になってもらう為に。

 誰かが今日も、自分の事を嘲笑うだろう。馬鹿にするだろう。見下し、自分はああでなくて良かったと安堵するだろう。

 けれど。そんな人達と同じだけの数の人を、私はきっと幸せにしてみせる。

 それが、自分が生きる理由だから。

 クライマックスの演奏を終える。音の消える余韻がホールに響き、消失した。いつの間にか会話を止めていた客が、拍手をする。中には、涙を流している人も居た。

 自分の演奏が、彼ら彼女らの心を震わせたのだ。

 私は、今日もここに居る。私と、客と、そして私の大切な人の為に音楽を捧げる為に。

 凪は、ピアノの前に置かれた台座からゆっくりと足を下ろす。素足で触れる舞台はひんやりとしていた。たった今まで凪の足の指が叩いていた白鍵も黒鍵も、今は静かに彼女の挨拶を見守っている。トリを締める、彼女の一礼を。

 マイクを持ったMCが、紳士的に挨拶をし、すっと伸ばした指先を凪に向けた。観客を見渡す、この舞台の主役を。

「我らが誇る最高のピアニスト、青葉凪に、盛大な拍手を」

 一際の拍手。ただのジャズバーの客層から生まれたとは思えない、大きな拍手と歓声。

 私は、人に支えられて、ここに立ち、幸せになっている。

 どうか、皆さんも続いて欲しい。こうして幸せになった、私の様に。


 願いながら凪は、肘から先の無い腕を高く上げてから笑顔を振りまき、うやうやしく一礼をした。



(了)

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