第11話

「どうしたんだい、またボーっとして」

 薫は顔を上げて井森を見た。少し視界が揺れている。飲み過ぎたようだ。どうも、この状態になってしまうと口が軽くなっていけない。下手な事を口にする前に、ソフトドリンクを頼むとしよう。そう考えて、薫はまだ少しオレンジの香りが残るグラスを押しのけた。

「珍しく無理な飲み方をしてるね。……お友達の言葉に、まだ迷っているのかい? 君らしくない」

 少しじれったそうに、井森はそう言った。「なあ、君のその友人が、君と凪の事をどれだけ知っている? 話を一度訊いたきりだろう。そして、彼が会社勤めの社会人として、社会的・大多数的に『一般的』と言われている平均値を取って、その平均から外れている君と凪の関係性や環境に対して、それを『異常』と捉えて、一方的な説教をしたに過ぎない。君達は、そんなありきたりな『普通』に収まる生き方をしている訳じゃないだろう。だから、彼のそんなアドバイスは、全く無意味なんだよ」

「凪がそう思ってくれているか、自信が無い」

 ふらふらする頭で、正直に自分の思いを吐露した。デートの時に見せる笑顔、自分と会話をしている時の楽しそうな顔。それらは自分に向けられた顔だ。だが、相手に向けられた顔というものは、薫にとって疑わなければならない表情だという事を、悲しいかな、会社勤めの頃に嫌という程思い知らされてきた。どれだけ愛想を良くしても、腹の内で何を考えているのか分からない。自分に自信が無い。自分が胸を張って誇れるものが無い。だから、こんな自分に無償の笑顔を向けてくれるその存在の真意について、いつも疑念と思いを馳せてしまう。それが、薫の苦しみであった。

 感動する映画を観た時に流す涙は本物だろう。自分に向けられたものではないからだ。自分以外の誰かと話している時に見せる笑顔は本物だろう。自分に向けられたものではないからだ。

 自分に対して彼女は、本音で接してくれているのだろうか。

 彼女は、真に幸福であろうか。

 どれだけ自分が彼女に献身し、愛したとして。

「何か、努力して形にしなきゃならないんですかね。愛って」

 ぼやく。すると、今までで一番大きな嘆息をして、井森はカウンター越しに立ってうなだれている薫の髪の毛を掴み、強引に引き上げて自分の方を向かせた。いてて、と痛がる彼に、井森は叱責する。

「形にしなきゃ分からんものかね、お前の愛は」

「は? 形になった方がいいじゃないスか」

「……君、今努力しなきゃって言ったな。今まで君は、それをしなかったのか?」

 静かに、しかし僅かに怒気を孕ませた声で井森は訊いた。薫は自分の髪を掴む井森の手を払って答える。

「分からないですよ。当たり前の事しかしてこなかった」

「ほう。同棲相手が居ながら家事の殆どをこなして、化粧を手伝い、頭や体を洗ってやり、ほぼ凪の仕事終わりにこうして迎えに来て、服を着るのも手を貸して、夜も求められたら満足するまで付き合うその全てが、君にとっては努力ではないと」

 突然の公共の場での暴露に当惑し、一気に酔いが覚めた。何かを言い返そうとしてしかし、薫の頭は突然の事に混乱し、何も言えない。ただ、素早く周囲を見回して、井森の言葉が誰にも聞かれていないかどうかを確認する事しか出来なかった。そうして小声で、怒って尋ねる。

「何でそんな事!」

 だがそんな薫の様子にも関わらず、小馬鹿にした様な井森の表情は僅かに崩れ、微笑みを浮かべながら薫を見下ろして答える。

「全て、凪が話してくれるんだよ。楽しそうに。時々相談に乗ってるんだ」

「あの馬鹿……」

「だがね、相談なんて本当に時々しかしてこないんだよ。大概が惚気話だ。私の為に薫君がこんな事をしてくれる、今日はこれをしてくれた。こんな事を約束してくれた。エトセトラエトセトラ。全く、ほぼ毎日聞かされているから、君と顔を合わせる度ににやけそうになる。本当に、こっちは噴き出さない様にするのが大変なんだ。……だから、『普通』なら考えられない様な『努力や苦労』を、君が沢山している事は僕もよく知っている。でも君は、それを努力や苦労と捉えた事が殆ど無い。それが日常であり、君と凪との間にある絆の結果でもある。そして凪はそれに喜びを感じ、彼女なりに君に献身しているんだ。同棲を始めてからは特に、彼女の演奏は格段に良くなったんだよ。鈍い君は気付けないかも知れないが」

 流れる様に紡がれるその言葉に、薫はいよいよ耳の先まで赤くなる。もう分かりました、と強引に会話を打ち切って、それきり一切井森の方を見ずに、ただ演奏をする凪の顔を遠くに見つめるだけだった。

 それからは、凪の演奏が終わるまで、井森と会話をする間も決して彼の顔を見なかった。

 赤らんだ顔も、押し殺せないにやけ顔も、誰にも見せたくなかったから。

 凪以外の誰かには、決して。

 凪の舞台は、終盤に差し掛かっていた。

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