第10話
スーツを着たサラリーマン風の、背の高い男が自分の事をよく見ている。その事は、凪にも分かっていた。演奏中、顔を上げた先に見えるカウンターの隅に、ひっそりと座ってぼん
やりとこちらを見ているのだ。他の席に座る人達と違い、凪の視界に一番よく入ってくるので、その席や付近に居る人の顔は、覚えやすい。
始めは、嫌だった。凪が公園で男達に襲われた時の、あの感覚が足元から這い上がってくるようで、今までそうしてその席に座って凪に関心を寄せる男達は何人か居たが、そのいずれも、嘗ての記憶を想起させるような男達ばかりであった。
あのカウンター席に座って自分を見てくる男達は全員、遅かれ早かれ、凪を品定めする様な目で見始める。それが、凪にとっての限界の合図だった。その日の内に井森に連絡をして、客に圧力を掛けて出て行ってもらう。そしてもう、二度と来ない様にと何度も念を押させる。
それで店と井森が、追い返した客からの怒りを買う事は無かった。凪に目を付ける男は皆、同じ様なタイプの人間ばかりだったからだ。即ち、自分に従ってくれそうで、逆らわなさそうで、頼みごとを断れ無さそうだ、と凪を品定めしてから近付いて、いい仲になろうとする男達。彼らは皆、概して自分に自信を持たず、自分より弱い相手を常に求めてばかりだ。仕事でも、プライベートでも。
自分は、そういう男達からしか評価されない人間だ。
笑顔でステージに立ち演奏する笑顔の下で、凪は時々、そうした虚無感と孤独、そして恐怖に体を震わせていた。
……だが、薫というその男は少し違った。凪ではなく、凪の演奏を聴いて、観て、そうしてから私という全体を含めた存在を見ようとしている。そんな感じがした。とにかく、いつまで経っても彼は凪を品定めする目つきで見る事は無かったし、凪を奏者としてちゃんと見てくれていた。
だが、何処か心に疲れを感じている。いつも店に入ってやってきたばかりの頃は、そんな様子なのだ。仕事に疲れているのだろうか、と余計な心配をした事は何度かある。それでも、凪が舞台に上がって演奏を始めた時、彼は静かに私の方を見て、ぼんやりと演奏を聴き、そして少し柔らかくなった顔をして帰っていく。その様子を見るのが、凪は次第に楽しみになっていた。
不思議な男だとは思っていたが、理由は或る日突然に判明した。わざわざ彼をバックヤードまで連れていき、凪に対する本音を聞き出した様子を井森は、胸ポケットに入れたスマートフォンの録画動画を凪に見せて、ニヤニヤとした笑いを隠そうともしなかった。店を閉めた後でその動画を見せられた凪は、あまりにも真っ直ぐ過ぎる薫の言葉と、戸惑いつつも必死に、そして真摯に答えようとする動画の中の彼の身ぶり手ぶりに、見ている彼女の方が恥ずかしくなった。
こんなに赤くなった事が今まで一度でもあるだろうか、という程に赤面しながら腕で顔を隠す凪に、井森はスマートフォンをしまいながら提案した。
「僕個人としては、合格だと思うんだ。ちゃんと話した事の無い君に対して、だけど外見ではなく内面的なところを好きになったと言っているじゃないか。今までの男達は、『凪を見てどう思ったか』という質問に対して、文字通り外見に対する言い訳や弁明にも近い返答しかしなかった。『それでも私は彼女を受け入れます』なんて、傲慢そのものの答えしか返さなかった。でも、彼はそもそもそんな考えが頭の中に無かった。最初から内面を見ようとしていなければ、あの答えは出ないと思うんだ」
高鳴る心臓からハイテンポで送られる血流が、耳の中で轟音を立てている。井森の言葉が上手く聞き取れなかった。二十一年の生涯で、一度も言われた事の無い言葉の羅列に戸惑って、頭の中で整理が付かない。
けれど、一つ確かなのは。
薫という男に対して、嘗ての恐怖と嫌悪の感情は、もう全く湧いてこないという事だった。
井森を仲介人として、閉店後のバーの中で初めて薫と直接顔を合わせ、言葉を交わして。
最初に抱き、恐れていた男への感情も、すぐに消え去った。今までまるで求められた事の無かった、自分の内面という自分自身。それを知ろうとしてくれた薫に、凪は警戒を徐々に解いていった。
初めてのデートは、凪が井森に無理を言ってシフトを変えてもらい、休みをもらった日曜日。子供の頃両親としか行った事の無い、動物園。
楽しかった。全てが。
好きな人にエスコートしてもらうデート。奇異の目で見られる必要の無い外食。それまで多くの障害だった事も、薫に補助してもらいながら難なく済ませる事が出来た。お土産も持ってもらった。苦労して塗った日焼け止めが落ち始めた時も、丁寧に塗り直してくれた。支えられながらふれあい広場で小動物に餌もあげた。
何もかもが、経験した事の無い喜びばかりに満ち溢れていて、デートが終わる頃に堪え切れず、喜びで大泣きしてしまった。何度もありがとうと口にして、ただ普通に『誰か』と『普通の時間』を過ごせた事が、嬉しくて。
その日はもう一度、涙で流れてしまった日焼け止めを塗ってもらった。
今まで一度も与えてもらえなかったものを、たった二ヶ月の間に数えきれないくらい与えてくれて。凪も、薫に与えたいと思った。一回り近く年上の誠実な彼に、自分が出来る精一杯のお返しは何かと考えて、色々試してみたけれど。どれも、上手く行きそうになくて。
だから、という訳ではないけれど、交際開始から二ヶ月が経過した或る日、凪から薫を誘った。私の体が嫌なら言って欲しい、とも言い添えて。
馬鹿言うなよ、と呆れながら笑って、薫は優しく凪を抱き締めた。
初めては、薫の家だった。仕事終わりにいつもの様に迎えに来てくれた彼に連れられて、彼の家へと入って。
鍵を閉めた後は二人共、言葉を交わさず、玄関の明かりを点ける暇さえ惜しみ、荷物を放り出してキスをした。それまで違う、凪のした事の無い、舌をからみ合わせる激しいキス。一瞬だけ、公園の記憶が蘇った。けれど、優しく温かい薫の包み込む様な手の感触が、その悪夢の記憶を上書きしていく。
お姫様抱っこで抱えられて、凪はあまりにも自分に不似合いなその状態にキャッキャと笑いながら、笑顔の薫にベッドまで連れて行かれた。シャワーを浴びる暇さえもどかしいと思えたのは、お互い様だったらしい。
十分以上も掛けた、長いキス。その間、秋服の上から薫は凪の体をまさぐり続けていた。服の上から触れられる自分の性感帯と、服の上から分かる薫の手の形に、意識が奪われていき、気分が高まっていく。
息継ぎの為の呼吸音に僅かな色が混ざり始めた頃、薫は凪の服を脱がし始める。鼓動が高鳴り過ぎて、耳が痛かった。誰かに体を触れられるという事が、ここまで気持ち高ぶる事だとは。
自分も彼に触れれば、彼は気持ちよくなってくれるのだろうか。
考えて、少しだけ悲しくなって。
それでも、薫は耳元で小恥ずかしい、甘い言葉を囁きながら、凪の体を撫で、そしてキスを繰り返した。露出した肌を舐めるその仕草に身をよじらせつつ、凪は意図せずに自分の口から漏れる、荒い息を抑えられない。薫の息も荒くなっていた。
ブラが外される。秋の月明かりが差し込む薄暗い部屋で胸を隠そうとしたが、隠しきれない。凪よりも先に裸になった薫が、凪のパンツも脱がせる。彼は、閉じようとする凪の脚を撫で、時にキスしながら、徐々に開かせていく。
秘部を舐められる。感じた事の無い刺激に、体が跳ねた。未知の刺激から来る一握の恐怖は、すぐに消え去っていく。漏れ出る息に、抑えられない声が混じり始めた。初めての体験だった。
気持ちいい。下半身、ヘソよりもちょっと下の辺りが熱を帯びていく。もっと続けて欲しい。そうも思ったけれど、薫の体が自分の体から遠くへ離れてしまった事が寂しくなって、思わず「行かないで」と声を零した。すると薫は凪の秘部から顔を上げて姿勢を変える。頭を凪の股間に据えたまま、下半身を凪の方へ向けながらお互い、側臥位になって向き合った。
無理しないでいいよ、と言った薫ではあったが、凪にとって無理な事など、今は何も無かった。凪はゆっくりと、震えながら薫のペニスを咥える。
膨れ上がっていたペニスは、唾液と絡ませながら口の中で滑らせると、更に大きくなっていった。正しいやり方など、分からない。けれど、薫の体が近くにある。彼を満足させられる距離に居る。その事実が、がむしゃらにも彼女を動かした。
しばらくそうしている間、凪は自分が極度に誰かと密着する事を望んでいたのだと自覚する。高校までの間にクラスメイト達が幾度となく交わしていた、抱き合う事で親密さを確認し合うそのスキンシップ。凪に、それは許されなかった。自分は誰も抱き締められなかった。抱き締められないという事は、誰かにお返しとして抱き締めてもらう事も出来ないという事だ。逆も同様で、もし誰かが凪を抱き締めてくれようと、凪には抱き締められない。その権利も資格も無い。そんな凪を、今まで誰も相手にしてこなかったから。
……一度だけ、人生に自暴自棄になって暴れた時、母と井森に抱き締められた事はあった。あの温かく、全てを許してくれる様な感触は、一体この世の誰でも味わえる事の出来るものだったのだろうか。だとすれば、それまで抱き締めてもらえなかった自分は、一体どういう生き物なのだろう。そう思った事もある。
だから、愛しい人の体温をすぐ傍で感じられるというその事実が、とても嬉しくて。
だから凪が仰向けに横たわって、遂に挿入される時、薫に一つお願いをした。私の体を離さないで欲しい。ずっと抱き締めていて欲しい、と。
押し潰されてもいい。そんな、苦しいまでの愛が欲しかった。
ベッドと背中の間に回された、硬い腕の感触。乳房に当たる硬い胸板の感触。どれも、凪には無い物。どれも、自分を大切にしてくれるもの。
最初はゆっくりだったペニスの運動が、自分の体の中で速度を増す。一定の速度で擦れ、動くその感覚にこの上無い愛しさを感じて、凪は気付けば、自分でも上げた事の無い嬌声を上げていた。体の中心からゆっくりと湧き上がる快楽に戸惑い、それを押し込めようとするけれど、腰を動かす薫の動きに合わせて堪える声がまた大きくなるばかりだった。
動いてみるかと訊かれて、支えて欲しい、と答える。繋がったまま薫は凪の体を起こし、体を密着させたままで凪の背中と腰を支える。
自分で、動く。その動作の意味を考えながら、興奮で頭を白くさせながら、膝立ちの脚を踏ん張らせ、凪は体を上下にゆっくりと動かした。動きに合わせ、彼女の下で薫も腰を上下させる。先程までよりも、薫のペニスは深く刺さった。
これ好き、と荒い声で口にする。薫が次に言葉を発するよりも前に、凪はその口を自分の口で塞いだ。
全てが、近い。きっと今以上に、彼以外に、自分が体と心を寄せる相手は居ないだろう。そんな感激が凪の頭を支配した。思考は単純化し、体と心は貪欲に薫を求め続けて。
先に果てたのは薫だった。スキン越しにペニスが脈打ち、射精しているのを感じる。動きを止めなかった凪だったが、私の体で果ててくれたのだ、と理解したその瞬間に彼女の内側からも強い衝動が湧き上がる。そうしてもう少しだけ動き続けて、薫が完全に脱力するのとほぼ同時に、凪も絶頂を迎えた。自分の意思で制御出来ない痙攣というものを、人生で初めて味わいながら、凪は震える体をゆっくりと上げてペニスを抜き、そのままベッドに腰を落としてへたり込んだ。
外したゴムの口を縛ってゴミ箱に捨てた薫は、ティッシュで自分と凪の体の汚れを簡単に拭いてから、それも捨てて凪の横に寝転がった。
もう少し甘えたかったけれど、四十分にも及ぶ自分の行為を想起すればする程に顔は尚熱くなり、薫の顔が見られなくなってしまう。
私は、お返し出来ただろうか。
その質問は、また次回にしておこうと決めて、二人は寝る事にした。
寝る前に、近付いた凪の誕生日には何が欲しいか、と薫は誤魔化す事無く率直に訊いてくる。そういう性格なんだろうな、と可笑しくなってクスリと笑い、凪は答えた。
「万華鏡が、欲しい」
「え? でも……」
「うん。だから、後ろから抱き締めて、私に見せて欲しいの」
とても素敵な、姿を変え続ける万華鏡のオブジェクト。動画で見た事はあっても、一度もその手に触れた事は無くて。
凪は、万華鏡の実物を見た事が無かったのだ。
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