第9話

 仕事で心を疲弊させていた薫にとって、社内で、もしくは合コンなどで彼女を作ろうという気概など湧く事は無く、ただ無味乾燥な仕事だけを辛うじてやり過ごす、そんな生きがいの無い日々が続いていた。きっと、その傾向は入社当時からあったに違い無い。

 パートナーが欲しくない訳ではない。だが、出会おうという気概があまり湧かなかった事、そしていいなという相手を見付けてもそこから先に自分の感情が進む事は無く終わっていた事が原因であった。

 後者の理由は、薫にとっても理解に苦しむ原因である。何故、自分が相手に惹かれる事無く終わるのか。

 その理由が、凪を見て分かった様な気がした。

 彼女の体には、一本の芯がある。他のどんな外的要因に晒されても揺らがず、自分の指針、自分の信条、自分のルールに従って生きる為の、しっかりとした『自分自身』の姿勢が、凪から感じられたのである。単に容姿だけでなく、彼女の立ち居振る舞いの美しさに目を奪われたのも、それが理由だろう。そう思えた。

 だから、仕事で疲弊した薫はしかし、自宅からそこそこ離れたこのバーまで、週に二、三回は通う事となり、すぐに井森を始め従業員や一部の客とも顔見知りになった。恐らくその頃には、もう薫の凪への想いは薄々、井森達に気付かれていたと思う。薫も、一方的にその想いと感情をぶつける事はしなかったが、しかしそれを隠す事もしなかった。

 そして同時に、客と奏者という関係を超える事はまだ、この時は出来なかった。井森は常に薫の近くに居て、薫と凪の関係が深まる事を良しとしないのか、何かと口を挟んだりしていたのである。

 始めはその態度に違和感と疑問を覚えるだけだった薫であるが、次第にそれは不信感に変わり始めた。

 最初は、恋慕かなとも邪推した。だが、立ち居振る舞いや言葉、そして井森の気の掛け方などから、恋愛感情を超えた何かである事を薄々察する事が出来る。しかし、やはりそれでも苛立ちは募るばかりで、薫は或る日、凪が舞台に居ないタイミングを見計らって小声で井森に問い掛けた。

「ねえ。俺の何が不満なんです? 何故そんなあの人に対しての話題で、そんな牙をとがらせるんですか?」

 問うと、それまで必ず接客態度として浮かべていた柔和な笑みの下に隠していたであろう、井森の険しい顔が初めて垣間見えた。その険しい顔は、真っ直ぐに薫の目を捉えて、口を開く。

「身も蓋も無い端的な話をしてしまえば、君が男だからだ」

 その答えに、薫は困惑した。「俺は……」

 何かを言おうとしたが、店内の他の客に聞かれない程度の小さな声で、しかし滲ませた怒りが染み出す様な声音で、井森はそれを遮った。

「あの子は昔、男の所為でそれからの人生を無為に、そして今までの人生を否定されて終わるかも知れなかった。今でも彼女は一人で夜道を歩けない。客としてしかあの子の事を知らない誰かに、あの子の見た目だけしか知らない男に、想いを遂げさせてやろうなんて思わない」

 分かったら今日は帰りなさい、とまるで親の様に言うそのバーテンは、店員としては失格なのだろう。けれど、凪を守る男という意味では、これ以上頼もしい相手は居ないだろうと思えた。これが、あの女性を守る男としてあるべき姿なのか、と薫は一瞬思い知らされそうになる。が……

 本当に、そうだろうか。

「何故そんなに、あの人を縛るんですか?」

 はた、と井森は手を止めて、再び薫の顔を見る。だが今度は、険しい顔ではない。ただ、じっくりと品定めする様な目つきをしていた。

 そのまま何かを話せばよかったのだろうが、薫はそこから先の言葉を離せなかった。その井森の目に、射抜かれてしまっていたのである。

「……ちょっとだけ、奥に来てもらえますか」

 言いながら井森はグラスを片付け、近くのバーテンダーに簡単に引継ぎをしてから、薫を店の中へと誘った。静かで何処か物憂げな雰囲気で統一されていたホールと違い、ゴミや生活雑貨などで溢れたスタッフルームは狭く、生活感に満ちていた。厨房脇を抜け、バックヤードの扉を開ける。八月の雨の湿度と匂いが広がり、薫達の顔面を打った。店の入り口同様の半地下のバックヤードは、ゴミ置き場と併設する形で喫煙所がある。喫煙所と言っても、灰皿が一つ置かれているだけの簡素なスペースだった。

 土砂降りの豪雨の音にまぎれて、煙草をふかす井森が問う。

「答えるのはゆっくりでいいですよ。……僕が、どんな風にあの子を束縛していると思いましたか?」

 薫は、幾分か柔和になった井森の態度に戸惑いつつも、答える。

「あの人を守るという以上に、井森さんの言葉から、『もっと広い世界を見せてあげたい』って思いを感じました。けれど、実際の井森さんの言葉は、彼女を狭い世界に閉じ込めるだけの言葉だったから……」

 答えると、煙草を指に挟んだ手の隙間から覗く井森の口元が、僅かに緩んだ様に見えた。まるで、期待した答えを聞く事が出来た、と言う様に。はて、と薫は疑問に思う。彼は、自分の事の答えを期待したのだろうか。だとすれば、さっきカウンターで見せた怒りの表情も言葉も、狙ったものだったのだろうか? 自分は試されたのだろうか?

「じゃあ、一つ、話を変えて。……凪を見て、どう思っていますか?」

 言われて、薫は少し戸惑う。容姿を褒めるだけでは、やはり井森の基準としては不適当だろうか。

 経験は無いが、何だか結婚相手の父親に品定めをされている気分だな、という奇妙な居心地の悪さを感じつつも、薫は答える。

「ええと、自分にしっかり芯があって、自分のスタイルを貫いて演奏してる姿がとても素敵だと思います。楽しそうに演奏しているのも魅力的だし、笑顔も……」

 三十を過ぎた大の男が、小恥ずかしい事を惜しげも無く口にして困惑している様は、余程滑稽だろう。しかも場所は、店の半地下のバックヤードで、雨とコンクリート、そして煙草の匂いに包まれている。

 あまりにも不格好でしどろもどろな、しかし正直に薫自身が凪に対して感じた思いを、正直に話して。

 井森は、今度こそ面喰った顔をして薫を見ていた。

「それだけ、ですか?」

「え、た、足りなかったですか……」

「いえ、そうではなくて……」

 何かを考え、言おうとしている。そんな悩ましげな表情をしていた井森は、しかし突然目が覚めたと言わんばかりに相好を崩し、あはは、と笑い始めた。

 何が何だかさっぱり分からない。取り残された様な疎外感と困惑を抱えながら、井森の笑いが収まるのを待ち、改めて訊く。

「俺は、一体……」

「合格ですね。いや、おこがましい言い方かも知れないですが。でも、多分君とならもしかすると、と思ったんです。……また今度、来てくれますか。今夜、凪に話してみますから」

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