第8話

 井森は、凪の母方の叔父にあたる。しかし一言で叔父と言っても事情は少し複雑で、凪の母とは父親が違うらしい。

 しかし兄妹仲は良好だそうで、母とは連絡を時々連絡を取り合っており、先のコンクールの時も、是非に、と彼を招待していたらしい。また、これは後に知った事であるが、彼は凪の母に対して金を工面してやる時もあったと言う。大抵母はそれを丁重に断っていたが、「じゃあ凪ちゃんへのお祝いで!」という名目を多々利用し、金を受け取らせていたという。

 家に引き篭もっていた凪にこの度会いに来たのも、そうして何かにつけて「凪のお祝いに」と口を開いてきた彼の事だったから、何かお節介のつもりだったのか。とにかく男に対して恐怖を抱いていた凪は、家に突然来訪した彼の事さえも警戒し、ソファの隅に座ってじっと、睨みつける様に井森を見ているばかりだった。

 当たり障りの無い適当な話を振ってくる井森だったが、悉く反応を示さない、返事をしない凪に対して誤魔化す事を止めたのだろう。井森は真面目な顔をして本題に入った。

「実はね。将来、うちの店で働いてみないか、って誘いに来たんだ。凪ちゃんのその、ピアノを弾く技術を使ってもらいたい」

 思ってもない提案。ただただ、凪は驚いた。

 私の、ピアノで?

 私を、知ろうとしてくれるの?

 ……あえかな希望にも似た感覚を抱き掛けていた凪であったが、次の井森の言葉でその心は少し冷めた。

「働いてもらう条件として、高校を出る事。約束してくれるかな」

 結局、両親と同じだ。学校へ行きたがらない自分を外へ出す為の方便を、適当に口に出しているだけに過ぎない。

「帰って」

 だから怒って、凪はその日、そう言って井森を帰した。けれど彼は、また来るよ、と言って笑顔で家を後にした。



 そうして本当に、何度も家を訪ねてきた。しかも夕方、二日と開ける事をせず、脚しげく。余りにもしつこく訪問しては世間話だけをして帰る。時々、学校と仕事について軽く触れる。あまりにもそんな事ばかりしている様子だったので、堪らずに凪は訊いた。

「叔父さん、何の仕事してるの」

 フランクな調子の彼は、やはり軽い雰囲気で答える。

「ああ、言ってなかったね。ピアノジャズのお店だよ」

「ピアノジャズ……?」

「まだ奏者が少なくてね。色々声を掛けてるんだ」

 それを聞いてまた、凪は鼻で笑った。ソファの隅で体を寄せて、井森から一番遠い距離で床に座った彼を見下ろすその姿勢が、しかし凪にとっては最も相手と対等に話せる姿勢で、その立ち位置の関係のままに、凪は嘲った。

「プロを雇えばいいでしょ。余計に私なんか、同情か客寄せで演奏させて、お涙な演出をさせる気なんだ……」

「それは、違う」

 声のトーンが突然変わり、井森は低い真剣な声で答えた。凪は体を強張らせ、井森の方へ向き直る。

 彼の目は、真っ直ぐに凪を見ていた。

「凪ちゃんの演奏だから、僕が何より見てみたいんだ。あのステージで、他の誰でもない君が、ピアノを弾くのを」

 芝居掛かっていない、ゆっくりとした本音の言葉。押し付けがましくも圧迫感も無く、しかし静かに大きく相手の懐に飛び込んでくる様な、そんな言葉。

 彼は本気なのだと、ようやく凪も理解し始めた。



 それでも、結局高校には行かず、退校した。かろうじて吐き気と恐怖を抑え込み、通信制を利用し、誰かと関わる事を極力避けながら時間を掛け、結局卒業までに四年の歳月を要した。

 それでも、強制的に外気に体を触れさせる事で、凪の体は徐々に外出への抵抗を減らす事が出来た。だが夜道は未だに恐ろしく、手間を掛けているという自覚を持ちつつ、登校すると決めた日には担当の女性教師や、時に井森に送り迎えをされながら学校を卒業して。

 十九歳になった凪の目に飛び込んできたジャズバーの世界は、煌びやかで美しかった。

踏み込んだ事の無い夜の世界。大人の空間。休業日だったので人は居ないが、この店の席で人が座り、語らい、彼らが演奏を聴きながら酒を飲む。そんな、今まで凪が存在していた世界だけからは想像も出来ない、道の世界がそこには広がっていて。

 通信制に通いながらも毎日欠かさずピアノを弾き、心の中で燻り続ける怒りの炎を、音楽にぶつけ続けてきた凪の燃え上がる炎は、その舞台を目にし、優しく、人を温かく照らす蝋燭の炎へと変わろうとしていた。

「君の為の採用枠は一つ、まだ採ってある。これから店長と面接だけど……まあ、凪ちゃんなら上手くやると思う」

 言って掃除中の店のスタッフに声を掛け、凪を店の奥へエスコートしようとする井森に、彼女は、それまでずっと疑問に思っていた事を問う。

「どうしてここまで、してくれるんですか」

「? 姉から……君のお母さんから、僕については聞いていない? どうして僕が親族から鼻つまみにされて、他の親族と碌に関わってないかって」

 質問に返された質問で少し苛立ったが、凪は黙って首を振る。井森は答えた。

「僕は両親に、ゲイだった告げたんだ。十年以上前かな。今程世間は寛容ではなかったし、家族は古いタイプの考え方しか出来ない、年上ばかりだった」

 清掃の為にテーブルに上げられていた椅子を一つ下ろし、井森はそれに腰掛けながらゆっくりと話した。凪も、椅子の掛かっていないテーブルに座り、井森の顔を見てじっと話を聞いていた。「大変だったね、それからは。母親は泣き続けるし、父親は怒鳴って何度も僕を殴った。汚らわしいだとか、俺をそんな目で見るのかとか……人格を否定される罵倒はひとしきり言われたんじゃないかな。馬鹿げてるよ」

 おちゃらけたいつもの調子で、しかしどこか物憂げに、そして懐かしむ様にそう井森は話した。

「私のお母さんとは、どうしたの」

 ただ凪は、そう訊いた。

「へえ、としか言わなかった。ご存知の通り、仲もいい。だから凪ちゃんの事も知れたし、こうして縁も出来た」

「縁?」

「……二人共、世の中からのどうしようもない疎外感を感じている」

 凪は言われて一瞬、ドキリとした。「どれだけ常識的な社会通念の中で生きようとしても、個への意識改革は容易に生まれない。これは、何年も何十年も掛けて、世代単位で浸透させて変えなければいけない話だ。変革をいたずらに急いでも、個人は簡単に変わらないから、容易に追いつく事は出来ない。特に容姿とセクシャリティの問題は、人の恋愛感情や生理的反応に強く根付く感覚だからね。そもそも、変える事自体に意味があるのかも怪しい話になってしまう」

 その言葉を噛み砕く様に自分の中で理解して、そして凪は、ああ、やっぱり、と意気消沈し始める。自分がここに居る意味とは、つまり。

「同情で私を、ここに連れて来たの? そりゃ、今まで苦しかった。努力もした。血が出るくらい。普通である為の努力が、特別になろうとする努力よりもずっと大変だって、誰も理解してくれないから、だから私を連れて来たの? 自分と同じく、ハンデを持ってるから?」

 ゆっくりと、怨嗟に近い疑問の言葉を吐き出し続けていく内に、凪は自分がみじめになっていく様に感じた。

 同情で、自分の能力は買われたのだろうか。

 同情で、私の努力と過去はひとくくりにされたのだろうか。

 顔を俯ける凪に、しかし井森は断言する。

「僕は絶対に、主観と独断で君の過去と人生を決めるつもりは無い。君が今まで幸福だったか不幸だったかは君自身が決める事だ。……でも、僕が言いたいのはそこじゃない。君はここで働けば、君自身が今よりも幸せになれるだろうと思えたからだ。ここで働く意味がきっとあると直感した。だから、僕はそれを信じて凪ちゃんを誘ったんだ」

 凪のプライドをないがしろにする意図で招いたという事は、決して無い。井森は真っ直ぐな目で、凪を見据えてそう答えた。

 誰も信じられなくなった、心に傷を負っていた凪ではあったが、彼のその目と言葉だけは信じたくて、「分かった」と短く答えた。

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